Tiny garden

まっしろな嘘(1)

 なかなか寝つけない夜が過ぎ、寝不足の朝が来た。
 昨夜眠れなかったその理由はたった一つだ。
 庸介が、私の恋人になった。

 もちろんそれは、これまでの『幼なじみのふり』と同じことだとわかっている。
 恋人のふり、お付き合いしているふりを学校にいる間だけする。それだけのことだ。
 だけどそれでも、どきどきする。
 だって今まで彼氏なんていたことがなかった。そんな、それこそ漫画みたいなこと、私の身に起こるなんて思わなかった。
 しかも相手が庸介だ。普段の庸介は堅いし真面目すぎるし私にあれこれお小言を言ってばかりの使用人だけど、学校で一緒に過ごす時は違う。いつも私の傍にいてくれて、私のことを見てくれて、困った時には頼りになって、お昼はお弁当を作ってきてくれて――漫画に出てくるような、まさに理想の幼なじみだった。
 理想の幼なじみが彼氏になったら、やっぱりそれは、理想の彼氏になってくれるのではないだろうか。

 午前四時前にベッドを出て、顔を洗って、髪を梳いて、制服に着替えた。
 その後はもう、庸介が朝食を持ってきてくれるのをそわそわしながら待っていた。
 どんな顔をして待っていたらいいんだろう。恋人同士って、どんな挨拶をするものなんだろう。漫画を読み返しておくべきだったかな。ないと思うけど、絶対ないと思うけど、おはようのキスとかされたりとかしたらどうしよう――考えているだけで自然と頬が熱を持ち始めて、私はお部屋の中をうろうろしながら彼の到着を待った。
 やがてノックの音がして、
「お嬢様、おはようございます」
 庸介の声がドア越しに聞こえる。
 途端に私は跳び上がりそうになり、深呼吸をして心を落ち着けてから応じた。
「……お、おはよう。どうぞ、入って」
 そしてドアを開けると、白シャツに制服のスラックスといういでたちの庸介が立っている。
 いかに朝が早かろうとも、私の前に現れる彼はいつだってちゃんとしている。真っ直ぐで硬質な髪は寝癖一つないし、大人びた顔立ちにも眠そうな気配は一切ない。着ているシャツだって皺なんかないし、お出かけ前だというのにボタンを一番上まできっちり留めている。
 庸介は私の顔を見ると、静かに目を瞠った。
「今朝はどうされました? 寝不足のご様子ですが」
 目が合ったことにどきどきしつつ、仕方ないじゃない、と私は思う。
 寝不足なのは当然だ。昨日、あんなことがあったのだから。
「う、うん、まあね。庸介はどう?」
 聞き返しつつ、私は部屋に入ってくる庸介を窺い見た。
 朝食一式を載せたワゴンを押す彼は、私と違って寝不足の様子などかけらもない。私の問いにも怪訝な顔をするばかりだ。
「どうと仰られましても、俺は夜更かしなどいたしません」
「夜更かししたわけじゃないよ! その、昨夜は眠れなかったの」
 そう訴えると庸介は眉を顰めて、
「何かございましたか。枕を替えたばかりなので、その影響でしょうか」
 その言葉に私も、思わず眉を顰め返す。
「そういうことじゃなくて。ねえ、本当に庸介は何でもないの?」
「ええ。お蔭様で、昨夜はすこぶる快眠でした」
 あまりにも平然と、庸介が答える。
 私は彼の傍に歩み寄り、その澄ました顔をしげしげと見上げてやった。庸介は私の視線をやはり平然と受け止めた後、怪訝そうに口を開く。
「どうかなさいましたか」
「……ううん、別に」
 彼の言葉に嘘はないようだ。何度じっくり見てみても、眠れぬ夜を過ごした後には見えない。

 ということは、寝つけなかったのは私だけみたいだ。昨日の出来事は、庸介にとって睡眠不足をきたすようなものではなかったらしい。
 なぜか、ちょっと悔しかった。
 昨夜からあんなにどきどきしていたせいだろうか。お付き合いするってどういう感じか全然わからなくて、でも庸介が相手だから少し楽しみにしていたのに。庸介の方は、家にいる間はいつも通りを貫くつもりのようだ。

「本日はお嬢様の好きなリコッタチーズのパンケーキをご用意いたしました」
 庸介は淡々と仕事をこなしている。
 私の視線に動じることなく、てきぱきと手際よく食卓を整えていくその様子は、普段の『使用人』らしい庸介だった。昨日の朝と何一つ変わっていない。拍子抜けするくらいに。
「どうぞお席へ、お嬢様」
 庸介が引いてくれた椅子に、私は座るのをためらった。
 途端に彼が怪訝そうにする。
「どうなさいました。朝食をお取りにならないのですか?」
「食べるけど」
「では、メニューがお気に召しませんでしたか?」
「ううん、好きだけど」
 私が渋々答えると、彼は感情が見えない目元をわずかにだけ微笑ませた。
「トッピングは何にいたしますか、お嬢様」
「フルーツあるだけ全部。あとメープルシロップとハニーコームバター」
「かしこまりました。お飲み物は何にいたしましょう?」
「紅茶。お砂糖もミルクも要らない」
 椅子に腰を下ろせば、すぐにパンケーキの皿が置かれる。ブルーベリーにラズベリー、キウイにバナナと、庸介は果物をふんだんに盛りつけた後、ハニーコームバターをナイフで切ってパンケーキに載せ、そしてメープルシロップを回しかけてくれた。バターがとろりととろけ出し、金色のシロップと混ざりあう。
 悔しいけど、とても美味しそうだ。

