鍍金細工の女の子(2)
庸介も、このお店に入るのは初めてだったようだ。店内をきょろきょろと見回しながら、ゆっくりと奥へ進んでいく。
もちろんその間も、庸介の手は私の手を引いたままだった。
私はそんな庸介の、大人みたいな大きな手を見下ろしている。
本当の幼なじみと同じように長い付き合いだから、私は庸介の小さかった頃も知っている。昔はもっとぽちゃぽちゃした手だった。手を繋ぐと、どっちが私の手かわからないくらいだった。
なのにいつの間にか、ざらりと硬い、関節の目立つ手に変わっている。こうして手を繋ぐと私との手の違いが際立つようだ。
大人になった、ってことなのかな。
ぼんやりする私をよそに、庸介はコスメ売り場を通りすぎていく。
そこで私は我に返って、
「あ、待って」
庸介を呼び止めた。
「ちょっとだけ、見ちゃ駄目?」
そう尋ねると、振り向いた庸介は売り場を一瞥してから答える。
「香水を買いに来たんだろ」
「そうだけど。見るだけだから」
「……少しだけなら」
庸介は眉を顰めたけど、めでたくお許しが出た。
私はコスメの類をほとんど持っていない。ちょっと色がつく程度のリップと、保湿用のクリーム、それに爪磨きくらいしか持たせてもらえない。
『お化粧はもう少し大人になったら、ちゃんとした先生に習いましょうね』
というのが、うちの母の意見らしい。それまでは眉を描くのもマスカラをつけるのもネイルだって駄目だと言われた。それでもこっそり眉のお手入れをしたら、あとでばれて窘められた。
私だって、お化粧の先生に興味がないわけではない。そうしてちゃんと習える機会があるのはいいことだと思うし、会ってみたいとも思っている。
でも、『大人になったら』では嫌だ。そんなに待てない。
今、試してみたいって思っているのにな。
「こういうのだったら、つけてもばれないんじゃないかな」
私が桜色のネイルカラーを手に取ると、庸介も私の手元を覗き込んでくる。
「ばれないどころか、つける意味がないよ」
「そう? 目立たなくてもきれいだと思うけど」
「六花の爪は何も塗らなくても、十分きれいだ」
庸介が、繋いだままだった私の手を軽く持ち上げた。
大人になった庸介の手は、広くて大きい。私の手なんてすっぽり覆ってしまえるくらいに。
だからというわけではないけど、私はとても驚いて、庸介の顔を見返した。
彼は私が驚いたことに驚いたようだ。涼しげな目元で瞬きをする。
「どうかしたのか、六花」
「あんまり、言われないこと言われたなと思って」
「何のこと?」
「庸介、私のこと誉めないじゃない。服とか、似合うとは言ってくれるけど」
この間、渡邉さんにも話したことだ。
庸介が、私に『きれいだ』なんて――爪の話だけど、それでも私はびっくりした。そんなふうに言ってくれたの、初めてだったから。
「誉めてるだろ。服とか」
何だか釈然としない顔をされたけど、そういうことじゃない。
「可愛いとか、きれいだとは言ってくれないでしょう」
「今、言ったばかりだよ」
「だから驚いたの。庸介、私のこと誉めるんだって」
やっぱりそれは、今が幼なじみのふりをしている時間だから、なのだろうか。
それとも、デート中だから、だろうか。
「だから、誉めてるだろ」
庸介は困惑気味に苦笑した。私の言いたいことがあんまり伝わっていないようだ。
「違うよ。いつもとちょっと違う誉め方だった」
私がむくれると、庸介は痺れを切らしたのか、私の手から桜色のネイルカラーを攫ってしまう。それを売り場の棚に丁寧に戻してから、言い聞かせるように応じた。
「誉めて欲しいなら言ってくれれば、いつでも誉めるよ」
それはそうだろう。
幼なじみではない庸介は、お願いすれば誉め言葉くらいは簡単に言ってくれそうだ。庸介らしくちょっと小難しい言い回しで、私が喜びすぎない程度に誉めてくれるとは思う。
「でも、それ、何か違う気がする」
私が言うと、庸介は溜息をつく。
「女心って難しいな」
