水の青さを比べても(6)

 プールを後にしたのは、予定通り午後三時頃だった。
 ここからまた電車を三本乗り継いで帰る。そのこともあって、帰路はほんの少し憂鬱だった。
 前のデートの時にも思った。このまま帰るのは寂しい。物足りないから、どこかに寄って帰りたくなる。
 さすがにプールの後にどこか寄っていくのは体力的に辛いだろうけど、でも以前と同じ寂しさ、物足りなさが込み上げてきていた。

 夕方のラッシュを避けたからか、電車では座っていく余裕もあった。
 庸介の隣に並んで座ると、半袖から伸びた腕同士が触れ合った。日焼けしたからだろうか、皮膚の表面が火照ったように熱い。前に手を繋いだことを思い出しながら、自分の手を彼の手に重ねてみた。
「……六花」
 小声で私を呼んだ庸介は、すぐに手を握り返してくれた。
 繋いだ手を見下ろして、何だかすごく嬉しくなる。
「今日、楽しかったね」
「喜んでもらえたならよかったよ」
「庸介は? 庸介も楽しかった?」
「ああ。とても満ち足りた一日だった」
 庸介が深く頷いてくれたので、私もほっとした。
 今日はいい一日だった。お互いにそう思えたなら、もっと嬉しい。
 たくさん泳いだ後だからか、身体はすっかりくたびれていた。電車はリズミカルに揺れ、車窓からは眩しい午後の光が差し込んで、思わず目をつむりたくなる。
「六花、眠いのか?」
 やがて庸介が、私に尋ねてきた。
「眠いなら肩を貸すよ。寄りかかるといい」
 そうも言ってくれて、せっかくなのでお言葉に甘えておく。庸介の広い肩に頭を預けると、お互いの髪からお日様の匂いがした。温かい。
「庸介の肩、乗せ心地がいいね」
「誉められたのかな。役に立てたなら嬉しいよ」
 彼が小さく笑う声がして、このまま眠ってしまおうかとも思う。

 でも、駄目だ。
 私には、庸介に言っておかなくちゃいけないことがある。
 正確には二つある。言いたくないけどどうしても言わなくちゃいけないことと、ずっと言いたいと思っていたこと。
 どうせなら言いたいことだけ言えたらいいのに、優先すべきなのは前者の方だった。

