Tiny garden

レプリカナジミ(4)

「うわあ何これ、修羅場? 生修羅場!?」
 渡邉さんの陽気な声が教室に響いた。
 とっさに振り向けば、彼女が戸口から飛び込んでくるのが見えた。たちまち固まる私達に、両手をひらひら振ってみせる。
「いいのいいの構わず続けて。あたしはここで見学してるから!」
「渡邉さん、急に入ってきて何を……」
「だからお構いなく。徒野、びしっと格好いいこと言ってやんなよ!」
 困惑する庸介に声をかけた後、渡邉さんは蒲原くんに向き直り、
「いやあ、いつかはやると思ってたよ蒲原。あんた横恋慕オーラ出しまくりだったもんね!」
「いきなり入ってきて何だよ、渡邉」
 蒲原くんが噛みつくのも全く気にせずにこにこしている。
 かと思うと今度は私に近づいてきて、いきなりがっしり肩を組まれた。香水のいい匂いがする。
「そんで主代さん。どっちにするかもう決めてんの?」
 耳元で囁く声に私はうろたえた。
「え? どっちって……」
「もう、とぼけないの! どっちと付き合うかって話でしょ」
「そ、そういう話じゃないよこれは! 渡邉さん誤解してるよ!」
「いやそういう話でしょ。徒野? 蒲原? それとも両方?」
「両方!?」
「いいじゃん二股、魔性の女って感じで格好よくない?」
 とんでもないことを言われてしまった。甘い匂いとも相まって、頭がくらくらしてくる。
 すると庸介が私と渡邉さんの間に割り込み、力づくでに引き離した。遮るように渡邉さんの前に立ち、彼女に向かって告げる。
「渡邉さん、君は発言が軽すぎる。六花に妙なことを吹き込まないでくれ」
「あれ徒野、聞こえてた? でも主代さんが決めかねてんならそういうのもアリかなって」
「聞こえていたし決めかねているということはない!」
「ならいいけど、ぼちぼち結論出させた方がいいと思うよ。SHR始まっちゃうし」
 渡邉さんは親指で、黒板の上にかけられた丸時計を示す。
 時刻は七時五十分。それに気づいた時、同時に教室の外からざわめきが聞こえてきた。
「え、何なにマジで修羅場?」
「徒野と蒲原が主代さんを取り合ってんだって!」
「ちょっとよく見えないんだけど、殴り合いになってる?」
「まだなってない……つか何でそこに渡邉? レフェリー?」
 気がつくと教室前の戸口にはクラスメイト達が集まっていて、かぶりつきでこちらを見ている。廊下にひしめく彼らは私達のせいで教室にも入るに入れないという状況のようだ。
 そしてそれを目の当たりにした瞬間、庸介は気まずげに顔を強張らせた。
「ったく、皆来ちゃっただろ。何の為に早く登校したんだか」
 蒲原くんが大袈裟に肩を落とし、
「ほらほら時間ないよ! とっとと決めちゃいなよ主代さん!」
 渡邉さんが急かすように言う。
 私はどうしていいのかわからずに庸介を見て、彼もまたこちらを見た。滅多に取り乱すことのない目が私を捉えた瞬間、彼の顔に決意の色が浮かんだ。
「六花!」
 叫ぶように私を呼んだ庸介は、私の腰を両手で掴んだかと思うとひょいと抱き上げた。
「え、ええっ!?」
 足が床から離れて戸惑う私をよそに、庸介は私を担いで教室を飛び出す。ぽかんとする蒲原くんと顔を輝かせる渡邉さんが見えたのは一瞬だけで、すぐに廊下の景色に切り替わる。クラスメイト達が私達を追うように一斉にこちらを向いたけど、その顔もどんどん遠ざかっていく。
「おい待て徒野! 主代さんを返せー!」
「行け行け! 愛の逃避行だー!」
 蒲原くんと渡邉さんの声が人波の向こうに聞こえたような気がしたけど、確かめようもないスピードで庸介は廊下を走る。私を担ぎ上げたまま。
「庸介、どこに行くの!?」
 彼の頭にしがみつきながら、私は思わず尋ねた。
 だけど返事はなく、庸介は校内をひた走る。

