Tiny garden

やわらかく とけた/前編

 酒が欲しくなるのは、疲れた時だけではないらしい。
 帰宅した直後から、無性に酔いたくて堪らなかった。早良は夕食も取らぬうちから酒瓶を開けた。あかりを送り届けた帰りの道で、コンビニに立ち寄って購入したウイスキーだった。
 居間の戸棚には酒瓶がずらりと並んでいる。どれも早良の父親が買い揃えたものばかりで、早良が買ってきた間に合わせの安酒とは格が違う。その父親も、今夜は母親と共に不在らしい。遠慮なく安酒を味わう気になれた。
 家で酒を飲んだことはあまりなかった。父親と気安く酒を酌み交わすような仲ではないし、母親ともまた然りだ。むしろ両親と同じ時間を過ごすのが苦痛で、家にいる時は大抵自室に篭っていた。自分の部屋でこそこそと飲んでも美味いものではなく、飲みたい時は外へ出るようにしていた。仕事の付き合いで飲みに行くこともあるにはあったが、気兼ねなく酔うという訳にもいかない。楽しく飲む機会とは長らく無縁だった。早く、彼女が二十歳になればいいのに――そんなことを漠然と思って、早良はグラスに氷を入れる。
 ウイスキーの小さなビンを傾けると、小気味よい音を立てた。アルコールの匂いに喉が鳴る。

 一人きりの居間は静かだった。
 ソファーに座り、琥珀色で満たされたグラスを握る。テレビを点ける気にも、音楽を掛ける気にもならず、早良はぼんやりと水割りを傾けていた。酒肴は冷蔵庫にあったチーズだけ。何かを作るという気分も起こらない。とにかくただ酔いたかった。いてもたってもいられないほどに。
 手のひらがまだ熱い。氷入りのグラスは冷たいはずなのに、手のひらの熱は一向に引かない。それどころか、酔っ払う前から全身が熱い。頭がぼうっとして、心臓も早鐘を打っている。訳もなく焦燥ともどかしさが募る。後悔もごく僅かにだけあった。誰にも告げられないような後悔だった。
 頭の中では今日一日の出来事がぐるぐると巡っていた。――あかりを連れて、史子の部屋を訪ねたこと。史子とあかりがアルバムを覗いている間、ずっとそっぽを向いていたこと。それでも三人で他愛ない話をするのはとても楽しかったこと。全て、きちんと思い出せた。
 史子の部屋を出た後で、あかりとドライブをしたことも覚えていた。しかし、回想がその後の出来事へ差し掛かると、途端に記憶が駆け足を始める。ビルパーキングに飛び込んだこと、あかりと手を繋いだこと、彼女を部屋まで送っていったこと、全て早送りのイメージでしか思い出せなかった。まともに記憶にも残っていない。
 何かあったのかと言えば、実際、何もなかった。本当に手を繋いだだけだった。なのに無性に居た堪れなかった。手の中には彼女の感触が残っている。繋いでいた時間の幸せといとおしさと、それを言葉では伝えきれなかった悔しさが残っている。
 もう少し一緒にいたかった、と思う。
 彼女にもそう告げられたならよかったのに。
 現実には手を繋ぐだけで精一杯だった。あわよくば夕食にも誘おうと踏んでいた下心は水泡に帰し、早良はかつて推奨していた『倫理的な』時間よりも更に早く、彼女を部屋まで送り届けることとなった。そして自らも帰宅してから、その行動を後悔していた。見栄を張った訳ではなく、あかりを子ども扱いした訳でもない。ただ、何も出来なかった。それだけだった。

