Tiny garden

( ああ、だから生きていける )

 ある晩秋の夜、早良はこたつの中にいた。
 こたつには途轍もない魅力がある。ともすれば、若くて可愛らしい恋人以上に惹きつけられてやまない魅力が。早良自身はこたつにさしたる思い入れもないはずだったが、気が付けば仕事帰りのスーツ姿でこたつに収まっていた。
「冬も近いですし、思い切って早めに出しちゃいました」
 隣ではあかりが相好を崩している。陽が落ちると寒さの忍び寄る十一月、彼女はこたつがありますからと早良を部屋に誘ってきた。いつものように玄関先でいとまを告げるつもりだった早良も、こたつの魅力には打ち勝てなかった。何せ、久し振りのこたつだった。
「懐かしいな。学生時代はしょっちゅうお世話になった」
 早良はこたつ布団の下でも行儀よく正座をしている。お蔭であかりが普段よりも小さく見えた。
「受験生だった頃は、机に向かうよりもこたつに向かっていることの方が多かった気がする」
「あ、私もそうです。今年もそうなるかもしれません」
 声を立てて彼女は笑う。二間のアパートのうち、早良が足を踏み入れたのはこたつのある居間だけだった。いつも襖の閉じている奥の部屋には勉強机があるらしい。が、話に聞くだけで見せてもらったことはない。彼女だって、プライベートな空間を他人に晒したいとは思わないだろう。
「こたつがある部屋はいいな。しばらく片付けていたが、また引っ張り出したくなってきた」
 ぬくぬくとしながら早良は呟いた。それを聞いたあかりが怪訝そうにする。
「どうして片付けちゃったんですか?」
「のんびり入ってる時間がなくなった」
 正直に答えたつもりだったが、直後、自分で違和感を覚えた。彼女の部屋のこたつでのんびりしている時間はあるのに、自室でのんびり出来ないというのも奇妙な話だ。しかしこの部屋には、確かに自室よりも、自宅よりも穏やかな空気が満ち溢れている。
 ちらと、視界の端であかりを見やる。彼女は顎の下で十指を組んで、ぼんやりと壁のカレンダーを眺めていた。何か考えているようでもあり、何も考えていないようでもある。少なくとも彼女の態度から、緊張の色はまるでうかがえない。
 翻って自分はどうだろう。緊張していない訳ではなかった。夜の八時を過ぎての訪問で、昼間に会う時よりも緊張しているのは確かだ。
 あかりの隣にいて、必死に話題を探したり、相手の出方を必要以上にうかがったりすることは今でも度々ある。彼女の何気ない一挙一動に、或いは自らの感情に、戸惑わされることも頻繁にある。それでも二人でいる時間が穏やかだと感じている。やはり、奇妙に思えた。
 早良が思案を巡らせていると、不意に彼女が口を開いた。
「あ、そうだ」
 ひらめきの表情をこちらへ向けてくる。
「早良さん、アイスクリームはいかがですか」
「アイスクリーム? この時期にか?」
 ぎょっとした早良に、あかりは意気揚々と続ける。
「こたつと言えばアイスクリームですよ。暖かくして食べるアイスクリームは美味しいんです。最高の贅沢です」
「確かに贅沢だ」
 腑に落ちた気分で早良は頷く。その時には既に、彼女はこたつを抜け出していて、軽い足取りで台所へと向かっていた。
「上郷にいた頃の癖で、ファミリーサイズのを買っちゃったんです。食べ切れるかどうか不安だったんですけど、もし早良さんが食べてくださったら大丈夫かなあって……」
 照れ笑いがこちらを覗いた。たったそれだけの仕種に心が温かくなってくる。アイスクリームを食べるのに、ちょうどいいくらいに。
「……そういうことなら、協力しようか」
「よかった。すぐにご用意します」
 あかりの声が弾んでいる。次いで、冷凍庫を開ける音も聞こえてきた。早良も表向きは苦笑しながら、内心穏やかな気分で視線を移す。
 壁のカレンダーは残り二枚。十一月ももうじき終わりだった。