 私は庸介の肩にもたれたまま、そっと切り出した。
「……ニースでね、お母さんに言われたの」
 庸介が頭を動かしたのがわかった。私の方を見たのかもしれない。
「そろそろ進路のことも考えた方がいいんじゃない、って」
 私は目を伏せたまま続ける。
「大学に行くことを考えたら、前の学校に戻った方がいいって……その方が私の為にも、庸介に為にもいいって言ってた」
 言われてからずっと、私はそのことを考え続けてきた。
 だけどいくら考えたところで答えは出なかった。
 母の言うことは多分、正しい。進路について何も決めていないなら尚のこと、いい大学を目指すべきだ。だけど今の学校は楽しくて辞めたくはないし、なりたいものがないのに将来の為に頑張ることには、正直空しさを感じる。
 彼はどう思っているのだろう。
「庸介は何か言われてた? 今の学校のこととか」
 私が尋ねると、庸介は長い溜息をつく。
 そしてたっぷり間を置いてから、言いにくそうに答えた。
「俺は、最初から言われてた。今の学校に行くのも期間限定だからって」
「え……」
 思わず私が身を起こすと、庸介は私の頭を抱くようにして肩に乗せ直す。
 そのまま手を離さずに続けた。
「『半年も通えば六花の気も済むだろう』って奥様は仰ってた。もしかしたらもっと早く音を上げるかもしれない、とも」
「……そうなんだ」
 長続きするはずがないと思われていたのかな。
 初等科から通った前の学校とは違って、全く新しい環境だから。まして私は、人付き合いが上手な方ではなかったから。少女漫画に憧れて『普通の高校』に通いたがった私を、母は冷静な目で見ていたようだった。
 でも私は音を上げるどころか、今の学校が好きになってしまった。
「俺も同じように思ってた。半年我慢すれば六花も納得して、また元の学校に戻るんだろうって」
 庸介がそう続けたから、私は口を挟まずにはいられなくなる。
「やっぱり行きたくなかった? 今の学校」
「初めのうちは、それなりに」
 彼はちょっと笑ったようだ。
「今の学校はやっぱりレベルが低いし、授業中もうるさいし、勉強するのに支障だらけだ。自分が浮いているのもわかっていたから、クラスに馴染める気はしなかった」
 そこで『俺たちが』と言わず『自分が』と言ったところは、庸介の優しさなのだろう。
 もちろん私も、自分が浮いていたことくらいはわかっている。
 私のわがままで、庸介には辛い思いをさせたようだ。今更ながら罪悪感が込み上げてくる。
「でも、奥様には悪いけど。今は俺も学校が楽しいんだ」
 庸介が、更にそう言って、
「だから六花は、俺には気を遣わなくていい」
 私の頭を抱く手に、一層の力を込めてくれた。
「六花がしたいようにすればいい。それを教えてくれたら、俺は六花が叶えたいことを叶えられるよう努力する」
「庸介……」
 優しい言葉だと思った。
 いっそ泣きたくなるくらい、庸介は優しいことを言ってくれた。
 それを嬉しいと思う反面、少し焦りを覚える私もいる。なぜなら私は、『したいこと』を自分でも掴みきれていない。
「私、どうしたいのかな。正直、まだわからない」
 ニースで母から言われた時もそうだった。わからなくて、上手く答えることができなかった。
「でも、今の学校は楽しい。本当にそう思ってる」
 友達ができた。いろんな思い出もできた。学校行事だって楽しんでいる。
 もちろん一番は、庸介がいてくれるから、だけど。
「だから私、今すぐには決められない……」
「いいよ、答えが出るまで待ってる。相談にも乗るよ、六花」
 庸介がそう言ってくれて、私はまた泣きそうになる。
「ありがとう。私、これから考える。いっぱい考えるから、わからなくなったらまたいつもみたいに話聞いてね」
 泣きそうなのは嬉しくて、幸せだからだ。庸介がいてくれて、私一人で悩まずに済んでよかった。私の今の幸福も、迷ってはいるけど希望を持てていることも、全ては庸介がいるからだ。
 必ず答えを出そう。これからのこと、将来のこと。庸介の為にも、私の為にも。
「私、最高の幼なじみを持ったね」
 胸がいっぱいになった私は、しみじみと呟く。
 だけど庸介はそれが不満だったようだ。短く唸ってから、異を唱えてくる。
「違うだろ、六花」
「何が?」
「単なる幼なじみじゃない。君の、最高の彼氏だ」
 庸介はきっぱり言い切ると、私の頭をぎゅっと抱いてきた。
 その力強さと体温に、今になってどきどきしてきた私は、『言いたいこと』の方を言うタイミングを逃してしまった。
 でも、それは電車の中で言うことではないから、よかったのかもしれない。

 電車を三本乗り継いで、駅からタクシーに乗って、家の少し手前で降りた。
 夏だからか、まだ道が明るかった。遠くの空が赤々と燃えていた。私と庸介はその道をゆっくりと歩いた。楽しかった一日の終わりを惜しむように。
 そして私は歩きながら、言いたいことを切り出した。
「旅行中はね、毎日海を見てた」
 ホテルの部屋から見下ろした、美しい地中海ブルー。きれいだった。
「きれいだった……けど、寂しかった。日本の海と違うからだと、その時は思ってた」
「……違ったのか?」
 庸介が怪訝そうにしたので、私は笑う。
「違ったのかも。どこで見るかじゃなくて、誰と見るかが大事だったんだよ」
 今日も海を見た。プールのすぐ目の前にある日本の海を、ウォータースライダーの上から見た。懐かしい青さだった。
 日本に帰ってから日も経つのに、海の色を懐かしく思ったのは、今日、隣に庸介がいたからだ。
 海の水の青さを比べたところで、どれがきれいでどれが好きかなんてはっきり言えない。
 庸介が隣にいたら、全部素敵に見えるから。
 きっと、ニースにも庸介がいたら、地中海をとびきり素敵な海だって思っただろうから。
「だからね、言いたいことあるの」
 だから、私は言う。
 言いたいことを言う。
 話の流れが掴めていないのか、眉根を寄せている庸介に言う。
「私、ニースにいる時も庸介のこと考えてたよ。腕時計を日本の時刻のままにしてた。庸介が何時を過ごしてるか知りたかったから」
 いつか一緒に行きたいな。
 私も、夢で終わらせたくない。
 そう思って、私は庸介の腕を掴むと、引き止めるように立ち止まってから続けた。
「庸介。私が好きって言ったら、困る?」

