Tiny garden

満ち足りた日常/後編

 そして十二月三十一日、午前六時。
 早良は雪かきをしていた。

「すごいです、早良さん。今度は雪を連れてきたんですね」
 手袋を填めたあかりがくすくす笑う。
「昨日まではほとんど積もっていなかったのに、今朝起きたら真っ白になってるんですもん。びっくりしました」
 彼女の言う通り、上郷は一面雪景色へと変わっていた。早良が上郷に到着し、あかりの実家で睡眠を取った五時間ほどの間に、一気に雪は降り積もった。今はどの家も雪かきの真っ最中だ。まだ明け切らない空の下、上郷を囲む山々もてっぺんから白く染まっている。
 車の雪を下ろした後で、早良も駐車場の雪かきを手伝った。寝ていてもいいとあかりたちは言ってくれたのだが、泊めてもらっておいて何もしないというのも気が引けた。前日の休養が効を奏し、すっきりと目覚めることが出来た。
 しかしあれだけ入念に準備をしておきながら手袋を持ってくるのを忘れてしまい、あかりの父親から軍手を借りた。その父親とあかり、それに雄輝と四人で雪かきに精を出している。吐く息も白い明け方、黙々とシャベルを動かす。
 旅館の窓はどこもカーテンが閉じられたまま。年末年始の客数は振るわないとのことだったが、それでも数組はいるらしい。あかりの母親が朝食の用意をしているという。
「今年は雪不足かもって言っていたんですがねえ」
 とは、あかりの父親の弁。雪かき用のシャベル捌きがさすがに様になっている。きびきびと雪をかき集めながら、早良にも気さくに話しかけてきた。
「大晦日にこんなに降ってくるとは、タイミングがいいのか悪いのか。まあ、雪景色を眺めつつ年越し蕎麦で一杯なんてのも悪くないかな。早良さんはお酒、行ける口ですか」
 水を向けられ、早良はシャベルを持つ手を止める。あかりの視線を気にしつつ、正直に答えた。
「ええ、多少なら」
「いいなあ。じゃ、付き合ってくださいよ」
「……お父さん、あんまり早良さんに飲ませ過ぎないでね」
 すかさずあかりが釘を刺してくる。わかってるよ、と父親は首を竦め、ちらと苦笑いを浮かべた。
「私もあと一つ歳を取っていたら、一緒にお酒が飲めたんですけど」
 あかりはいささか不満そうだ。
「飲みたかったのか?」
 怪訝に思った早良が問い返すと、彼女は父親と同じように首を竦めてみせた。
「そうでもないんです。ただ、早良さんとならそういうのも楽しいかなって思って」
「あかり、父さんと一緒に飲みたいとは言ってくれないのか」
「あ、うん、お父さんとも一緒に飲みたいよ。そんなに落ち込んだりしないで」
 目に見えてしょげた様子を見せる父親に、あかりが慌ててフォローを入れる。そんな親子のやり取りがおかしく、早良もそっと笑いを堪えた。居心地のよさと悪さを同時に覚えて、そんな感覚すらもどことなく愉快に思う。

 駐車場の隅には着々と雪山が出来つつあった。
 一階のひさしにも届きそうな雪山を、子ども用のスコップで固めているのは雄輝だ。早良に向かって威勢のいい声を掛けてくる。
「早良さーん、もっと雪運んできてー!」
 彼の要請に応じ、早良がシャベルに載せた雪を雪山まで運んでいく。ゴーグルつきの帽子を被り、鼻の頭まで真っ赤にした雄輝がにやっと笑う。
「うんと高い山にして、てっぺんからソリで滑るんだ。早良さんもやろうよ!」
「あのソリでか?」
 早良は視線を、玄関脇に立てかけてあるソリへと向けた。青いプラスチックのソリはさほど大きいものでもなく、これも子ども用だろうと推察出来た。
「俺が乗ったら壊れるかもしれない」
 そう告げると、雄輝は強くかぶりを振る。
「大丈夫だよ! 俺が立ち乗りしても全然平気だし、あれで結構頑丈に出来てるから」
 相変わらず無茶をする子だ。背も伸び、声のトーンも変わったのに、そういう子供っぽさは春先とまるで変わらない。早良も内心で苦笑する。
 当然、あかりがそんな弟を見過ごすはずもなかった。素早く口を挟んでくる。
「もうすぐ中学生なんだから、そんな子どもっぽいことしないの」
 そして姉の言葉を、雄輝が素直に聞くはずもない。
「何だよ、姉ちゃんだって中学校上がってからも滑ってたじゃん」
「そんな昔の話覚えてません!」
「嘘ばっか! 早良さんの前だからって澄ましちゃってさあ」
 姉と弟が言い合いを始めれば、慣れた様子で父親が割って入る。
「二人とも、喋ってばかりいないで手伝いなさい。雄輝なんてさっきから遊んでばかりじゃないか。お客さんに一番働かせてどうするんだ」
 その言葉通り、駐車場の雪かきはほぼ早良とあかりの父親との仕事になっていた。よく働いたせいか、風の冷たさもちらつく雪も気にならない。しかし働いていない雄輝もさして気にするそぶりはなく、平然と雪山に寄り掛かっている。
「早良さんはお客さんじゃないよ、姉ちゃんの彼氏だもん。だからそのうち俺のお兄さんにもなるんでしょ?」
 そして彼の言う台詞もまた平然としていた。
 平然としていられないのは早良の方で、思わず息を呑んでしまう。一方であかりと、あかりの父親もそれぞれ呼吸を止めた。次の瞬間、あかりが声を張り上げる。
「雄輝っ! 大人をからかうようなこと言わないの!」
「姉ちゃんはまだ大人じゃないじゃん。十九だし」
「もう! お父さんも何とか言ってやってよ!」
 話を振られたあかりの父親は、何とも複雑そうな表情を覗かせた。
「そうか、あかりもいつかは嫁に行くんだよなあ……」
 ぼやいた後でちらと早良を見る。もしかしたら義父になるかもしれない人の視線に、早良も一瞬うろたえた。あかりの父親は早良を手招きすると、そっと囁いてくる。
「ところで早良さん、結婚後は上郷に移住する気、ないですか」
「……通勤が大変になるので、ちょっと」
 早良も小声で答える。先のことだからと誤魔化さなかったのは、仮定の話だとしてもうれしかったからだ。
 自分があかりの恋人として、彼女の家族にも歓迎されていることが、何よりも幸せだった。