 アイスクリームは透明なガラス皿に、丸い形で盛り付けられた。白い、バニラのアイスだった。
 デザートスプーンを添えて差し出され、早良は会釈をしてそれを受け取る。すぐにあかりもこたつに戻ってきて、二人はアイスクリームを食べ始める。
「風邪でも引いたのかと思った」
 丸い形をスプーンで切り崩しながら、早良は少しだけ笑った。
「前に、風邪を引いた時はアイスクリームを食べるのが慣わしだと聞いていたから」
「そういえばそうでしたね」
 何かを思い出したようにあかりがはにかむ。その後で、やや急き気味に言い添えてきた。
「こたつを出す頃って、風邪を引きそうな季節ですよね。うちは毎年、真っ先に雄輝が引くんです。厚着しなさいって言ってもちっとも言うこと聞かないから」
 見たことはなくとも想像に易い。情景を思い浮かべる早良に対し、彼女は更に語を継ぐ。
「それで、その次は私が引くんです。きょうだいで順番に引いて、だからうちの父は大きなアイスクリームを買ってくるんです。いちいち買いに行かなくても済むようにって。大抵、アイスがなくなるよりも先に、二人とも治っちゃうんですけど」
「効果覿面なんだな。いい特効薬じゃないか、君にとってのアイスクリームは」
 感心半分、からかい半分の口調になる。そういう言い方をしてもあかりは拗ねたりむくれたりはせず、素直に照れてみせる。
「恥ずかしいです。……早良さんは、風邪を引いた時の特効薬ってありますか」
 逆に尋ねられ、早良は思わず眉根を寄せた。彼女のように温かな思い出はない。あるのは実に現実的な記憶だけだった。
「風邪薬と栄養ドリンクを飲む。そのくらいしか浮かばない」
「もしかして、早良さんってあまり風邪を引かない方ですか?」
「かもしれないな。少なくとも最近、寝込んだことはない」
 寝込んでいる暇はなかったし、そのことで誰かに干渉される結果になるのも嫌だった。あの家で寝込もうものなら更に病状が悪化するかもしれない。そう思い、多少の体調不良は気力で乗り越えてきた。人間不信が日々の健康を齎したのだと思うと、いささか複雑な気分になるものの。
 となると、干渉して欲しい相手が出来た今こそ気を付けるべきなのだろう。――あかりの顔を見て、早良は密かにそわそわしていた。風邪を引いたら心配して欲しいなどと当然言えるはずもなく、しかし内心で多少の期待もしてしまう。無論、風邪を引きたい訳ではない。断じてないのだが。
「これから寒くなりますから、どうか気を付けてくださいね」
 今のところは、それだけでも言ってもらえるだけでありがたかった。そんなささやかな言葉でさえ、心がこもっていたなら貴い。早良にとって、誰よりも一番信じられる相手が言ってくれるのだから、とても貴い。
「わかった。気を付けるようにする」
 彼女の言葉に対し、気の利いた答え方は浮かばない。だからとりあえずは素直に頷く。早良が頷くとあかりはうれしそうな顔をする。彼女のうれしそうな顔は自分にとってもうれしく、けれど少しばかりくすぐったい。
 やがて沈黙が訪れて、アイスクリームを口に運ぶスプーンの音だけが部屋に満ちる。午後九時前、このアパートはいつでも静かだった。外の風の音さえ聞こえない。こたつの中は暖かで、部屋の空気はどこまでも穏やかだ。
 二人で築き始めた領域がここにある。

 かつて、早良の領域は他の誰にも侵されない、頑ななものだった。
 他人の領域に踏み込みたいと思うことも、他人に干渉されたいと思うこともなかった。あかりと出会うまでは。
 彼女と出会い、そして彼女を許容してからも、早良はひたすらに頑なだった。どこまでなら踏み込めて、どこからが拒むべきなのか、その境界線を常に測り続けていた。今も、そうなのかもしれない。
 しかし早良の目測は当てにならないことの方が多かった。あかりは自分よりもはるかに寛容な人間だったし、彼女と共にいることで、自らも寛容になりつつあるのも事実だった。明確に分け隔てられていた領域は、少しずつ融合を始めている。他人と共有し合うことの意味をわかり始めている。彼女となら共有してもいいと思う。緊張を孕んだ時間も、穏やかさに満ちた時間も、これから自然と積み重ねてゆけると思う。
 むしろ、そのうちに意識すらしなくなるのかもしれない。時間を重ねてゆくこと。彼女を許容すること。自分と彼女との境界線も、何もかも。