 腕を引っ張られたにもかかわらず、庸介は足を止めただけでよろけもしなかった。
 うろたえもせずに真っ直ぐに私を見て、ほんのわずかにだけ目を瞠ってから、深呼吸の後に答えた。
「今日、ここで言われるとは思ってなかった」
「変かな。デートの後に告白って、普通じゃない?」
「君に先を越されるとも思ってなかったんだ」
 どことなく、悔しそうにも見える顔をしていた。
「言いたい、言ってしまいたいと思ったことは何度もあった。もし本当に幼なじみだったら……そんなふうに思ったことだって数え切れない。でもその度に呑み込んで、いつかはと堪え続けてきたんだ。俺も、本当はずっと言いたかった……」
 堰を切ったように溢れた言葉の後で、庸介は改めて私を見つめる。
 いつも冷静なその瞳が、今は熱っぽく揺れていた。水着の私を見ていた時よりも、ずっと。
「困らない。むしろ、嬉しいよ」
 澱みない答えの後、庸介はふと思い当たったように顔を顰める。
「いや、ある意味困る……かな。俺は旦那様――六花のお父さんに、認めてもらえるような人間ではまだないから」
「そんなことないよ!」
 とっさに私は否定したけど、庸介は苦笑気味にかぶりを振った。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、執事の子供で使用人って立場では無理だ。もっと自分を磨き、認めてもらえるように成長しなくては。だからそれまで、待っていてくれると嬉しい」
 一息にそこまで言ってのけたから、何だか前々から言うべき台詞を考えていたみたいに思えてならなかった。
 実はちょっと、期待されていたのかな。
「告白の返事にしては重いね」
 私が率直に指摘すると、彼はそこで初めて慌てた。
「えっ……そうかな。言うべきことを言ったつもりだった」
「漫画だともっと軽いよ。スタイリッシュかつ簡潔に返事をくれるよ」
「難しい注文だ。六花の愛読書は、俺にはあまり共感できない」
 庸介は肩を竦めた後、表情を柔らかく解いた。
 そしてはにかみ笑いで言う。
「ただ、俺も君が好きだ。ずっと前から……多分、君が俺を好きになるよりも」
 予感はしていたけど、改めて言葉にしてもらえると、ほっとした。
 すごくすごくほっとした。
「そっかあ……」
 私は膝から力が抜けて、路上にしゃがみ込みながら呟く。
「私、待つからね。庸介がいいって言うまで、私にできることをしながら待ってる」
 ちょうど、私もしなくてはならないことがある。
 私が答えを見つけて、庸介が満足のいく成長を遂げられたら、全て上手くいくといい。もちろん簡単な話ではないこともわかっている。だけど今のところ、私が見つけている一番の『叶えたいこと』だ。
 庸介と一緒なら、頑張れる。
「ありがとう、六花。必ず叶えてみせる」
 彼がそう言って、私に手を差し伸べてくれた。
 その手を借りてようやく立ち上がりながら、両想いになった好きな人に笑いかけてみる。
「庸介は、本当に、私の最高の彼氏だよ」
 私を見下ろす庸介も、同じように笑っている。
「そうだよ。言った通りだろ?」
「今日からは、偽物じゃない彼氏だね」
「ああ」
 しっかりと頷いた後、庸介は照れながら言い添える。
「六花も、俺の最高の彼女だ」
 その言葉には、言われたこっちの方が照れてしまった。
 本当にそうなりたいな、これから。もっと素敵な彼女になりたい。

 それから私たちは家までの道を、手を繋いで歩いた。
 帰ってしまえば手を離さなくてはいけなくなるし、付き合い始めたことも秘密にしなくてはならない。だから今は、この時間を噛み締めながら歩いた。
 いつか、隠さなくても済む日が来るように。
 私は明るい希望を胸に、庸介と歩き続けた。