Tiny garden

水の青さを比べても(4)

 プールの更衣室は混んでいた。
 更衣室自体は広々としていて、ロッカーもちゃんと空いていたけど、カーテンが閉まる更衣スペースが少なかった。私が更衣室に入った時には既に行列が形成されていて、着替えるまでにいくらか待たなくてはならなかった。
 ようやく中に入れて、着てきたワンピースから水着に着替える。
 今年の水着はフリルのオフショルダービキニだ。ホルターネックのストラップとは別に、たっぷりしたフリル生地の袖がついている。ビキニだと背伸び感があるけど、これならすごく可愛いから気に入っている。柄はピンクのギンガムチェックで、もっと大人っぽい色合いにしようか迷ったものの、今の日焼けした肌にはとてもよく合っている。
 着終えた後、更衣室の鏡の前で一回転して確かめる。
 うん。自分で言うのも何だけど可愛い。向こうがどう思うかは、わからないけど。

 日焼け止めを塗ってから、更衣室を出てプールサイドへ向かう。
 真昼の日差しが容赦なく降り注ぐプールには、独特の塩素の匂いと共に、潮の香りが漂っていた。
 このプールのすぐ目の前には海岸がある。だけどこの辺りの海は潮の流れが速く、遊泳禁止とされているそうだ。だからかプールは人でいっぱいで、プールサイドのパラソルの下は既に満員、二台あるウォータースライダーに続く上り階段にも長い行列ができている。滑るにも随分並ぶ必要がありそうだ。
 ひとまずそちらはさておいて、私は庸介の姿を探す。

 庸介は、更衣室から少し離れたフェンスの前で、空気入れを使って浮き輪を膨らませていた。
 スポーツブランドのサーフパンツは膝より少し上の丈で、思ったよりも普通の水着姿だった。上半身には白いラッシュガードを羽織っていて、隙間からちらりと素肌が覗いている。その立ち姿が妙に大人っぽく感じられた。
 だけど、なぜ浮き輪。泳げないとは聞いていなかったけどな。
 まあいいや。私は深呼吸を一つして、気合いを入れる。
 それから、さもたった今来ましたというように近づいていって、
「庸介、お待たせ」
 その名前を呼んでみた。
 彼はちょうど浮き輪を膨らまし終えて、栓をしっかり閉めたところだった。呼ばれてすぐに振り向いて、私を見た途端に目を丸くする。ころん、と浮き輪がその手から落ちて、それで我に返ったように慌てて拾い上げていた。
「びっくりした……」
 庸介の第一声はそれだった。
 いつもなら至って冷静に私を見ている彼の目が、今は落ち着きなく彷徨っている。といってもしっかりパーツごとに確かめてはいるようで、上から下までくまなく眺めては、また上に戻って眺め直す――を繰り返している。
 何だろう。見惚れてくれてはいるのかな。
 私は痺れを切らして尋ねた。
「びっくりした、だけ? 似合ってるとは言ってくれないの?」
 すると庸介は我に返ったように姿勢を正して、
「いえ、とてもよくお似合いです――じゃなくて、本当に似合ってる! すごく……」
 反射的に敬語になった後で言い直して、それから困ったように頬を掻く。
「だけど、何と言うか、すごい水着だ……」
「すごいって、どういう意味」
「思ったより露出が……目のやり場に困るな」
 そんなことを言いつつも、庸介の目は未だにじっくりと私を見ている。
「六花も大人になったんだな……」
「それ、同い年の子が言っていい感想じゃないよ」
 何だか恥ずかしくなってきて、私は唇を尖らせた。
「って言うか、旅行先でうちのお父さんが言ってた。六花もこういう水着を着る歳になったんだなって」
「そう仰る気持ちもわかるよ」
 庸介は熱心に頷く。
「だってそれ、ニースでも着てたんだろ?」
「うん。着て泳いでた」
「俺も、それはいい気がしないな。誰が見てるかわからないじゃないか」
「私は庸介が可愛いって思ってくれたら、それだけでいいよ」
 誰が見ているかわからないのは、ここだって同じだ。
 それでも私は、庸介が見ていてくれたらいい。見せたいと思ってこの水着を選んだのだから。
 すると庸介は深い溜息をついた。
「可愛いよ、六花」
 やった。
 喜びに思わず飛び跳ねると、庸介は眩しそうに目を細める。
「でも、ずっと見てたらごめん。今日は目を逸らせそうにない」
「さっきは『目のやり場に困る』って言ってたじゃない」
「ある意味困ってる。どこを見ていたら、いやらしい奴って思われずに済むだろう」
 水着の女の子を凝視している時点で、その印象は免れないと思うけど。
 でも、いい。普段なら『可愛い』なんて言ってもくれない庸介が、これだけ私に釘づけになっている。私はそれが一番嬉しい。
 ただ、恥ずかしさもある。すごくある。
「とりあえず、泳ごっか」
 強い日光と庸介の視線で体感温度がすっかり高くなっていた。早く水に入りたくて、私は庸介を促した。
 それで庸介も浮き輪を抱え直す。
「どこから行く?」
「じゃあ……流れるプール!」