「そんなことない。庸介ほどじゃないよ」
私からすれば、彼の方がよほど、何を考えているのかわからない。
「とりあえず、そろそろ目的のものを見に行こう」
その庸介に急かされて、私は後ろ髪を引かれつつコスメ売り場を離れる。
そして庸介の大きな手に繋がれたまま、店の奥へ――ほら、こういうところも全然わからない。
どういうつもりで、手なんて繋いでくれているんだろう。
香水は、全て鍵のかかった透明なショーケースの中にしまわれていた。
ケースの中には趣向を凝らした美しい香水瓶と、同じようにきれいだったり可愛かったりする香水の箱が一緒に並べられていた。棚の前には小さなプラスチックのアトマイザーがたくさん備えつけられていて、そのどれもに小さな字で香水の名前がラべリングされている。これで香りを確かめてということのようだ。
「すごい、たくさんあるね」
私がケースの前に屈み込むと、庸介も身を屈めて一緒にケースを覗き込む。
「こんなにいっぱいあったら、選びきれないな」
「本当だね。どれにしようかな……」
ショーケースの中をざっと見回していると、見覚えのある小瓶が目に入った。
エンジェルハート。渡邉さんが持っているのと同じ、赤いハート形の可愛い香水瓶だ。
「見て、庸介。あれがエンジェルハートだよ」
私が手で指し示すと、庸介はなぜか複雑そうに眉を顰めた。そしてアトマイザーに手を伸ばし、エンジェルハートのサンプルを手に取った後、香りを確かめてからまた顔を顰めた。
「確かに、彼女がつけているものと同じ匂いだ」
「いい香りでしょう?」
「やっぱり、六花に似合うとは思えないな」
庸介は以前と同じ言葉を、違う口調で言い放つ。
どうやらエンジェルハートの甘い香りはお気に召さないみたいだ。私はちょっとがっかりしたけど、こんなにたくさんの香水があるのだから、一つに絞らずいろいろ見てみたくもなった。それに本日の出資者は庸介だ、彼の好みも尊重すべきだろう。
「じゃあ、私に何が似合うか、一緒に選んでよ」
それに、せっかくだから誉めてもらいたいし――そう思って持ちかけると、意外にも庸介はあっさり頷いた。
「俺もそうしたいと思ってた」
そして、庸介はサンプルのアトマイザーを手に取ると、率先してその香りを確かめ始めた。いつもの仕事中みたいにきびきびと、次々に嗅いでは首を捻っている。
何か、随分と張り切っているようにも見える。
これは負けていられないと、私もいくつか手に取って確かめた。クロエのオードパルファムは年上のお姉さんみたいな香りがした。ベビードールは結構好きだけど、庸介なら甘すぎると言いそうだ。スイドリームスも甘いバニラの香りがするけど、ショーケースを覗くと瓶が可愛くていいなと思う。
でも、その隣に置かれていた香水瓶は、それ以上に私好みだった。
「あ……」
南国の海のようにエメラルドグリーンの瓶の上、ころんと球体をした蓋に、小さな妖精が止まっている。お伽話の妖精と同じく小さな身体で、きれいな羽を持っていて、足を揃えて蓋の上に座っている。一目で欲しくなってしまうほど、それはとても可愛い香水瓶だった。
香水の名前は、シークレットウィッシュ。
「見て見て、庸介。あの瓶すごく可愛いよ」
私は庸介のブレザーの袖を引っ張った。
こちらを向いた庸介が、私の指差す通りにケースの中を覗き込む。
「変わった形の香水瓶だな」
「可愛いでしょう?」
「六花なら好きそうだ。だけど、見た目だけで選ぶのはどうかな」
そう言うと、庸介はサンプルのアトマイザーの中から一つを選び出して、私より先に香りを確かめた。その時、庸介が意外そうに目を瞠ったのを見た。
「いい香りだった?」
私の問いに、彼は少し迷ってから頷く。
「悪くない。甘すぎないし、爽やかだ」
それで私も庸介からサンプルを受け取り、その香りを嗅いでみた。
確かに思ったよりもすっきりした、瑞々しい香りだ。グリーンノートとでもいうのだろうか、香水らしい明確な甘さがあるわけではないけど、とても印象に残るいい香りがした。
