Tiny garden

水の青さを比べても(5)

 遂に、ウォータースライダーの順番が回ってきた。
 乗り口から見下ろす地上は遠く、本当に遠く、プール全域どころかその向こうの海まで見渡せる。ニースで見た地中海とは違う青さの海が、きらきらと波を光らせている。その懐かしい色合いが、今はことさら恋しく思えた。
「六花、行こう」
 庸介が私を呼んで、乗り口までそっと手を引いてくれた。
 緊張のせいで手が震えていたのが伝わったのか、手を離す前に一度だけぎゅっと握ってもくれた。
 それで私も意を決し、彼の後に続いて乗り口へ向かう。

「ではこちらに、後ろの方からお乗りください」
 係員さんの指示に従い、二人乗りのチューブにまず私から乗り込む。
 浮き輪と同じ要領で、開いている穴にお尻を填め込むように腰かける。脚はチューブに引っかけるように外へ出し、背中はチューブにそのままもたれかかる。聞いていた通り、ほぼ仰向けの姿勢になる。
 次に庸介が私の前に座る。
 同じように背を倒した彼の頭が、私の胸にちょうど当たった。
「……庸介」
「ごめん。だから俺が後ろの方がって言ったんだ」
「そっかあ。だから嬉しそうにしてたんだね」
「ち、違う! そんなことは断じて!」
「って言うか庸介、髪硬い。刺さる。ちくちくする」
「それもごめん。頭動かさないようにする」
 お互いに口数が多いのは、滑り出す直前の緊張感のせいかもしれない。とにかく口を開いていないと落ち着かなかった。彼の頭が胸の上にあることも、ある意味ではどきどきした。
「では、しゅっぱーつ!」
 係員さんがにこにこしながらチューブを押し出そうとすると、もはや胸に当たっていることとか髪がちくちくすることすら構っていられなくなった。

 私達を乗せたチューブが大きく前に傾き、最初は思いのほかゆっくりと動き始めた。
 胃がふわりと浮かび上がる感覚の後、チューブは水の流れるスライダーを滑り降りていく。
「わあっ」
 私はチューブに取りつけられた持ち手を、縋るように握った。
 次第に速度が上がる。チューブがどんどん加速する。思っていたよりもスムーズには滑らず、カーブがある度にがつんと壁面にぶつかる。その度にチューブは壁に乗り上げるように傾き、私の身体は軽く浮き、大きな水しぶきが身体にかかる。
「きゃああああああ!」
 上げたのが悲鳴か、それとも歓声か、自分でもわからなかった。
 ただスピードに乗るにつれ、声を上げずにはいられなかった。そうすることがむしろ気持ちいいみたいにお腹の底から叫んだ。
「庸介っ、よーすけぇぇぇぇぇ!」
 ついでに彼の名前も叫んだ。
 当の本人は声こそ聞こえてこなかったものの、私と同じようにチューブの持ち手を力いっぱい掴んでいた。彼の頭がカーブの度にがくがくと揺れているのも見えた。
 そうこうするうちに、水を掻き分けて進むチューブはいよいよトップスピードに達し、私達を全力で振り落としにかかる。カーブも一切減速せず、暴走気味にスライダーを駆け抜ける。そしてチューブにしがみつく私達を最後の直線まで運ぶと、あとは真下に広がる青いプールへと、形振り構わず突っ込んだ。
 派手な水しぶきが上がり、乗せた私たちごとチューブは水中に突っ込んで、程なくしてぷかりと浮かんだ。
 急に時の流れがゆっくりになった水中は、上から見下ろした通りに真っ青だった。
「ぷはっ」
 私が水面に顔を出すと、ちょうど庸介も立ち上がったところだ。全身から水を滴らせた彼は手の甲で顔を拭うと、すぐに私に手を差し伸べ、立ち上がらせてくれた。
「大丈夫か、六花」
「うん。でも水に沈んだの、本日二回目だよ」
 今回はプールに突っ込むとわかっていたから、心構えができた分だけましだった。
 でも想像以上の勢いだった。減速もせずに飛び込むから、改めて頭からずぶ濡れだ。チューブは転覆してしまって、係員さんが迅速に回収していった。
「庸介こそ大丈夫だった?」
 プールから引き揚げながら聞き返すと、彼は少し慌てたように答える。
「俺は平気だったけど、六花が……」
「何?」
「頭が何度もぶつかったから、平気だったかと思って」
「滑ってる時はそういうの、気にする余裕もなかったよ」
 私は正直に言った。
 ウォータースライダーのスピードに全部持っていかれて、意識が他に行かなかった。あっという間の数分間だった。
 だから庸介も気にしないで欲しかったけど、本人はそうもいかないみたいだ。彼はしばらく黙った後、どこか苦しげに呻いた。
「俺にはちょっと、刺激が強かったかもしれない……」
「じゃあ、次乗る時は逆にする?」
 そう尋ねれば、今度は少し残念そうに頷かれた。
「いや、俺は別にどちらでも構わないけど」
 本当に構わないのかな、そうは聞こえなかった。
 どちらにせよ、私は後ろの方がいいので次もそうしようと思う。あのスピードで前に乗るのは絶対怖いし、無理だ。

