水の青さを比べても(1)
ホテルの客室のテラスから、美しい地中海ブルーを眺めている。からりと晴れた夏の朝、今日も実にバカンス日和だ。
にもかかわらず、私は浮かない気分で欄干にもたれかかっている。
「はあ……」
溜息が出るのは夏の暑さのせいじゃない。少なくとも日本の蒸し暑い夏と違って、ニースの夏はいくらか過ごしやすい。
でも、ここは日本じゃない。
憂鬱なのは多分そのせいだ。
夏休みに入ってすぐ、私は両親に連れられて日本を離れることになった。
行き先はフランスのニース。父がまとまった休みを取れたので、家族旅行をしようと言ったからだ。父は私の意見なんて一切聞かず、勝手に行き先も滞在期間も決めてしまったのだけど――いつものことだ。父は私が何をされたら喜ぶかを何もわかっていない。香水の時もそうだったように。
もちろん、父の気持ちもわからなくはない。お仕事がとても忙しくて、その合間に娘をどうにか可愛がりたくて、娘自身の要望を聞いている暇もなければ、バカンスのプランを吟味する時間だってなかったのだろう。ニースは夏を過ごすのに理想的な場所だ。私も去年までなら、『またお父さんってば勝手に決めて』とぼやきつつ、何だかんだで堪能できていたことだろう。
でも今年は、そうじゃない。
腕時計を確かめると、時刻は二時を指していた。
時間を直しておきなさいと両親は言ったけど、私はこっそりそのままにしておいた。日本は今、午後二時を過ぎたところだ。サマータイム期間は七時間の時差がある。
庸介は、今頃どんな夏を過ごしているのだろう。
「案外、思いっきり羽伸ばしてたりして」
私が日本にいない間はお仕事もほぼないはずだし、のびのびと夏休みを過ごしているのかもしれない。家を出る時は、『お帰りになるまでに宿題を済ませておきますよ』なんて言っていたけど。
「約束、覚えててくれるかな……」
庸介と、私は夏休みに入る前、約束をしていた。
二人でまた出かける約束だ。
『前に街中を歩いたの、楽しかったな。またお出かけしたいんだけど……』
夏休み前の教室で、私はそんなふうに庸介を誘った。その時は父が旅行の計画を立てていなかったから、そのくらいの暇はあるだろうと思い込んでいた。
庸介もいいと言ってくれて、夏だから、今度は海かプールにでも行こうかなって――そう思って水着も新調しようとしていたのに、降って湧いた夏休みの予定が、その約束を揺るがせてしまった。私は日本を離れて夏休みを過ごすことになり、帰るのは八月の半ば頃だ。
『一日くらいなら都合もつきますよ。何とかいたします』
私が日本を離れることを聞いた庸介は、慰めるようにそう言ってくれた。
だから私はその日が待ち遠しくて、だけど遠いところでそれを待っているにはあまりにも寂しくて、こうして溜息ばかりついている。せっかくのバカンスなのに。
「六花、そんなに落ち込まないの」
部屋の中から、母の宥める声がする。
「パパだってお仕事なんだもの、仕方ないじゃない」
そう、急ごしらえの夏休みの予定を仕立てた当の父は、急な仕事が舞い込んで、昨夜フランスを発ったばかりだ。それでも何日間かは一緒に過ごして、新調した水着を一番に見せたのも父だった。ホテルのプールで一緒に泳いだ父はなぜだかがっかりして、『六花もビキニを着る年頃になったのか』と寂しそうに嘆いていた。その気持ちはあまりよくわからない。
旅の残りの日程は、母と二人で過ごすことになる。
「もう落ち込んでないよ」
振り向いてから答えると、ひまわり柄のサマードレスを着た母は、私を見てにっこり笑った。
「なら、溜息をつくのはおしまいにして、朝食にしましょうね」
溜息をついていた本当の理由は、母にも言えない。言いたくない。
ホテルのダイニングで、母と一緒に朝食を取る。
家にいる時は家族と食事をする機会があまりないから、これはある意味、旅の醍醐味だ。
「学校はどうなの、六花」
二人でゆっくり話をするのも久し振りだからか、母はやけに学校のことを聞きたがった。
「庸介君が言うには、仲良しのお友達がいるんですってね」
「うん。渡邉さんのことでしょう?」
私が答えると母は頷き、愛想よく続ける。
「そうそう。いい子なんですってね、庸介くんも誉めてたわ」
その言葉にはちょっと驚いた。
渡邉さんがいい人であることは疑いようもないけど、庸介はどういうわけか彼女のことを誉めようとしないから――同じクラスで過ごすうち、ようやく渡邉さんの人のよさに気づいてくれたということかもしれない。私も思わずほっとする。
私も、大切な人同士は仲良しでいて欲しいから。
「六花が体育祭で撮った写真も見たわよ」
旅先だからだろうか。食事中だというのに、母は朗らかに話しかけてきた。
「よく撮れてたじゃない。徒野さんも誉めてくれてね、パネルにしたいと言ってるんだけど、庸介くんがいいと言わないんですって」
「庸介ならそう言うかもね」
私もつられて笑いつつ、あの写真を見られたことにはどきっとする。
リレーの時に撮った写真は、私がこれまでに撮ったどんな写真よりもとびきり写りのいい、最高の出来栄えだった。
被写体の格好よさを余すことなく引き出していて、データを送ったら徒野さんも大喜びしてくれた。私も密かにプリントして、アルバムの中に保存してある。
そういう写真だから、何と言うか、徒野さんはいいけどうちの両親に見られるのは何だか恥ずかしい。