 プールサイドはもちろんのこと、プールの中も人でいっぱいだった。
 流れるプールもまさに芋洗い状態で、私たちは泳ぐというより流れに身を任せて歩いたり、時々浮き輪に掴まって浮かんだりしながら楽しんだ。それでも火照った肌で水に浸かるのが心地いい。
「庸介が浮き輪を持ってくるとは思わなかったよ」
 浮き輪の上にうつぶせになった私が言うと、浮き輪を引っ張る彼が答える。
「念の為にだよ。六花が溺れたら困る」
「失礼な。私、泳げるよ」
「泳げる人でも足が攣ることはあるだろ。その時は俺も全力で助けるつもりだけど、浮き輪があればより確実だ」
 さすがに心配しすぎではないだろうか。
 そもそも、プールには監視員さんがちゃんといるから気を揉む必要もないのに。
「旅行先でもよく一人で泳いでたよ」
 更に反論すれば、ざぶざぶと水中を歩く庸介が顔を顰める。
「それは危ないな」
「だって、一緒に泳いでくれる人いなかったもの」
 父は仕事で早々にフランスを離れてしまったし、母も仕事や買い物で忙しそうだった。
「俺が一緒にいたら、六花の傍を離れなかったのに」
 庸介が、真面目な口調で呟いた。
 こちらを見ていないのは、進行方向を確認していないと人にぶつかるからだろう。少なくとも照れながら言った言葉ではなかった。横顔がいやに真剣だ。
 私は浮き輪を引くその横顔を見上げて、思わせぶりだなと思う。
 どういう意味で言ったのか、気になる。使用人としての責任感か、私の水着が見たかったからか。それとも――。
 探るような目を向けていれば、そのうち庸介の横顔が気まずそうに歪んだ。
「言っておくけど、水着が見たいからではないからな」
「本当かなあ」
「本当だよ。……全くないと言えば嘘になるけど」
 そういうのは黙っていればいいのに、素直に白状してしまうところは庸介らしい。

 でも以前、そういえば言っていたな。『お嬢様には嘘をつけないのかもしれません』って。
 庸介は、私に嘘がつけない。
 それが本当なら、今まで言われてきたことも嘘ではないのかもしれない。

