Tiny garden

初めてのおつかい(1)

 庸介とプールに出かけた翌日、私は彼に、夜に部屋に来てくれるよう頼んだ。
 午後八時に訪ねてきた彼は、少しそわそわした様子だった。
「何かご用ですか、お嬢様」
 戸口に直立不動で、目を合わせないままでそう聞くから、私は思わず笑ってしまった。
「話がしたかっただけだよ。入って」
 実は私も緊張していたけど、庸介の様子を見たらすっかり解けてしまったようだ。
「失礼いたします」
 庸介はまだ硬い面持ちで部屋に入ると、きっちりとドアを閉めた。
 あっという間に二人きりになる。

 妙に静かな部屋の中、私はまずお気に入りのソファに腰を下ろした。
 それから、立ち尽くしている庸介に声をかける。
「座ったら?」
「いえ、お構いなく」
 庸介はかぶりを振ったけど、突っ立ったままの彼と、私だけが座って話をするというのも落ち着かない。
 それに庸介と離れているのはちょっと寂しい。
「別に誰も見てないよ、座ってよ」
 私は尚も促して、それでも動こうとしない彼をからかってみる。
「まさか、この部屋に監視カメラでも仕込んであるの?」
「そんなはずはありません」
「ならいいじゃない。誰にも怒られたりしないよ」
「怒られるのが怖いわけでは……わかりました」
 ほんの少しだけ不満そうにした庸介が、私の隣に腰を下ろす。
 普段は私しか座らないソファが、二人分の体重に悲鳴のような音を立てた。庸介がすぐ隣にいる、それだけで触れ合ってもいない左肩がほんのり熱い。今日はお香を焚いていない部屋に、微かに石鹸のいい香りが漂う。
「……あ、石鹸。使ってくれてる?」
 その香りには覚えがあった。私がニースのお土産に買ってきた、フラゴナールの石鹸だ。
「ええ、せっかくですから」
 頷きながらも、庸介は慌てていたようだ。私が匂いを嗅ごうとするのを避けるみたいに身を逸らす。
「や、やめてくださいお嬢様」
「何で駄目? それジャスミンだよね、匂いでわかる」
「そうですが……恥ずかしいですから」
「どうして恥ずかしいの?」
 庸介の恥ずかしがるポイントがいまいちよくわからない。私はお土産にあげたものを使ってもらえて、とても嬉しいのに。
「私も使ってるんだよ。違う香りのだけど」
 ちょうどお風呂上がりだった私が彼の方に腕を伸ばせば、自分が嗅がれるのをあれほど嫌がった庸介は、全く抵抗なく私の香りを確かめた。そして驚いたように目を見開く。
「優しい、いい香りがしますね」
「アイリスだって。気に入ってるの」
「お嬢様にぴったりですよ」
 庸介はやっと微笑んで、そう言ってくれた。
 だけど敬語で言われると、仕事で言われているみたいな感じがして微妙だ。わがままかもしれないけど、そこは違う言い方がいい。
「いつもみたいに言って」
 私がねだると、庸介は怪訝な顔になる。
「今のは、いつも通りだったかと思いますが」
「違う。幼なじみっぽく!」
「俺にとっては『いつも通り』ではないです」
「何で? あれが素の庸介なんじゃないの?」
 そう尋ねてみたら、彼は困惑した様子で首を傾げた。
「少なくとも六花お嬢様に対しては、俺はずっとこうでしょう」
 それはそうだけど。
 ずっと小さな頃から――私が初めてのおつかいをしたあの頃には既に、庸介は私に敬語を使っていた。私にとっても慣れ親しんでいるのはこちらの庸介のはず、だけど。
「私は、幼なじみの庸介が好きだな」
 思わずそう呟いてからふと、あまりにもたやすく『好き』と口にしてしまった自分に慌ててしまう。
 いや、好きだけど。昨日もそう言ったばかりだけど、毎日言えるほど私のハートは強くない。
「好きっていうのは、えっと、そういう意味じゃなくて……」
 訂正しようとしても言葉が出てこなくて、逆に庸介から突っ込まれてしまう。
「そもそも『そういう意味』がどういう意味なのかわかりませんが」
「い、いいじゃない別に! どういう意味でも!」
「いえ、是非伺いたいです。気になって今夜も眠れなくなります」
 意地悪なのか何なのか、真顔で追及してくるところが憎らしい。
「だったら寝なきゃいいでしょう!」
 私も意地悪で返したら、そこで庸介はおかしそうに笑った。
「俺にお嬢様のことを一晩中考えろと仰いますか? かしこまりました、そのようにいたします」
 そこまで言われると反論も出てこなくて、私は逃げるようにそっぽを向いた。

 お互いに黙り込む時間がしばらく続いた。
 その沈黙を、やけに長く、重く感じている。
 思えばこれまで、庸介と二人でいる時の沈黙を意識したことはあまりなかった。庸介は用がなければ黙っているのが普通だったし、私も好きな時に言いたいことを言えた。その頃の私たちの関係はまさに『お嬢様と使用人』でしかなかったのだと思う。
 だけど今は、黙っているのが苦しい。
 それでいて、二人でいるのが嬉しい。
 話したいことはたくさんあって、上手く言葉にならないのが苦しくてしょうがないのに、隣に庸介がいてくれることが嬉しかった。このままずっと一緒にいたい。だけど黙っているのは辛い。そんな矛盾した気持ちを抱えている。