見ただけでカメラマンの内心まで読み取れる、なんてことはないだろうけど。ないといいけど。
それにしても、学校の話をするだけで憂鬱だった気分が凪いでいく。不思議だな。
これもある種のホームシック、なのかもしれない。
「庸介くんとも仲良くできているみたいでよかったわ。あの子は本当にいい子だから」
「う、うん。まあね」
母の安堵に、私はぎくしゃくと応じる。
仲はいい、と思う。最近は、特に。
顔が赤くなりそうなのを隠す為にオレンジジュースのグラスを傾ける。母もその時、上品な手つきでグラスから水を飲んだ。
それからふと、深く息をつき、
「ねえ、六花」
突然、改まった口調になる。
「何?」
私も食事の手を止め、居住まいを正した。
すると母は浮かべていた笑みをほんの少し翳らせて、静かに切り出す。
「あなた、いつまで今の学校に通うつもりでいるの?」
「……え?」
「楽しくやっているようで、それはいいんだけど。そろそろ進路のことも考えた方がいいんじゃない?」
母は至って穏やかに、だけど真面目に語りかけてきた。
「進学するのなら、今の学校では心許ないでしょう。パパは甘いから『六花が満足するまでは』なんて言っているけど、ママは先のことを考えておいて欲しいと思っているの」
先のこと――進路のこと。
私は進学先も、将来の夢も、まだ何一つ決めてはいなかった。
「六花は何になりたいの?」
だから母の問いに、思わず口ごもってしまった。
「な、何っていうか、まだ見つけていないんだけど……」
「そう。それなら尚のこと、少しでもいい大学に進んでおかないとね」
私のたどたどしい答えを聞いて、母は何かを確信したようだ。
「なりたいものを見つけた時、力不足で諦めざるを得ない、なんて思いはして欲しくないもの。そろそろ前の学校に戻る準備をして欲しいの」
それは私にとって、絶望的な宣言だった。
「えっと……戻らなくちゃいけない?」
「ママは、戻って欲しいと思ってるわ」
転校の許可を貰った時、新しい学校には卒業するまでいられるのだと思っていた。
今の学校は本当に楽しい。何もかもが新鮮だし、素敵なお友達ができたし、『幼なじみ』もいるし――彼氏も、かな。本物ではないけど。
とにかく今の学校にいる時間は本当に充実していて、毎日が幸せだったのに。
「庸介くんだって、六花のお遊びにいつまでも付き合ってはいられないでしょう」
反論しようとした私を、母はそんなふうに黙らせた。
「二人とも、将来のことを真剣に考えなくちゃいけない時期なんだから。ね?」
「……そうだけど」
「考えておいてね、六花」
沈み込む私の気分とは裏腹に、母はにっこりと、ドレスのひまわり柄みたいに笑う。
その笑顔は、この話はこれでおしまい、の合図だ。
母の言いたいことも、わかる。
私は庸介をあの学校へ連れてきてしまった。庸介が戻りたいと望んでいるなら、引き止めてはいけない。
だけど私は、戻りたいなんて望んでない。
「戻りたくないんだけどな……」
テラスの欄干にもたれて、私は飽きずに海岸沿いの通りを見下ろしている。
朝食が終わると、母は仕事の買いつけに街へ出ていってしまった。私にも『来たいなら来てもいい』と言ってくれたけど、私はプールで泳ぎたいからと嘘をつき、ホテルに一人で残った。
眼下に広がるのはアンティークのドールハウスみたいな街並みと、深く果てしない地中海ブルーだ。この上なく美しい景色を眺めても、私の気分は一向に晴れない。それどころか見慣れない海の青さに心細さが増してくる。
「何になりたいの、かあ……」
そんなことを聞かれても困る。
夏休みの予定も初めての香水も勝手に決めてしまうような両親が、そのことだけは私に任せようとする。
それはきっと正しいことなのだと思う。
だけど、今の私にはどうしても飲み込めない。
「庸介はどうするのかな……」
知らず知らずのうちに彼の名前を口にしていて、私は一人で慌てた。周りに誰もいないとは言え、そして眼下の街には日本語がわかる人なんてそう多くないとは言え、不用心にも程がある。
でも、庸介のことを考えたのは、体育祭の後で話したことを覚えていたからだ。
庸介は何になりたいのだろう。
その夢を叶える為には、今の学校にいてはいけないのだろうか。
無性に今、それを聞いてみたくなった。
いや、もっと言えば、単に声が聞きたくなっただけなのかもしれない。
何にせよ私はお部屋の中に取って返し、ベッドに寝転がりながら携帯電話を握り締めた。
そして一呼吸置いてから、七時間後の彼に電話をかけた。
『――お嬢様! 何かあったのですか?』
いつもより時間をかけてから繋がった後、庸介の第一声はそれだった。
「何もないけど。何かないとかけちゃ駄目?」
思わず拗ねたくなった私に、彼はいくらか慌てたようだ。
『そんなことは。ただ、そちらからお電話をいただけるとは思いもしませんでした』
「何か、声が聞きたくなって」
素直に打ち明けられたのは、傍にいないからだと思う。
遠く離れた心細さが、私を一層寂しがり屋にさせていた。
庸介はそれをどう思ったのだろう。息を呑むような音が聞こえたかと思うと、囁く声で言った。
『俺の声でよければ、お聞かせします』
耳元に響くその声に、彼が傍にいないにもかかわらず、無性にくすぐったく思う。
体育祭からずっと、私は、庸介のことが気になっていた。
もしかするとその前から、だったのかもしれないけど――何にせよ、離れているのが寂しいくらいには。