「私もね、いつか庸介と一緒に旅行したいなって思ってたんだ」
 浮き輪の上に寝そべったまま、私は旅行中のことを思い出す。
 腕時計を日本の時刻のままにしていた二週間。考えていたのは彼のことばかりだった。
「その方がもっと楽しそうじゃない?」
 同意を求めると、庸介は困ったように笑う。
「確かに楽しそうだけど……六花のお父さんから許可をいただける気がしない」
「そんなこと考えちゃう? 現実的だなあ、庸介は」
 うちの父が許してくれる可能性なんて、私だったら考えたくない。男の子と旅行に行きたいですって正直に言おうものなら、怒るか泣くか――多分後者だ。そしてその相手が庸介だと知ったら、多分、とても面倒なことになる。
「夢を見るだけなら自由でしょう。リアルの問題はスルーしようよ」
 私は笑い飛ばすつもりでそう言った。
 だけど、庸介はそこで硬そうな前髪をかき上げる。大人びた口元に先程とは違う苦笑いが浮かんだ。
「俺は今の、本気にしたんだけど」
「えっ? 今のって?」
「旅行したいって話。夢で終わらせたくない」
 その声は冷静そうなのに少し尖って聞こえた。
 私は訳のわからない緊張を抱く。これも、嘘ではないのかな。本気にしたということは、夢で終わらせたくないということは――。
「えっと……」
 何か言おうと思って息を吸い込んだ拍子、私の片肘が浮き輪の上でつるりと滑った。
「わあっ」
 大きく傾いた浮き輪の上でたちまちバランスを崩した私は、そのまま水中にざぶんと落ちた。泳げるとはいっても予期せぬ事態にとっさに反応できず、ひとまず浮力に任せて水面に顔を出そうともがいたところで、誰かの手が私の手を強く掴んで引き上げてくれた。
「六花、大丈夫か!」
 誰かは考えるまでもない。焦ったようなこの声は庸介のものだ。耳に水が入っていてもわかる。
「ごめ、落っこちちゃって……けほっ」
 ちょっと水を飲んでしまった。むせる私の背中を、庸介の大きな手がさすってくれる。
「俺の方こそごめん。とっさに支えきれなかった」
「庸介のせいじゃないよ」
 垂れてくる水滴を手で拭うと、開けた視界のすぐ目の前に心配そうな顔があった。
「でも、ずぶ濡れじゃないか」
「プールだから問題ないじゃない。泳ぎに来たんだもの」
 今度は心から笑い飛ばすと、一瞬の間の後で、庸介も同じように笑った。
「そういえばそうだ」
「庸介ももっと濡れた方がいいよ。今度は別のプール行く?」
「わかった。じゃあ、次はあれにしよう」
 彼が指差したのは、上り階段の先にあるウォータースライダーだ。

 ここのプールにはウォータースライダーが二つある。
 一つは普通に座って滑り落ちるもの、もう一つはチューブに乗って下るもので、二人一緒に滑るならチューブの方がいいらしい。
「二人乗りのチューブがあるらしいんだ」
 と、事前に調べてくれていた庸介が説明する。
「それってどういうの? 繋がってるの?」
「そうだ。穴が二つ開いていて、前後に並んで座れるようになってる」
「なら、私は後ろがいい」
 私は即座に主張した。
 ウォータースライダーの乗り口は思いのほか高いところにあった。順番を待つ間、そこに続く上り階段の行列に加わっていると、だんだんと地上が遠ざかっていくのがわかる。先程まで泳いでいた流れるプールが随分と小さく見えてきて、今更ながらほんの少し緊張してきた。
「六花が?」
 だけど庸介は慌てた様子で、すぐに反論した。
「俺が後ろの方がいいと思う」
「どうして?」
「写真で見る限り、チューブには仰向けに身体を倒して乗るそうだ」
「それがどうかしたの?」
「だから……六花が俺に寄りかかるならともかく、逆はさすがに……」
 庸介は言いにくそうにしているけど、そんなに抵抗を覚えることだろうか。
 私に寄りかかるのは男らしくない、とでも思っているのかもしれない。それならはっきり言って時代遅れの考え方だ。怖いからという理由で後ろに乗りたがっている私も決して勇ましくはないけど、とにかく。
「別にいいじゃない。遠慮なく寄りかかってよ」
 私が主張すると、庸介は少しの間思案に暮れていたようだ。
 やがて意を決したように、
「そこまで言うなら、俺が前に行こう」
 そしてどことなく嬉しそうに、そう言ってくれた。
 もしかしたら庸介も、前の方がいいと思っていたのかもしれない。

 そうこうしているうちにウォータースライダーの乗り口が近づいてくる。
 誰かの上げた歓声か悲鳴が響き渡り、すっかり遠くなった地上に、少しだけ足が震えてきた。
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