 グラスの中身が氷だけになり、二杯目を作ろうと立ち上がる。
 水割りを一杯程度では酔うことも出来なかった。二杯目のグラスを片手で握り、ソファーに座り込んでから、早良は深く嘆息する。今の自分はさぞかし無様だろうと思う。本心すら器用に伝えられない。彼女に対して傍にいたい、まだ帰したくないという言葉を口にすることも出来ない。声に出せば安っぽい口説き文句に変わり果ててしまうような気がした。かと言って、他の言葉に言い換えられる器用さがあるはずもない。
 いとおしさを伝えるのに、手を繋ぐだけでは足りなかった。そうとわかっていたのになぜ、どうすることも出来なかったのだろう。言葉にして伝えたことも以前ならあった。彼女を抱き締めたことは何度もあった。キスをしたことだって、あった。ではなぜ、今日のあの瞬間は何も出来なかったのだろう。手を繋ぐだけで精一杯だったのはなぜだったのか。
 考えてみてもわからなかった。満ち足りていた訳でもなく、しかし多くを望んでいた訳でもないのに。
 手のひらは熱い。いつまでも熱を持ったまま、彼女の感触を忘れられないままかもしれない。グラスの中では氷が解けていく。琥珀の色がゆっくりと薄くなる。
 ウイスキーを味わいながら、早良は取り留めのない思索に囚われていた。そんな自分があまりにも滑稽で、笑い出したくなる気分でもあった。恋をするというのはつまり、こういうことなのかもしれない。何かにつけて思案も焦燥も後悔も尽きず、いつまで経っても囚われ続けるものなのかもしれない。想いが通じたなら通じたで、また別の悩みが浮かんでくるものなのかもしれない。現に今の自分がそうだ。
 きっと、あかりが二十歳になっても、この状況は変わらないだろう。食事だけではなく酒を口実に彼女を引き止めるようになっても。或いは夜のうちに帰さずに済むようになっても。更には、同じ家に帰るようになったとしても、自分は彼女に関する瑣末なことでいちいち思案に暮れたり、焦燥を感じたり、後で悔やんでみせたりするに違いなかった。それもきっと、幸せなことなのだと思う。
 ――けれど、彼女の前ではもう少し、器用でありたいとも思う。無様な姿を晒すのは抵抗がある。子どもの頃の写真のように、いつまでも隠しておけるものではないだろう。あかりが早良の不器用さに気付く前に、せめてもう少しばかり成長して、慣れておきたいものだと思う。
 もう既に気付かれているかもしれない、とも思う。薄々。
 おかしさがいよいよ込み上げてきて、早良は遂に笑った。照れながら小さく笑った。それからグラスの中身を空け、解けかけの氷だけにする。無様で滑稽で、堪らなく幸せな気分だった。
 三杯目に手を出すかどうかはさすがに迷った。食事も取らずに酒量を重ねるのはよくないのだろうが、飲み足りない、酔い足りないというのも本音だった。あと一杯のつもりで、早良はソファーから立ち上がった。

 ちょうどその時、居間のドアが開いた。
 振り返った早良が見たのは父親の姿だ。帰宅したばかりらしくコートを羽織ったままだった。そしてこちらを見て、訝しそうな顔をした。
「克明、帰っていたのか。……何をしている?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような表情。恐らく自分も同じ顔でいるだろう、と早良は場違いなことを思った。家で酒を飲むのは滅多になかったことで、その上酔いが回ってきた頃合いでもあった。酔っ払ったところを親に見せたことのない早良は、この時いささか動揺した。
 しかし、とりあえずは正直に答えた。
「飲んでいました」
 随分と間の抜けた声になった。
 父親も呆気にとられた面持ちのまま、一つ頷く。
「そうだろうな。珍しいな、お前がここで飲むのは」
 その目が、早良の手にしたウイスキーのビンへと向けられた。途端に語気が強まる。
「わざわざ買ってきたのか」
「はい」
「うちには酒だってあるのに、しかもそんな安いのを買ってくることもないだろう」
 眉を顰めた父親の顔は、どこか非難がましく見えた。息子が安酒に手を出したことが許しがたいとでも言いたげだった。
「いいんです。俺はこれでも」
 ビンを手にしたまま、早良はきっぱりと応じた。気まずい思いで唇を結ぶ。まさか酒の種類まで口出しされるとは思わなかった。自分で買ってきたものくらい、黙って見過ごしてくれればいいものを。
 早良が不機嫌そうに沈黙すると、父親の方もむっつりと押し黙った。睨み合うような格好で互いに静止している。居間は一人きりの時よりもずっと静かだった。空気もぴんと張り詰めている。家族が揃った時の方がまるでよそよそしく、異質な空間のように思えた。
 黙り込む父親の背後から、母親が恐る恐る顔を覗かせる。相変わらずおとなしい母は、早良と早良の父親とを見比べ、ただ口を噤んでみせた。取り成すようなことは何も言わない。父親も、何の説明もしない。
 幸せなほろ酔い気分が一気に吹き飛んだ。早良は溜息をつき、両親へと告げる。
「今、片付けますから」
 空いた方の手でグラスを掴む。その途端、父親はやや複雑そうにしてみせた。
「もうおしまいか」
「……ええ」
 惜しむような問い方にも聞こえ、早良は内心訝しがった。
「少し、付き合う気はないか」
 皺の刻まれた顔が動き、居間の戸棚の奥を見遣る。ずらりと並んだ酒瓶を留めている、振り向かなくともわかった。
「お前にいい酒の味を教えてやる」
 父親の物言いは傲然としていた。挑発的でもあった。にもかかわらず撥ねつける気がしなかったのは、その傲慢さに僅かな陰りを感じ取ったせいかもしれない。早良が家で飲酒していたのが珍しいことなら、父親の態度に陰りや弱々しさを感じたのも相当珍しいことだった。
 もしくは、単に飲み足りなかったから、かもしれない。こんなくだらないことで酔いを醒ますのも癪だった。
 ともあれ早良は首肯した。
「わかりました」
 むしろ譲歩する気分で、父親の誘いを受けた。
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