 八月も終わりが近づく夜遅く、微かに虫の声がする。
 すぐ傍から石鹸のいい香りもする。

 ずっと黙っていたら、庸介が真横から顔を覗き込んできた。
「からかってすみません、お嬢様」
 表向きは申し訳なさそうにしているけど、目が笑っている。
 私は照れ隠しで彼を睨んだ。
「許さない」
「それは困ります。どうしたら許していただけますか?」
「じゃあ、部屋にいる時くらいは幼なじみになって」
「申し訳ありませんが、できかねます」
 あっさりと拒否した庸介が、笑い混じりの溜息をつく。
「あれは俺にとって、理想の自分の姿なんです」
「理想? なりたい自分ってこと?」
「ええ。ずっと考えていました、使用人の家に生まれていなかったらどうだったのかと」
 いつも冷静な庸介の目が、今夜は切なげに私を見ていた。
「幼なじみだったら……昨日も、俺の方から言えていたでしょうね」
 そう言われると、自然と昨日のことを思い出す。
 プールで泳いだ帰り道、二人で家まで向かう途中での告白。
 あの時の私たちは、それでもまだ『幼なじみ』ではなかったのだろうか。
「昨日も言ってたね。先越されたの、ショックだった?」
 そう尋ねたら、庸介は思案に暮れた後で頷いた。
「ショックだったのかもしれないです。昨日も申し上げた通り、俺にとってはずっと言いたくても言えなかった想いでしたから」
 それから、ちょっとだけ恨めしそうに苦笑を浮かべた。
「俺が何度も何度も何度も呑み込んだ言葉を、お嬢様はあっさり口にしてしまわれた」
「あっさりって言うほどじゃないよ。私だって勇気を振り絞ったんだから」
「俺にとっては、勇気だけでは口にできない言葉でした」
 一度目を伏せてから、改めて私を見る。
 いつでも冷静なその眼差しを、私はずっと頼りにしてきた。だけどこうして二人きりの時に、至近距離で見つめられると、落ち着くどころかどきどきしてくるから困る。
「ありがとうございました、お嬢様」
「どういたしまして。……ううん、こちらこそ、かな」
「ええ。この夏のことは、きっといつまでも忘れられない思い出になります」
 庸介が幸せそうに息をつく。

 彼が浮かべる満ち足りた表情を、私もこの上なく幸せな気持ちで見つめた。
 お互いに、いい思い出ができた。この先の未来を変えていく、何年経っても忘れることのない出来事だ。
 だけど気がつけば、思い出深い夏休みも終わろうとしている。

「思い出が一つだけでいいの?」
 終わりが見えてくると寂しくなって、私は庸介をつついた。
「もう一つくらい、何か欲しくない? 夏休みの思い出」
 その提案は庸介を思いのほか驚かせたようだ。途端に目を白黒させ、その目で私を凝視した。
「……今、ですか?」
 問い返す声もやけに慎重だ。
 違和感を覚えつつ、笑い飛ばす。
「何言ってるの。今からはどこにも出かけられないよ」
 夜の外出は、父母同伴でなければまずお許しなんて出ない。
 庸介と一緒だと言ったら、もっとややこしいことになる。
 夏の夜の花火とか、夜の海を見に行ったりだとか、そういうのも憧れるけどまず無理かな。
「残りわずかの夏休みで、また何か思い出作れたらなって思って」
 とりあえず、私たちにできることをしたい。浮かれ気分でそう告げたら、庸介はようやく理解したというように何度か頷いた。
「ああ……そういうことですか」
「どういうことだと思ったの?」
「いえ、別に。確かにもう一度くらい、二人で過ごせたらいいですね」
 早口気味にそう言った庸介は、気を取り直した様子で顔をほころばせた。
「日数の余裕はないですが、何か考えておきます」
「うん、お願い。できたらでいいから」
「かしこまりました」
 いい返事の後で、庸介はソファから立ち上がる。
「ではそろそろお暇させていただきます」
「えっ、もう? まだ話し足りないよ」
 これから作る夏休みの思い出のこと、いろいろ計画も立てておきたかったのに。
 だけど時刻はもう午後九時を過ぎている。あまり遅い時間までここにいることを気づかれたら、皆に余計な詮索をされそうだ。仕方ない、かな。
「明日、朝食をお持ちするまでの短い別れです」
 庸介はそんなふうに私を宥めた。

 時間にして半日もない。
 短いとは言うけど、今は無性に長く思える別れ。寂しくないはずがない。

「……次はもっと、付き合ってる間柄っぽく過ごしたいな」
 ドアの前まで見送りながら、ちょっとわがままを言ってみる。
 するとドアノブに手をかけた庸介が、開けるより先に振り向いた。何か言いたげな顔をして、その通りに口を開く。
「『付き合ってる間柄っぽく』というのは、具体的には?」
「えっと……ハグしたりとか?」
 とりあえず思いついたことを言ってみる。
 漫画だとそういう愛情表現は普通のことだ。付き合ってすぐにする人たちもいる。付き合う前にする人たちさえいる。
「と言うか、ソファに並んで座ってたんだから、肩を抱くとかあってもよかったね」
 私が駄目出しすると、庸介は途端に眉を顰めた。
 だからまた『変な漫画を読んで』なんて言うのかと思いきや、いやに真面目な顔をする。
「駄目です。それだけで済みそうにありませんから」
「……え?」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
 そして静かにドアを開け、彼は廊下へと消えていく。

 部屋の中、一人ぼっちになった私は、庸介の言葉の意味を考えた。
 そしてしばらくしてから、
「――ええ!? ちょっと、それこそどういう意味!」
 うっかり深読みしてしまったらもう駄目で、思わずその場にしゃがみ込んでうろたえた。
 庸介ってば何てことを言い残していくのか――それとも私の恥ずかしい勘違いなのか、確かめたいけどとても聞けない。

 彼が残していったのは言葉だけではなく、石鹸のいい香りもそうだった。
 それはしばらく私の周りを漂って、お蔭で眠れない夜を過ごした。
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