 どのくらい走っただろう。このまま止まらず走り続けるのではないかとすら思い始めた辺りで、庸介はようやく立ち止まった。
 八時のチャイムが鳴り、もう人気も少なくなった廊下の端まで来ていた。上下に続く階段の踊り場に私をそっと下ろすと、庸介はぜいぜいと荒い呼吸でうずくまる。
「はあ……お、お嬢様……」
「庸介、大丈夫?」
 私が背中をさすろうとすると、彼は片手を挙げそれを押しとどめた。
「平気、です……あの、お嬢様、先に一つ申し上げておきたいことが……」
「何?」
 学校にいるというのに、庸介は私を名前では呼ばなかった。でも私はそのことを指摘できなかった。今、必死に呼吸を整えようとしている彼は私の為に苦しい思いをしているのだとわかっていたからだ。
「差し出口かもしれませんが」
 そう前置きしてから、彼は面を上げた。生真面目な顔つきにうっすら汗が滲んでいる。
「異性から申し込まれる『友達になりたい』という要請は、交際を申し込むのと同義である場合がございます。返答の際は何卒熟慮の上でお願いいたします……」
「う、うん。覚えておくね」
 とは言え私も会話の流れから、蒲原くんが言いたいのはそういうことではないかと察してはいた。もし庸介がいてくれなかったら私はどうしていただろう。きっと困り果てて、満足に返事もできなかったに違いない。
「それでできれば蒲原の件は穏便に済ませたいと考えていたのですが」
 庸介は一つ大きく息をついた後、今度は苦渋に表情を歪ませた。
「申し訳ございません。かえって事を大きくしてしまったようです」
「謝らなくていいよ。庸介が私の為にしてくれたことはわかってる」
 もともと彼は私のお目付け役としてこの学校へ通っていた。父に言われたというのも間違いなく事実なのだろうし、彼はそれを仕事としてこなそうとしただけだ。今朝見せた深刻そうな顔もそのせいで、もしかすると私の知らない気苦労が他にもあったのかもしれない。
「ですが、騒ぎになってしまいました。蒲原らを納得させる説明を考えなければ」
 庸介が尚も申し訳なさそうに項垂れる。
 その姿を見ていたら、すんなりと決心がついた。私は彼の肩に手を置き、告げた。
「顔を上げて、庸介。こうなったら皆に、正直に全部話そう」
「お嬢様……本気でいらっしゃるのですか?」
 弾かれたように面を上げた庸介に、私は頷く。
「もう幼なじみじゃ押し通せないもの。それに私、これ以上庸介に悩ませたくない」
「しかし、よろしいのですか? それでは前の学校にいた頃と――」
「いいの。元はと言えば私のわがままから始まったんだから」
 私は迷いを追い払うべく、強くかぶりを振った。
 それから庸介をじっと見つめてみる。いつも静かな彼の目に、今は迷いの色が浮かんでいるのが手に取るようにわかった。小さな頃からの付き合いだから、彼が何を考えているかくらいはわかる。そういう意味で私達は幼なじみに違いないのかもしれない。
 だけど漫画に出てくるような、憧れたくなるような仲睦まじい幼なじみにはなり得ない。
「でもね、最後だから言うよ。庸介は私にとって、この上なく理想的な幼なじみだった」
 朝のホームルームまで時間がない。言うなら今しかないという思いが、私の背を押した。
「六花って呼んでもらう度、嬉しかった。幼なじみでいてくれた庸介は本当に頼りになったし、素敵だった。どんな漫画に出てくる幼なじみよりも素敵だった」
 庸介が本物の幼なじみだったらって、何度か思った。
「もしかしたら……庸介が本当に私の幼なじみだったら、私は……好きになってたかもしれない」
 漫画の中の幼なじみ達みたいに、もどかしくてじれったい恋に落ちていたかもしれない。
 口にしてしまってから少し悔やんだのは、無性に恥ずかしくなってしまったからだ。これで最後だという切なさに押されたとは言え、これからも顔を合わせる相手に言うにはふさわしくない言葉だったかもしれない。でも、もうじき庸介は私の幼なじみではなくなってしまうのだから――。
「よろしいのですか、お嬢様」
 不意に庸介が私を呼んだ。
 私を見つめる彼の目はいつもの冷静さを取り戻していた。
「本気にしますよ」
 その眼差しは普段なら私をほっとさせてくれるのに、今はなぜか身が竦んだ。心臓が急に速くなり、私は言葉に詰まる。
「ほ……本気にするって、どういうこと?」
 庸介は答えず、私の頬に手を添えた。お風呂のお湯みたいに温かい手だった。輪郭をなぞるように私の頬を撫でた後、静かに言った。
「お嬢様、現状を打開する名案がございます。俺を信じて、ついてきていただけませんか」
「え、ええと、名案って?」
「お嬢様が正体を明かさずに済む名案です。お嬢様の楽しい学校生活は保証いたします」
「それって、皆に本当のことを言わなくてもいいってこと?」
 聞き返す私に、庸介は深く頷いた。そしてその場に立ち上がると、私に向かって手を差し伸べる。
「では参りましょう、お嬢様。全て俺にお任せを」
 その時、彼は笑んでいた。学校にいる時でも滅多に見せない、会心の笑みだった。