 一通りのプールを楽しんだ後、休憩も兼ねてプールサイドのフードコートへ向かった。
 パラソルの下のテーブルで、冷たい飲み物で水分補給をしつつ一息入れる。ここも席に着くまでにはかなり並んだけど、どうにか座ることができてほっとした。
「混んでる割にはいっぱい泳げたね」
 私が大きく伸びをすると、庸介も満足そうに微笑んだ。
「楽しんでもらえたなら、ここを選んでよかったよ」
「うん、すごく楽しんでるよ。下調べ、お疲れ様」
「旅先のプールと比べたら、見劣りしないかと不安だった」
 庸介は割と本気で心配していたみたいだ。安堵の溜息までついている。
「見劣りなんてするはずないよ。こっちには庸介がいるからね」
 どこで泳ぐかよりも、誰と泳ぐかの方が私にとっては重要だ。
 ニースのホテルのプールはそれは素敵だったけど、一人で泳ぐなら今日ほどには楽しくない。
「俺も、六花と一緒で楽しいよ」
 庸介はそう言った後、何かを思い出したように真面目な顔つきになる。
 何を考えているのだろう。私がじっと視線を向ければ、やがてためらいがちに口を開いた。
「さっきの、ウォータースライダーのことだけど」
「うん。前に座るか後ろに座るかってこと?」
「いや、そっちじゃなくて」
 聞き返した私にかぶりを振った後、彼は真剣な目でこちらを見た。
「聞き違いじゃなければ、俺の名前を呼んでたよな」
 改めて尋ねられると、今更ながらちょっと恥ずかしかった。
 もちろんその通りだ。ウォータースライダーで落下中に、悲鳴とも歓声ともつかない声で、彼の名前を叫んでいた。
「うん。聞こえてた?」
「あんなに近くで叫ばれたら、さすがにな」
 庸介自身も照れた様子で頷く。
 それからどこか言いにくそうに続けた。
「ただ、ちょっと焦った。助けを求めてるんじゃないかって思ったから」
「ごめん。そういうわけじゃなかったんだけど」
 それも、少しはあったのかな。
 私にとって、いつも手を差し伸べてくれる人と言えば彼だから。呼べば傍に来てくれて、私の頼みを聞いてくれる。日々頼りにしているからこそ、あの時もつい名前を呼んでしまったというのも、真実の一端ではあるのかもしれない。
 でもあんなところで助けを求められても、庸介にだってどうしようもなかっただろう。ウォータースライダーは確かに怖かったけど、それ以外の理由でも叫ばずにはいられなかった。叫ぶこと自体がとても楽しくて気持ちよくて、どうしても叫ばずにはいられなかったのだ。
 それなら私は、どうして彼の名前をとっさに口にしたのだろう。
「楽しかったから、かなあ」
 自分でもその仮説には自信がなくて、私は首を傾げながら答える。
「何か、そういうテンションだったんだと思う。庸介の名前を叫びたいなあって」
「そういうもの、かな」
 庸介は強い眼差しで私を見ている。
 その顔は釈然としていないようでもあるし、一方で何か確信を得ているようにも映った。もしかしたらそのテンションを、庸介も知っているのかもしれない。
「庸介こそ、ウォータースライダーでは全然叫ばなかったじゃない」
 あの時のことを思い出してみる。
 彼の悲鳴にしろ歓声にしろ、一切聞こえてこなかった。もちろん私の声や水飛沫の音が全てをかき消したという可能性もあるだろうけど、『あんなに近くで叫ばれたら』さすがに気づけたはずだ。
「私の名前を呼んでくれてもよかったのに」
 わざと残念がってみせたら、庸介は目を丸くしていた。
「もしかして、ウォータースライダーってそういうものなのか?」
「そうなのかも。お互い、相手の名前を呼び合うみたいな」
 もし庸介が私の名前を叫んでくれてたら、どうだったかな。
 びっくりはするだろうけど、嬉しかったかもしれない。
「そうだったのか……でも俺は、ちょっと恥ずかしいな」
「そうかな、どうして?」
「どうしてもだよ」
 庸介は、そこは曖昧に濁してしまった。
 男の子だから、ウォータースライダーで絶叫するのは恥ずかしいということだろうか。庸介、変なところで古風だから。
「それに、さっきはそんな余裕もなかったな」
「叫ぶ余裕もなかったの?」
「ああ、いっぱいいっぱいだった」
「そんなにだったんだ。庸介も意外と怖がりなんだね」
「……怖かったわけではないんだけどな」
 またまた、強がっちゃって。
 とは言え私もさっきは余裕なくて、庸介がどんなふうに滑っているのか確認もできなかった。惜しいことをした。あの時頑張って顔を覗き込んでみたら、意外な表情が見られたかもしれないのに。
「あとでもう一回乗ろうよ。それでできたら、お互いの名前叫ぶっていうのはどう?」
 私の提案に、庸介は苦笑した。
「もう一度乗るのは構わないけど、叫べるかな」
「怖かったら無理しなくてもいいけど、できたらね」
 叫んでくれたらもちろん嬉しい。でもそうじゃなくても、普段見られない庸介の顔が見られるのが楽しくて、これから更に見られるかもしれないと思うと、本当に来てよかったと思う。
 今日はこの夏一番の思い出になりそうだった。

 しっかり休憩を取った後、私たちは再びプールで遊び倒した。
 タイムリミットは午後三時だ。その前にプールから上がって着替えをして、帰り支度を始めなくてはならない。
 だからそれまでは何もかも忘れて、二人で心ゆくまで楽しむことにした。
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