「夏の終わりに、君に婚約を申し込んだのを覚えているか」
 空になった皿の上、スプーンを置く音が響いた。
 あかりもはっとしたように姿勢を正した。食べかけのアイスクリームの横にスプーンを添え、早良の方へと向き直る。それから、顎を引く。
「はい」
「あの時、俺は焦っていた。出来るだけ早く認められたいと思っていたんだ。君とのことを」
 溜息が出た。
 短絡極まりない発想だった。社会的に認められれば、誰にも口を挟まれないだろうと考えていた。その為の、思いついた手段が婚約だった。
「だが、それは違った。形ばかりの関係が認められたところで、誰かから信じてもらえる訳がない。信頼を得る為には、君との関係が真に揺るぎないものであることを証明してみせなくてはならないのだと、ようやくわかった」
 非常に恥ずかしいことを口にしているような気がしてきたが、今更止められるはずもなかった。こたつが急に暑くなってきた。心なしか、あかりもどこか暑そうにしていた。
「俺は、君のことを信じている。君となら、いつまでも一緒にいられるような気がしている。根拠は特にないが、そう思う」
 それでも早良がそう告げると、あかりもすかさず頷いてみせた。
「私も、同じように思います」
「そうか、よかった。――この間、父に言われた。『まずは、長く続けてみせろと』」
 父の話題を口にする時、どうしても皮肉めいた物言いになる。なるべく淡々と告げられるように苦心した。
「父は、俺を信じていないのだと思う。長く続けろと言うのも、続くまいと踏んでのことなのかもしれない。そうではないとしても、君と、ずっと一緒にいることについて異論はない」
 悔しいが、父の言うことにも一理あるのだろう。信頼とはそうして築き上げていくものだ。早良がゆっくりと時間を掛けて、あかりを信じていったように、今度は早良が信頼されなくてはならないのだろう。あかりにも、父や母にも、他の人間たちにも。それには時間が必要だ。そしてもちろん、あかりの存在が必要不可欠だ。
「急ぐのは止める。ゆっくりでもいい、ようやく、そう思えた」
 早良は言う。その言葉自体もゆっくりと、噛み締めるように言う。
「だから、これからも一緒にいよう。何があっても、認められるまでは絶対に君を離さない」
 気恥ずかしさはあっても、結局、最後まで告げた。
 直後、あかりが微笑んだ。まだぎこちない笑みだった。しかし視線は逸らさずに答えた。
「私、思っていたんです。夏が来るまではずっと……夏が終わってからも、こっちにいられるだろうかって。でも、もうすぐ秋が終わります。私はちゃんと、この街にいます」
 真っ直ぐな眼差しから、早良も目を逸らさなかった。黙って彼女の言葉を聞く。
「あの頃悩んでいたことも、いつかはどうってことのない、笑い話になるのかもしれません。早良さんと一緒にいる時間も、今はまだ少し緊張しますけど、いつかは……本当に当たり前みたいになると思います。きっと」
 彼女が微笑んでいるから、つられるように早良も笑んだ。
「そうだな、きっと」
 これからの時間も、その先にある未来も、二人がかりでゆっくりと築いてゆく。きっと当たり前のことになるだろう。生きていくことと同じくらい、当たり前のように二人でいられるだろう。
 今はまだ、ぎこちなさの残る関係でも。
「それにしても、君が緊張しているとは思わなかった」
 早良が率直に感想を零すと、あかりが控えめに反論してきた。
「してますよ。あの、時々ですけど」
「俺の方が余程緊張している」
「そうなんですか? 早良さんこそ、いつもすごく落ち着いているように見えます」
 会話の中で視線がぶつかり、何となく、面映そうに笑い合う。あかりはアイスクリームが解けていくのも気にせずに、ひたすらにこちらを見つめてくる。早良も彼女を見つめつつ、いとおしく思いつつ、こたつの中ではまだ足を崩せない。
 お互いに知らないこともまだまだたくさんある関係だ。しかしそのうちに、知らないことなどないような関係になるのかもしれない。言葉よりもずっと容易い方法で、わかり合えるようになるのかもしれない。
 そんな未来を信じられるようになった。だからこそ、早良は今、ここにいる。
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