 私は諸々の不満を頭の隅に追いやり、庸介が作ってくれた朝食を味わうことにした。
 焼きたてのパンケーキはふわふわと軽く、微かに感じるチーズの酸味とメープルシロップがとても合う。ハニーコームバターも庸介のお手製で、これがまたすごく美味しい。
「お口に合いましたか、お嬢様」
「……うん。とっても美味しいよ」
 素直に答えてあげると、庸介は少し誇らしげな顔をする。
「喜んでいただけて光栄です」
 家にいる間は感情を見せようとしない彼も、たまにこうして内心を覗かせることがある。
 ずっと見ていなければ気づけないくらい、一瞬だけ。
 それが本人も気づいていない気の緩みなのか、私に心を許してくれているということなのかは、いまいちよくわからない。ある意味では幼なじみと相違ないほどの長い付き合いだ、単によく見ているから私にはわかるというだけかもしれない。
「恋人のふりをするって、昨日言ったよね」
 パンケーキを食べ終えた後、紅茶を飲みながら私はついに切り出した。
 庸介は空いた食器を片づける手を止め、咎めるようにかぶりを振る。
「お嬢様、ここでそのお話は――」
「私の部屋なんだから平気じゃない。誰に聞かれるわけでもないのに」
「そういう問題ではございません。線引きはきちんとしなければ」
「線引きかあ……。なら、家では何も変わらないってこと?」
 どちらにしてもこれは『ふり』だ。恋人のふり。
 幼なじみを装っていたのをやめて、違う嘘をつくというだけのことだ。
「ええ。俺はあくまでも主代家の使用人でございます」
 きっぱりと言い切る庸介は、昨日の朝から何も変わっていない彼だった。
 それでも、ふりでも、何か変わるんじゃないかって思ってたんだけどな。私は溜息をつく。
「庸介、彼女なんていたことないでしょう?」
 すると庸介はためらいもなく答えた。
「恥ずかしながら、仰る通りです」
「じゃあ恋人同士が何をするか、ちゃんとわかってる?」
「一般常識としては存じておりますが」
 生真面目に答える彼が、それを本当に知っているかは怪しいものだった。一般常識って単語が出てくる時点でもう駄目だ。
 それならきっと、少女漫画を愛読している私の方がまだ詳しい。
「今度、また漫画を貸してあげる。それを読んで勉強してよ」
 私が提案すると、庸介は静かな瞳に困惑の色をちらつかせた。
「前に何冊か読ませていただき、もう十分理解いたしましたが」
「ううん、もっと読んでおいて。上手く演じてもらわなくちゃ困るもの」
「奥様が気にしておいでです。お嬢様が普段どんな本を読まれているのかと――」
「だめ、言っちゃだめ! 両親には言わないで!」
 本棚に並ぶ漫画のタイトルはどれも何と言うか、甘くて、可愛らしくて、タイトルだけで少女漫画だとわかるものばかりだった。だから父にも母にも言いたくない。二人とも忙しい人だから、私が自室にどんな本を溜め込んでいるかなんて何にも知らないはずだった。
 慌てふためく私を見て、庸介は笑うような息をつく。
「もちろん秘密にいたします、ご安心を」
 何がおかしいんだろう。私は、やっぱり拗ねたくなった。