 SHR前に戻った私達を、クラスメイト達は冷やかしの拍手喝采で出迎えた。
 妙に恥ずかしく思う私をよそに、庸介は皆に向かってこう言い放った。
「たった今、俺と主代六花は幼なじみであることをやめた。今から俺達は――恋人同士だ!」
「ええ!?」
 私は思わず庸介を見上げたけど、隣に立つ彼の横顔に迷いの色はない。
 もちろんその後が大変だった。クラスメイトからの拍手喝采は鳴り止まず、祝福され口笛を吹かれ冷やかされと大騒ぎになった。
 蒲原くんがすっ飛んできて、庸介に向かって異議を唱えた。
「待てよ徒野! それは抜け駆けだろ!」
 でも庸介が答える前に、今度は渡邉さんが駆け寄ってきて蒲原の肩を叩く。
「あんたなんて負け決まってたんだから諦めなって。幼なじみに勝てるわけないじゃん」
「何だと!」
「はいはい。それより徒野やるじゃん、あんたはやればできる子だって思ってたよ!」
 庸介に向かって親指を立てる渡邉さんが、その後で私に向かって笑いかける。
「おめでと主代さん! やっぱあたしの言った通りだったでしょ?」
「あ、ありがとう……」
 思わずお礼を言ってしまったけど、私はこの事態についていけなかった。信じてついて来て欲しいなんて庸介は言っていたけど――こういうことになるとは思っていなかった。
「庸介、あの……」
 私が尋ねようとすると、庸介は宥めるように優しく微笑む。
「大騒ぎにしてごめん。でも他に方法がなかったんだ」
 その言葉の真偽の程は、直後に教室へ現れた先生のせいで確かめようがなかった。
 そして授業が始まり、私達は一日中冷やかされながら落ち着かない気分で過ごす羽目になり――。

 騒ぎから解放されたのは放課後だった。
 迎えのマイクロバスに乗り込むまで一息つくこともできなかった。ようやく静かになり、深呼吸をした後で、
「……本当にあれしか方法なかったの?」
 かねてからの疑問をぶつけると、庸介は平然と答える。
「あの時思いついたのはあれだけでした。独断で決行したことをお許しください」
「いや、許さないとかじゃないんだけど、何かこう、釈然としないって言うか……」
「お嬢様の素性を明かさず、蒲原を諦めさせるにはあのやり方しかないと思ったのです」
 隣に座る庸介はどこか満足げだった。
「しかしもっと早く思いつくべきでした。これなら言いつけ通りお嬢様に近づく輩を寄せつけずに済み、一石二鳥です」
「まあ、そうかもしれないけど……」
 元から渡邉さんには疑われていたし、幼なじみとは得てしてその関係を勘繰られるものだ。それが恋人同士に変わったところで誰も疑わず、それどころか『ああやっぱり』とすんなり思うものらしかった。私としても素性を明かさずに済むのはありがたかったし、明日からまた楽しい学校生活が送れるならその方がいい。
 さすがに今まで通りに、とはいかないだろうけど。しばらくは騒々しい日々が続きそうだけど。
「それとも、俺が相手役ではご不満ですか?」
 庸介が顔を覗き込んできたので、距離の近さに私は慌てた。
「そ、そんなことない。あ、ないって言うのは、変な意味じゃなくてね。庸介は理想の幼なじみだし、素敵だし――」
「好きになっていたかもしれない。そう言っていただきましたね」
「う……うん」
 あの言葉が嘘だというわけではない。でもこうして改めて言われると恥ずかしくて、見慣れた顔すら直視できなくなるのはなぜだろう。好きだと言ったわけではないのに。
「光栄に存じます。明日以降もお嬢様の学校生活がよりよいものとなるよう、この徒野庸介、誠心誠意尽くして参ります」
 庸介はいつも通りだ。私みたいに恥ずかしがってもいなければ、照れてもいない。
 それが何だか悔しくて、私は自棄気味に言った。
「だったらもう少し、恋人らしく言ってみてよ」
「それはまた明日にでも」
 庸介にとっては『幼なじみごっこ』に成り代わるのが『恋人ごっこ』なのだろうか。それはそれで悔しいと言うか、複雑だった。彼なら仕事としてそんな演技もできるのかもしれないけど、だからって。
 そこでふと、疑問が浮かんで、
「ねえ庸介」
「何でございましょう、お嬢様」
「さっき一石二鳥って言ったけど、もう一つのメリットって?」
 思えばそれを聞いていないような気がした。私が尋ねると、彼は目を伏せて静かに答える。
「お嬢様が仰ったように、俺も学校生活において楽しみを見出すことができます」
「それって……」
 私の言葉を遮るように、庸介はまた会心の笑みを浮かべた。
「明日がとても楽しみですね、お嬢様」

 跳ね上がる心臓に合わせたように、運転席の行田さんが咳払いをした。
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