 空が東の側から明るんできた頃、一同は雪かきを終えた。
 と言ってもこれは一時的な中断らしい。
「まだ降ってきてますから、午後にもう一回する必要があるかもです」
 あかりが言い、また首を竦める。
「やっぱり、早良さんが連れてきたんでしょうね。雪雲を」
「だとしたら悪いことをしたな」
 彼女の言葉に早良は笑い、彼女もまたふふっと笑った。
「そんなことないです。大晦日には雪景色が似合いますから」
 その後で早良の髪に目を留めて、あ、と声を上げる。
「髪、濡れちゃってます。タオルを取ってきますから、待っていてください」
 早良は手袋だけではなく、帽子も持ってきていなかった。冬用のトレンチコートは雪かきをするのには適さず、前髪からは融けた雪の雫が落ち始めている。
 言うが早いか、あかりは長靴を脱いで家の中へと飛び込んでいく。早良が玄関で軍手を外している間に戻ってきて、白いタオルを差し出した。
「どうぞ、使ってください。冷やさないようにしてくださいね」
「ありがとう、助かるよ」
 早良は面映さを覚えつつ、礼を言って受け取った。
 それを横目で見ていた雄輝が、冷やかすような言葉を口にする。
「姉ちゃん、俺と父ちゃんにはー? 父ちゃんがまた拗ねちゃうよ」
「あかりも昔は、真っ先に『お父さん、お父さん』だったのになあ……」
 父親にも言われて、あかりはわかり易く頬を赤らめた。それから唇を尖らせる。
「今、二人の分も持ってくるから!」
 そんな家族のやり取りは、早良にとってもくすぐったいものだった。玄関の隅の方でタオルを使いつつ、賑々しい会話をそっと眺めている。
 丸くならないはずがない。こんな家庭に育っていたなら。
 丸くならないはずがなかった。こんな家族に囲まれた彼女と、同じ時間を過ごしていたら。

 台所ののれんがひょいと持ち上がり、その時あかりの母親が顔を出した。早良の母親とは違い、ごく自然な笑顔をこちらへと向けてくる。
「ご飯、出来てますよ。朝から働いて、お腹が空いたでしょう!」
「空いた!」
 真っ先に答えた雄輝が、台所へと突っ込んでいく。すぐに、手を洗いなさいと叱られて、慌てて洗面所へ駆け出した。後に父親が続き、それから早良も。
 家の中には炊き立てのご飯と、味噌汁の匂いが漂っている。早良はたちまち空腹を覚えた。
「お腹空きましたね、早良さん」
 そのタイミングで、あかりが笑いかけてくる。
 実に、満ち足りた瞬間だった。早良にとっての幸せがここにはある。彼女の笑顔と、笑顔を培ってきたものたちの全てが、いとおしいと思う。
「ああ。朝ご飯が楽しみだ」
 正直に告げるとあかりはまた笑って、それから二人で手を洗い、皆の待つ台所へと向かう。賑々しさの中に交ざって、食卓を囲むことになる。

 いつかこんな生活が、当たり前の日常になるのかもしれない。
 これからの彼女の笑顔は、幸せは、自分のこの手で培っていきたい。一年の締めくくりの日、早良はそう思っている。
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