水の青さを比べても(3)
帰国したその日の夜、私と庸介は作戦会議を開いた。場所はもちろん私の部屋だ。
「まずはこれ、頼まれてたお土産ね」
私がオリーブオイルの瓶を手渡すと、庸介はたちまち目を輝かせる。
「お嬢様、ありがとうございます!」
「うん……お土産でこれ頼む子、あんまりいないと思うけど」
日本を離れる前に、お土産は何がいいかを尋ねた。
庸介は最初のうちこそ遠慮していたけど、何度もつついたらそのうちにこう答えた。
『では、アルジアリのオリーブオイルをお願いいたします』
確かに有名店だし名産品だけど、お土産にこれをねだる男子高校生なんて、庸介の他にいるだろうか。
「お土産に買って帰るって言ったら、お母さんに変な顔されちゃったよ。『誰に?』って」
ソファに座る私が笑うと、庸介もつられたように苦笑した。
「お手間を取らせて申し訳ありません」
「そこまでではないけどね」
それからもう一つ。
さすがにお土産がオリーブオイルだけではどうかと思う。これをお土産として、しかも気になる男子に買ってくる女子高生もそうそういないはずだ。
瓶のラベルに目を凝らしている庸介に、私は別の箱を差し出す。
「それと、これも」
開封前からほんのりといい香りがする平べったい箱を、庸介は怪訝そうに受け取った。
「俺はもう十分いただきましたが、よろしいのですか?」
「うん。何がいいのかわからなくて、ちょっと悩んだけど」
それで庸介は箱の蓋を開け、中を覗いて目を瞬かせる。
「石鹸、ですか?」
「そう。フラゴナールの」
ニースならではのお土産ではないけど、お店に行く機会があったから、これにした。
本当はちょっとどころか、すごくすごく悩んだ。香水のお店だったからそういうのもいいかと思ったけど、庸介はあまり好きじゃないようだし。常に身に着けてもらえるものがよかったけど、それだって庸介の好みでなければ困るだろうし。
石鹸なら消え物だし、万が一気に入られなくても、おうちで使ってもらえばいい。
「ありがとうございます、お嬢様」
庸介は恭しく頭を下げた後、石鹸を一つ手に取った。
そして鼻に近づけ、香りを嗅いだようだ。直後、意外そうな顔をした。
「これはいい香りですね」
「でしょう? ちゃんと確かめてから買ったもの」
「さすがはお嬢様のお見立てです」
「気に入ったなら、使ってくれたら嬉しいな」
私の言葉に、彼は確かに頷く。
「もちろん、使わせていただきます。俺も嬉しいです」
「そんなに気に入った?」
「それもありますが、お嬢様が俺の為にお土産を選んでくださったこと。それそのものが大変嬉しいです」
庸介はきっぱりと、そんなことを言い出した。
彼の顔には照れたような、はにかみ笑いが浮かんでいた。
私は急に恥ずかしくなって、ソファの上で膝を抱える。
庸介は知らないはずだ。ニースにいても私が、庸介のことばかり考えていたって事実を。
それどころか、体育祭からずっとそうなんだってことも知らないはずだ。
お土産選びだって本当にいっぱい悩んで、買った後もぎりぎりまでお店を巡ってもっといいのがないか探し回ったほどだから、喜んでもらえたなら本当に嬉しいって気持ちも――口にしなければきっと、伝わらないままだろう。
だけどどうしても恥ずかしくて、言えなかった。
そうしたら沈黙が思いのほか長く続いてしまって、気まずさから話題を変えたくなった。
「ええと……プールの話、聞きたい」
片言みたいに訴えると、庸介は唐突な話題転換に驚くこともなく頷いた。
「かしこまりました」
そしてオリーブオイルの瓶と石鹸の箱を一旦置いた後、懐から携帯電話を取り出して私に見せた。
ディスプレイに表示されているのは遊泳施設のホームページだ。かなり大きな施設のようで、標準的な五十メートルプールの他、流れるプールに波の出るプール、ウォータースライダーも二種類ある。
ただ、所在地が隣の県だ。
「遠くない?」
真っ先に気になったことを尋ねてみる。
「電車を三本乗り継ぎます」
庸介は平然と答えた。
「遠いじゃない」
「ですが、近くですと誰かに見つかる可能性がございます」
「それはそうだけど……」
別に見られて困るようなことはないけど――多分、ないけど、邪魔が入って欲しくないのも事実だ。
今回ばかりは知っている人にも会いたくない。
「朝早くに出れば、昼前には到着できます」
庸介は既に綿密なスケジュールを立てているようで、当日のタイムテーブルまで丁寧に説明してくれた。
それによれば起床は六時、朝食は六時半、家を出るのは八時頃で、駅まではタクシーを使う。そこから電車を上手く乗り継げれば十一時頃には目的地に到着するという。
「人気の施設のようなので、現地は大変混み合うことが予想されます」
スケジュールを読み上げた後、庸介は冷静に続けた。
「水着は服の下に着ていくことをお勧めいたします」
「えー……女の子はそんなことしないよ」
小学生でもあるまいし、そんなみっともないことはしたくない。私は異を唱えたけど、彼はその反論が理解できないという顔をする。
「更衣室も確実に混み合いますよ」
「それでもやだ。庸介は着ていくの?」
「ええ。それが時間の節約になります」
