Tiny garden

満ち足りた日常/前編

 十二月三十日の晩、早良は自室にいた。
 携帯電話片手に荷物をまとめている。通話先は年下の恋人であり、旅行鞄に詰め込んでいるのは着替えや洗面用具だ。
「あと三十分以内に出発する」
 腕時計を見ながら告げると、電話の向こうでは気遣わしげな声がした。
『焦らず、ゆっくり来てくださいね。積もってはいませんけど、少し雪が降っています。路面が凍っているかもしれませんから』
「わかってる。大丈夫だ」
 あかりの言葉に応じつつ、自然と口元が綻んでしまう。笑いかけたところで相手から見えるはずもないというのに、彼女との電話中は笑ってしまうことが多かった。
「済まなかったな。もう少し早めに出発しようと踏んでいたんだが」
 夏に約束したとおり、この年末年始は上郷で過ごす予定だった。あかりは一足先に実家へ戻り、早良もこれから追い駆けようというところだ。
 既に時刻は八時過ぎ。今から上郷へ向かえば、日付が替わるか替わらないかという微妙な頃合に着くだろう。本当は余裕を持った出発にしたかったのだが、年末進行を乗り切った身体は思うように動いてくれなかった。
 二十八日、仕事納めの日は多忙だった。オフィスでの執務をこなし、現場にも顔を出した。その前日が忘年会ということもあり、他の社員たちの動きは鈍く、すこぶる能率が悪かった。それでも煩わしい雑務を抱えて年は越したくないと、早良は孤軍奮闘した。
 二十九日は勤務こそなかったが、するべきことは山ほどあった。年明け以降に備えた仕事の準備はもちろん、部屋の大掃除も、旅行に備えた買い物も済ませていなかった。宮下家にお邪魔するのに手ぶらという訳にもいかないだろうしと、あかりの助言を受けつつ手土産になりそうな品物も購入した。それらの用件を全て片付けると、安心感からか、今度はどっと疲れが押し寄せた。その結果――三十日の半分を休養に当てる結果となった。
 とは言え、余分に休養を取ったのは正解だったかもしれない。上郷に着いてからも寝てばかりいるつもりはなかった。やることはいくらでもある、雪かきをしたり、かまくらを作ったりと。これから数時間も車を運転していかねばならないのだし、半日の休養は正解だったはずだ。そう思い、早良は自分を納得させることにした。
『いいんです。ゆっくりでも、無事に来てくださったら』
 心配そうなトーンのままで、あかりが語を継ぐ。
『仕事納めの日まではすごく忙しかったみたいですし、無理はしないでくださいね、早良さん』
「無理はしてない」
 旅行鞄に荷物を詰め終え、蓋を閉めながら早良は応じる。
 どうせどんなにくたびれていても、彼女の顔を見ればどうでもよくなる。疲れなど吹き飛んでしまうに決まっている。その事実を本人に告げられたらいいのだろうが、まだそこまで器用ではなかった。
「君の方こそ変わりはないか? しばらく会っていなかったからな」
 年末進行のせいで、既に半月ほどあかりの顔を見ていなかった。寝過ごしたのは禁断症状のせいかもしれない。早良がそう思いつつ尋ねると、電話越しに彼女のはにかむ声が聞こえてきた。
『全然変わりありません。家族は皆、元気ですし……私は変わったって、皆から言われましたけど』
「そうだろうな」
 早良も頷く。
『はい。髪を切ったら大人っぽくなったって言ってもらいました。中身はちっとも変わらないのにって』
 あかりはくすぐったそうに言った。しかし、大人っぽくなったのは髪型のせいだろうか。髪型だけが要因ではないだろうと、早良は密かに思っている。そのことをどう言い表してよいのかわからず、結局また口を噤むのだが。
「俺も君に会うのが楽しみだ」
 それでもせめて、このくらいは。気負いが声に表れないよう、早良は努めて平静に告げた。
「もう、半月ぶりになるからな」
『そうでしたね。私も、とっても楽しみです』
 彼女の声も、ごく穏やかに聞こえた。
『お待ちしてます、早良さん』
 その言葉とほぼ同時に、早良は自室の照明を消し、ドアを閉めた。旅行鞄と携帯電話を掴んで、階下へと向かう。

 家の中はしんとしていた。
 父親は飲みに出かけていると聞いている。家政婦たちも既に仕事納めに入っており、家にいるのは早良と母親だけ。その早良もこれから家を出る。
 早良の両親は、年末年始を例年通り旅先で過ごすらしい。早良の動向については二人とも気にするそぶりを見せなかった。だから早良もろくに説明はしなかったし、今も黙って出て行くつもりでいた。
 挨拶を告げられる相手はたった一人だ。
「じゃあ、これから家を出る」
 上郷にいる彼女へと呼びかける。
『はい、どうぞお気を付けて。急がなくてもいいですからね』
 あかりの口調はまだ心配そうだ。早良は思わず苦笑した。
「そんなに不安がらなくてもいい。君に遅くまで起きててもらうのも悪いし、事故に会わない程度には急ぐ」
『駄目です。私は何時まででも起きていられますから、のんびり来てください』
 頑なに言い募られれば、折れない訳にもいかなかった。
「わかった、君の言う通りにするよ」
 早良がそう、柔らかく告げた時だった。
 不意に、居間のドアが開いた。ぎょっとして振り向いた早良は、危うく携帯電話を取り落とすところだった。細く開いたドアから、母親が顔を覗かせている。恐る恐る、こちらの様子をうかがうように。
 内心で早良は動揺した。出掛けに見送りをしてくれるような母親ではなかった。挨拶も告げずに出て行こうと思っていた手前、こうして出てこられると反応に困る。もちろん無視することも出来ないのだが。
 とりあえず、あかりにはこう言った。
「じゃあ、近くなったらまた連絡する」
『お待ちしてますね』
 彼女は早良の動揺に気付かなかったようだ。いたって明るく電話を切った。

