Tiny garden

水の青さを比べても(2)

『そちらでのご滞在はいかがですか?』
 庸介が、いつもの調子で私に尋ねた。
 私はその口調を不満に思う。寂しくて電話をかけたのに、どうしてそんなによそよそしく話すのだろう。
「庸介は今、どこにいるの?」
『えっ。自分の部屋におりますが……』
 質問を質問で返したことで、彼は少々戸惑ったようだ。
 私もこれだけの遠距離で言い争いはしたくないし、素直に打ち明けてみる。
「なら、今は仕事中じゃないでしょう。いつもみたいに話してよ」
『お言葉ですが、いつも通りにお話ししております』
「そうじゃなくて、学校にいる時みたいに」
 普通の幼なじみみたいに、もっと親しげに話をして欲しかった。私がねだると、微かに溜息をつくのが聞こえる。
『構いませんが……』
「構わないなら、お願い」
『お互いに顔が見えないので、少し恥ずかしいです』
 庸介は変なことを言う。
 話をするなら顔が見える方がもっと恥ずかしいのにな。私は首を傾げつつ、ベッドの上で寝返りを打った。
 その間に彼は恥ずかしいのを乗り越えたようだ。
『……六花』
 ためらいがちに私を呼んだ。
 その声が、耳にくすぐったかった。
「そうそう、それでよろしい」
 照れ隠しにふざけてみたら、庸介がまた溜息をつく。
『やっぱり恥ずかしいな。君がいないと、一人芝居しているみたいだ』
「電話してるんだから一人じゃないでしょう。変なの」
 私がもう一度首を傾げている間に、庸介が続けた。
『話、戻すけど。そっちはどう?』
「うん、楽しんでるよ。天気はいいし、退屈しないし」
『それはよかった。俺は行ったことないけど、いいところなんだろうな』
 庸介の声には、ただのお世辞ではない羨望が覗いていた。
 海外旅行はしたことがないと言っていた。実はニースに興味があったのかもしれない。私も、庸介がここにいてくれたらもっと楽しかったのに、と思う。

 それならいつか、一緒に行こうか。
 そう言いかけて、でも、やめた。
 高校生だけで来るような旅先でもないし――それに、渡邉さんが言っていたように『泊まりがけ』になってしまうからだ。

 変なことを考えていたから、
『六花こそ、今は一人なのか?』
 庸介がそう聞いてきて、意味もなくどきっとした。
「う、うん。お母さんは街へ買いつけに行ったよ」
『旦那様は?』
「とっくに仕事に戻っちゃった。自分が行こうって言い出したのにね」
『そうか……相変わらずお忙しいんだな』
 何も休暇の最中に呼び出さなくてもいいのに、とも思う。でもそれだけ替えが利かないお仕事をしているというのも事実かもしれない。
 父が今のお仕事に就きたいと思ったのは、何歳くらいの話なのだろう。
 私は進学先も決めていないけど、父は高校二年生の頃、もう先々のことまで見据えて決めていたのだろうか。ふと、疑問に思った。
『六花はこれからどうするんだ?』
 庸介が私に問う。
「これからって――」
『そっち、まだ朝なんだろ?』
「あ、そっちか」
 違う意味の質問かと思った。
 私も庸介に聞いてみたかったけど、今は時間がない。そのことは帰ってから話そうと思う。
 さしあたっては質問に答える。
「ええと、多分、プールで泳ぐよ」
 部屋にいても仕方ないし、かといって一人でうろつく気にもなれない。
 そういう時は身体でも動かしておくのが一番いい。
「私、すごく日焼けして帰ると思う」
 そう告げたら、庸介は初めてちょっと笑った。
『楽しみにしているよ。こっちも六花がいないと妙に静かなんだ』
「何それ。私がいたらうるさいってこと?」
 私は思わず拗ねたけど、庸介はもう一度笑ってみせる。
『帰る日には迎えに行くよ』
「本当?」
『ああ。空港で行田さんと待ってるからな』
 その言葉は今の私にとって、とても嬉しい響きだった。
 早く帰りたくなってきた、なんていうのはさすがに現金だろうか。ニースにもめったに来られないのだし、もう少し楽しんでから帰ろう。
 庸介と話したお蔭で、萎れていた気分が不思議と上向いてきた。さっきまで寂しくて仕方がなかったというのに、それこそ現金なものだ。
「約束したからね」
『もちろん、約束だ。じゃあそろそろ、通話を終わりにしようか』
 残念だけど、さすがにこの遠距離では長電話もできやしない。私は素直に従うことにした。
「話してくれてありがとう、庸介」
『こちらこそ。旅行、楽しんでくれ』
 電話を切って、私は携帯電話を胸に抱く。
 それから部屋の天井を見上げ、声に出して呟いてみる。
「早く、会いたいなあ……」
 本当に、庸介がここにいたら、もっとよかったのに。
 でも、日本に帰ればすぐに会える。その日を楽しみにしつつ、私はベッドから起き上がった。話した通り、一泳ぎしてくるつもりだった。
 せっかく買った可愛い水着、見せる相手もいないのは残念だけど。