「すごくいい香り。私、これがいい」
香水瓶も可愛いし、箱だって妖精が描かれていて素敵だ。その上香りまで気に入ったなら、選ばない理由なんてない。
「確かに、六花に似合う香りだと思う」
庸介はそう言ってくれたけど、どことなく複雑そうだった。
「何か不満?」
「不満ってわけじゃないよ。驚いただけだ」
「何に?」
「随分な名前だなと思って。シークレットウィッシュ」
秘密の願い事。
庸介が含むようにその名前を口にする。
そんな態度が何やら意味ありげに見えて、私は庸介をつついてみた。
「もしかして、庸介にも秘密の願い事があるの?」
どう見ても妖精さんにお願い事をしそうなタイプではないけど、庸介にだって夢くらいはあると思う。この先こうなりたいとか、将来はどうしたいとか――つついてみた後で、そういえばそういうことだって何も知らないなと私が思った時、
「あるよ」
庸介が、短く答えた。
「大それた夢だから、人には言えないような願い事がある」
口元に珍しく、照れたような微笑を浮かべている。
私はその顔を見上げてはみたものの、なぜか、何も言えなくなった。
彼の男の子らしい照れ笑いを、可愛いなって思ったからかもしれない。
彼について知らないことがあるって、改めて思い知ったからかもしれない。
私達は幼なじみみたいなものだけど、漫画に出てくるような幼なじみとは違う。私がわがままを言わなければ一緒の学校に通うことさえなかった間柄だ。だから長い付き合いだって、知らないことがあっても当たり前なんだけど。
「……六花は?」
庸介が聞き返してきて、私は考え事をやめてしまう。
私には秘密のお願い事なんてない。多分、ない。だって特に、夢なんてないから。
「強いて言うなら、これかなあ」
だから私は笑って、シークレットウィッシュを指差した。
「庸介に香水を買ってもらうこと。お父さんとお母さんには秘密の願い事だからね」
「確かにそうだ」
今度は大人っぽく笑った庸介が、嬉しそうに応じたのが印象的だった。
ドラッグストアで買い物を済ませると、私達はお店を出た。
ああいうお店でお会計をするのは初めてで――払ったのは庸介だけど、何もかもが新鮮だった。白衣みたいなのを着た店員さんがしきりにポイントカードを勧めてきて、庸介は困惑気味にそれを断っていたのもおかしかった。
「作ればよかったのに、ポイントカード」
私が軽率に勧めると、庸介は肩を竦めた。
「また来るとは限らないだろ」
それから手に提げた、香水入りのビニール袋を私に差し出す。
「本当は家で渡したいけど、見つかるとまずい。しまっておいて」
それもそうだ。私は袋を受け取り、庸介にお礼を言った。
「ありがとう、庸介。大切にするからね」
「そうしてくれると嬉しい」
彼も頷いて、それから腕時計で時刻を確かめる。
「そろそろ行こうか。予定通りなら、もうじき行田さんが着く頃だ」
それはつまり、デートの終わりを意味する。
私と庸介にとって初めてのデート。学校帰りの制服姿で、手を繋いでお店の中を歩いて、お喋りしながら買い物をした。もちろん楽しかったけど、欲しい香水を買ってもらえて嬉しかったけど、何だかちょっとだけ物足りない。
私が好きな漫画で見たデートは、もっと違う。お店を一軒回っただけで終わったりしない。どこかに入ってお茶したり、公園をふらふら歩いたり、相手の部屋にお呼ばれしたり――それはまあ、まだ早いけどとにかく、お店一軒だけで終わる初デートなんて寂しい。
そう思った時、ドラッグストアの向かいにあるお店が目に入った。
「ね、もう一軒だけ寄っちゃ駄目?」
歩き出そうとした庸介を引き留めて、告げる。
彼は訝しそうに振り返った。
「少しだけならいいけど。他に見たいものでも?」
「あのお店。入ったことないから、行ってみたいな」
私が指差したハンバーガーのお店を見た時、庸介は酷く困惑した表情を浮かべた。