 通話を終えた携帯電話をしまい込むと、早良は母親に向き直った。
 母親は居間から出ると、後ろ手でそのドアを閉めた。動きはぎこちなく、表情も硬かった。早良の方を、じっと上目遣いで見ている。
「克明さん、出かけるのね」
 不自然に引き攣った声が、早良にそう尋ねてきた。早良もぎくしゃく顎を引く。
「ええ。母さん……には、話していませんでしたね」
 そんな風に呼びかけたのも、思えば久し振りだった。
 家の中でも存在感の薄い母親は、無理に笑いを作ってみせた。
「あの人から聞いてはいます。上郷に行くんでしょう?」
 媚びるようではなく、むしろ気遣わしげでさえあった。あの人、と呼ばれた父親とは、普段どんな会話を交わしていただろうか。それすらまともに思い出せない。早良は答えに窮し、無言のまま再び頷く。
 息子のよそよそしさを目の当たりにしたせいか、母親も困ったような表情を浮かべた。それでも尚、言葉を続ける。
「相手の方って、今、電話で話していた方なの?」
「……ええ、そうです」
 素直に答えると、母親の困惑の色がいくらか和らいだ。
「そう思ったの。あなた、いつもと違う顔をしていたから。丸くなったわ、とても」
 血の繋がった母と子の間に、今は微妙な空気の強張りがある。ぴりぴりとする緊張感を母親に対しても覚えるようになったのは、いつからだっただろう。父親とは違い、まるで印象に残っていなかった。
 だから訝しくさえ思った。こうして話しかけられたことに。
「きっと、素敵な方なのね。あなたが変わってしまうくらいだもの」
 母の言葉に、早良は違う意味で答えに窮した。それで母親もぎこちなく笑んで、更に言った。
「私には……あの人を説き伏せることなんて出来やしない。でも、話を聞くくらいは出来ると、思うの。あの、あなたが嫌じゃなければ、だけど」
 たどたどしい口調と硬い笑顔。見慣れない母親の姿は早良をひたすら当惑させた。
「だからそのうちに、話を聞かせてくれない? その方のこと……母さんにも」
 しかし、間違いなく『母親』だった。早良の前で、久し振りに肉親らしい顔を見せていた。久し振りだったせいか、まるで頼りなく、ぎこちなかった。それでも続けてきた。
「そのうちでいいから」
 早良もようやく察した。母は本当に、早良の変化に気付いているのだろう。何が変わったか、何によって変わったかをわかっているのだろう。そして恐らくはその変化を、喜んでくれているのだろう。
 無性にくすぐったくなった。親に内面の変化を悟られるのは、思いのほか居心地の悪いものだった。かと言って気分が悪い訳ではなく、ただ妙に面映かった。
 息子の表情を見つめていた母親は、次の瞬間、ふっと笑んだ。解けるような笑い方だった。
「引き止めてごめんなさいね。――いってらっしゃい、克明さん。良い年越しを過ごしてね」
 背を押された心持ちで、早良もおずおずと応じる。
「……行ってきます、母さん。良いお年を」


 上郷に辿り着いたのは、ちょうど日付が替わった直後だった。
 事前に連絡を入れていたせいか、早良の車が旅館の駐車場に乗り入れてすぐ、あかりが玄関から飛び出してきた。コートを着込んでいるとは言え、山間の十二月だ。雪もちらつき始めていた。いくら何でも寒いだろうと早良は顔を顰めた。
「出てくることもなかったのに。風邪を引くぞ」
 車を降りた直後にそう言うと、目の前に立つあかりは、震える声で答える。
「迎えに出たかったんです」
 白い吐息が風に、雪に掻き消されていく。
「お待ちしてました、早良さん」
 寒そうにしながらも、彼女の眼差しは真っ直ぐだった。素直に早良を見つめてきた。声も、髪も、コートを着た身体も、ずっと小刻みに震えているのに。十二月の真夜中、わざわざ自分を迎える為だけに外へ飛び出してくるような彼女。
 丸くなるはずだ、と思う。彼女といれば、四角四面で意地を張っているのも馬鹿馬鹿しくなる。不器用でも素直でありたいと思ってしまう。
「ありがとう」
 早良は言い、五秒間だけあかりを抱き締めた。

 十二月三十一日、未明のことだった。
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