 長い家族旅行も無事に終わり、日本へ帰る日がやってきた。
「じゃあ六花、ママはこのまま仕事に行くから」
「行ってらっしゃい、お母さん」
 父と同様に過密スケジュールの母とは空港で別れた。
 そして庸介は、約束通り空港まで迎えに来てくれた。
「お待ちしておりました。お帰りなさいませ、お嬢様」
 開口一番、恭しい挨拶をされたのにはちょっと閉口したけど。
「そこはお仕事口調なんだ……」
 呆れる私に、庸介は目を瞬かせる。
「お気に召しませんでしたか?」
「幼なじみとして迎えに来てくれるのかと思ってた」
 そっぽを向いて告げたら、今度は少し困った様子の返答があった。
「俺は俺としてお迎えに上がったのですが……それでは駄目ですか?」
 その声が寂しそうだったので、私は横目で庸介を窺う。
 二週間ぶりに見たその顔は、思っていたよりも日に焼けていた。でも浮かべた苦笑は記憶にある通りの冷静さで、ああ、庸介だって思う。二週間は私にとって『たったの』なんて言えるものではなくて、じわじわと懐かしさが込み上げてきて泣きそうになった。
 ぎりぎり、泣かなかった。
「駄目じゃない」
 慌てて首を横に振る。
 それから庸介をちゃんと正面から見てみた。八月の暑い最中だというのに、長袖のシャツにスラックス、ネクタイまできっちり締めている。空港の中は冷房が効いているけど、外を歩くには暑そうだ。
「どうしてその格好?」
 尋ねると彼は気まずげに顔を顰め、
「うちの父が着ていけと……お嬢様をお迎えに行くのに普段着というのもどうかと申しまして」
「似合ってるよ。大人っぽくて格好いい」
 庸介にはネクタイがよく似合う。もともと大人びた顔立ちというのもあるだろうし、姿勢がいいからでもあると思う。懐かしさもあいまって、惚れ惚れする。
「ありがとうございます」
 誉められたからか、庸介は照れたようだ。私から目を逸らして口元をほころばせた。
「お嬢様も、しばらくお会いしないうちに少し……」
「日に焼けた?」
「それもありますが、雰囲気が変わられました」
「雰囲気って言われても、ぴんと来ないな」
 庸介の冷静な目に、二週間ぶりの私はどう映っているのだろう。
 できればそれも『幼なじみ』の庸介から聞いてみたかったけど――まあ、いいか。今は会えただけでもすごく嬉しい。時差ボケで眠いはずの頭が冴えて、晴れやかな気分だった。
「そろそろ参りましょうか、車を待たせてあります」
「ああ、行田さんが待ちくたびれちゃうね。行こうか」
 私たちは揃って空港を後にする。トランクは庸介が持ってくれて、私はそんな彼の後からついていく。
 二週間ぶりの日本の夏は、ニースよりも湿度が高くて蒸し暑い。だけどそれが無性に懐かしかった。

「お久し振りです、お嬢様。少し日に焼けました?」
 運転手の行田さんにも言われた通り、向こうでプール三昧だった私はすっかり日焼けしていた。
 そして日本でも泳ぎに行こうと計画しているのだから、随分な水泳好きだと思われているかもしれない。
「可愛い水着を買ったので、たくさん泳ぎたいんです」
 私はそう答えると、一緒に車に乗り込んだ庸介に尋ねた。
「庸介、どこかいいプールを調べておいてくれた?」
 車の中でとは思っていなかったのか、彼は目を白黒させる。
「ええ、一応は。お聞きになりますか?」
 どうやら私のいない間に、夏休み前の約束を果たそうとしてくれたらしい。
 私はたちまち嬉しくなって浮かれた。そもそも例の可愛い水着だってこの為に買おうとしていたものだ。いつもは私が何を着ようと大して誉めない庸介だけど、水着ならちょっとは感心してくれるかもしれない。してくれないかも、しれないけど。
 とにかく、楽しみだ。
 私は緩む口元を隠しながら応じる。
「後でいいよ。楽しみにしてるから」
「……ご期待に沿えるといいのですが」
 彼の言葉の歯切れがよくないのは、行田さんの前だからかもしれない。自分も一緒に行くのだとは知られたくないのだろう。そうすれば誰かに何かを言われるのだろうか。
 お嬢様と一緒ならいけません、とか?
 そんなの知らない。私は庸介とがいい。
 車を出したばかりの行田さんが、ハンドルを握りながら咳払いをする。
「いいですね、プール。楽しんでいらしてください」
 それから取り繕うように言った言葉は、何となく笑いを含んでいるようだった。
 私がプールに誰と行く気なのか、行田さんは察しがついているのかもしれない。それでもいいかと思ってしまうのはどうしてだろう。知られても構わないって、今は恥ずかしさ以上に強く思う。

 庸介はどう思っているのだろう。
 ネクタイなんて締めている彼は、それきり何も言わないまま窓の外ばかり見ていた。
 だから私は、その横顔を見ていた。
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