 行田さんの運転する車に乗って、私と庸介は一緒に登校した。
 人目を避けての通学だから、教室には毎朝一番乗りだ。誰もいない教室の中、私達は並んで窓の外を見ている。
 グラウンドではサッカー部が朝練を始めたばかりのようだ。校門をくぐる生徒の数はまだまばらで、生徒指導の先生の姿もない。静かな朝だった。
「もう、恋人のふり開始?」
 窓枠にもたれる庸介に、私は尋ねた。
 彼は私にちらりと目をやり、すぐに苦笑する。
「今朝の六花は、何だか拗ねているみたいだ」
「拗ねてなんか……」
 反論しかけて、それが嘘でしかないと自分で気づいて、結局口を噤むしかなかった。
 実際、拗ねているとしか言いようがない。庸介があまりにも普段通りに、平然としているから。私なんて昨夜はちっとも眠れなくて、今朝だって妙にどきどきしていたのに。恋人同士ってどんなふうに振る舞うのかわからないけど、それらしくしてみようと思ってたのに。
 庸介はやっぱりいつも通りだ。学校にいる時の、私の理想のままの『幼なじみ』の庸介。何にも変わっていないように見える。
「一石二鳥だって、昨日言っただろ」
 そんな庸介が、私を宥めにかかろうとする。
「俺は楽しみにしているよ、今日からの学校生活。何せ彼女ができたんだから」
 まるでずっと用意していたみたいにすらすらと、そんな台詞を口にした。
 向けられた『彼女』という単語には、どうしようもなくどぎまぎした。
 私は慌てて庸介から目を逸らす。
「で、でも、初めての彼女でしょう? 庸介はもっと勉強した方がいいと思う」
「だからって六花の漫画を借りる気はないよ。あれは刺激が強すぎる」
「そんなことないと思うけどな。まずマニュアルを読むのって大事だよ」
「残念だけど、俺は何でも実地と経験で覚えろって父から言われてる」
 庸介はどうしたって、私の漫画を借りて読む気はないらしい。勉強はとても大事なことなのに。
「じゃあ庸介はどんな……えっと、彼氏、になってくれるの?」
 自分で口にするその単語は、何だかとてつもなく恥ずかしくて言いにくかった。それでも口にしてみたら、庸介は微かに笑ったようだ。
 そして私の頬に、庸介の手のひらが触れた。
 庸介の手は硬い。骨の形が皮膚越しに全部わかってしまうような硬さをしている。子供の頃はもっとすらりとしていて、私の手と変わらないくらい柔らかかったのに、いつの間にかごつごつの硬い手に変わっていた。それでいていつも温かくて、嫌いじゃない。
 でも、どきどきする。だって昨日もこんなふうにされた。あの時のことがきっかけで、私達は付き合うようになって――嘘なんだけど、演じているだけなんだけど、そんな事実さえもすっ飛ばして心臓が早鐘を打ち始める。
「六花」
 庸介が、私の名前を呼ぶ。
 家では絶対呼んでくれない。こんな優しい声だって滅多に聞かせてくれない。だから学校で呼んでもらえると嬉しくて、頬が緩んでしまう。
「六花、顔を上げて」
 もう一度、庸介が私を促す。

 こんなシチュエーション、漫画で見た。
 その通りの展開ならこの後に来るのはきっと――どうしよう。もしかしたら、絶対ないだろうと思いつつもちょっぴり期待していたことではあったけど、と言うか別にしたかったわけではないけどするかもなみたいな、何と言うか予感みたいなものがあったりなかったりで、要は、覚悟はしていたというところだった。
 こわごわ、顔を上げてみる。
 すると庸介はいつもの冷静な目で私を見下ろしていて、その眼差しに胸を射抜かれた私は目をつむろうか、どうしようか、真剣に考えた。
 考えた。
 答えは、出なかった。

 代わりに遠くから足音が聞こえてきた。
 それも全力疾走の、驚くほど速いものだった。
 何かを察知したように庸介が私の頬から手を離し、次の瞬間、
「おっはよう! やっぱり来てたね、お二人さん!」
 短いスカートをひらめかせた渡邉さんが、教室の戸口から飛び込んできた。
 下ろした髪は風に乱され、緩く結んだタイリボンもすっかり曲がってしまっている。随分急いで駆けてきたみたいだ、まだ七時を過ぎたばかりなのに。
「お、おはよう……。どうしたの、そんなに急いで」
 私が尋ねると、渡邉さんはにこにこしながら、香水の甘い匂いと共に近づいてきた。
「もっちろん、二人を祝福しようと思って早めに登校したんだよ!」
「しゅ、祝福!?」
「カップル二日目の朝だけど、どう? 何かいいことあった?」
「えっ、な、ないよ何にも……」
 なかった、と思う。多分。
 強いて言うなら朝ご飯が私の大好きなパンケーキだったけど、これはあんまり関係ない、かな。
「どうなの徒野。何かした? 昨日の放課後も一緒に帰ったんでしょ?」
 私からは聞き出せないと見るや、渡邉さんは庸介をつつき始めた。
「やめてくれよ渡邉さん、俺はいいけど六花が困ってるだろ」
 庸介はそれを笑顔でかわそうとしている。
 だけど、渡邉さんは気にせずにまっと笑んだ。
「あんだけド派手にお付き合い宣言しといて何言ってんの! いろいろ根掘り葉掘りしちゃうから覚悟するように!」
「え!? 根掘り葉掘りってそんな――」
「駄目だよ渡邉さん。六花は俺が守る」
 異を唱えようとした私を遮るように、庸介が私の肩を抱く。
 そうなるともう彼の体温に意識が奪われてしまって、渡邉さんの歓声も庸介の反論も、後からやってきたクラスメイトの言葉も全部、頭に入ってこなくて困った。

 これからの学校生活、ものすごく賑やかになりそうなことだけは疑いようもないみたい。
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