「男の子はそれでもいいのかもしれないけど……」
こればかりは譲れない。何せこちらは吟味に吟味を重ねて購入した初めてのビキニだ。家から着ていくなんて真似はやはりできない。
「お嬢様がどうしてもと仰るなら」
最終的には庸介の方が折れてくれた。
「ただ、帰りの時間は厳守していただきます。向こうを午後三時には離れます」
「わかった。それは約束するよ」
屋外プールなら、夕方頃には水の中にいても肌寒くなる。午後三時はいい引き上げ時だろう。
大体の予定を確認し終えた後、私は一番大事なことを庸介に確かめた。
「このお出かけは、もちろん『幼なじみと』だよね?」
すると彼は、私をじっと見つめてから答える。
「……お嬢様がそうされたいなら、そのようにいたします」
「なら、そうして」
これはデートだ。
庸介の方がどう思っているかは、いつものようにちっともわからない。それでも、ただの内緒の遠出に無理やり付き合わせるつもりはない。庸介にも私と一緒に出かけたいのだと思ってもらいたい。二人で泳ぎに行くのが、とても楽しみだって。
「楽しみだって思ってくれてる?」
私は、恐る恐る聞いてみた。
すると間髪入れずに庸介は答える。
「もちろんです、お嬢様。夏休み前から待ち遠しく思っておりました」
そう答える割には、表情は普段通り、落ち着き払って見えたけど。
でもまあ、彼がそう言ってくれたのだから疑うこともないか。素直に喜んでおこう。
「じゃあ、あとはお天気次第だね。当日を楽しみにしてるから」
「かしこまりました。お嬢様もお疲れでしょうし、まずはゆっくりお休みください」
庸介はそう言うと、お土産のオリーブオイルと石鹸を取り上げた。
そして改めてお辞儀をしながら、こう言った。
「お嬢様がお帰りになると、やはり賑やかになりますね」
「そんなにうるさいかな……」
「うるさいのではありません。賑やかなのです」
あくまでもたしなめる口調で庸介は言い張る。
それはいい意味で、ということかな。そうだといいんだけど。
「お土産、本当にありがとうございました」
「使ってくれたら嬉しいな。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
お土産を手に、庸介が部屋を出ていく。
ドアが静かに閉まった後、私は愛用のソファの上に寝転がって、天井を見上げた。
二週間ぶりの自分の部屋だ。好きな家具を集めた、お香のいい匂いが染みついている私の部屋。庸介が毎日訪ねてきてくれる部屋。
旅行も楽しかったけど、帰ってこられて、嬉しい。
プールへは、お盆が過ぎた八月下旬に出かけることにした。
出発当日、庸介は朝六時にモーニングコールをくれた。
『お嬢様、おはようございます』
実はそんなものなくてもちゃんと目が覚めていたけど、わざと寝ていたふりで電話を受けた。
「あー……おはよ、庸介。電話ありがとう」
『お役に立てて光栄です。三十分後に朝食をお持ちします』
「うん、お願い」
今日の朝食は夏の朝にぴったりのナシゴレン。庸介曰く、スポーツをする日の朝はお米を食べる方がいいのだそうだ。
ただあいにく、お出かけに浮かれる私は興奮のあまり食事があまり進まなかった。それでもどうにか食べ終えて、予定通り八時には出発の準備が整った。
「お嬢様、お早いお出かけですね」
出がけに徒野さんに呼び止められた。
こうなることを見越して、庸介とはばらばらの時間に出発するようにしている。私はそ知らぬふりで答えた。
「お友達とプールに遊びに行くんです。夕飯までには帰ります」
「そうでしたか。お迎えが必要ならご連絡ください」
「はい。よろしくお願いします」
徒野さんに見送られ、私は帽子を被って外へ出る。
庸介は私が出た五分後に追い駆けてきて、家の近くで落ち合った。
「お待たせいたしました、お嬢様」
今日も朝から暑い日なのに、庸介は息を切らして現れた。
「そんなに急がなくてもいいのに」
「お嬢様を炎天下に立たせておくわけには参りません」
「平気だよ、帽子被ってるし」
麦わら帽子のひさし越しに、夏らしい青空が見えた。お天気にも恵まれて、泳ぐにはまさにちょうどいい日だ。
「では、そろそろ行きましょうか」
タオルで汗を拭った庸介の言葉を、私は一睨みで遮る。
「違う。もう家出たんだから、敬語は禁止」
「……わかったよ。行こうか、六花」
庸介は苦笑しながらも、ちゃんと言い直してくれた。
それで私もますます浮かれて、夏空の下を歩き出す。庸介もちゃんとついてくる。
電車を三本乗り継ぐのは、思っていた以上の長旅だった。
タイムテーブル通りに乗る為には一休みの暇もなくて、私はほとんど庸介に引っ張られるように電車と電車を渡り歩いた。
「六花、頑張れ。あと一本だ」
ホームの階段を駆け上がる時、庸介が私の手を引いてくれた。
「うん」
私もその手をぎゅっと握り返し、彼の後に続いて三本目の電車に乗る。
無事に乗り込めて胸を撫で下ろせば、
「頑張ったな。あとは終点まで乗るだけだ」
庸介が帽子の上から頭を撫でてくれて、私は嬉しさに俯いた。
今日はいいデートにもなる、かもしれない。
期待を込めて、そう思う。