Tiny garden

やわらかく とけた/後編

 父と息子、二人きりで過ごす夜が訪れた。
 母は父の分のグラスと氷、それに軽い肴を用意すると、後は逃げるように場を去った。恐らく自室に引っ込んだのだろう。父はそ知らぬふりで、戸棚から酒瓶を選び出す。無言のままグラス二つに氷と酒と水を注いだ。作業は手慣れた様子だったが、早良の方を見ないのがかえってぎこちなく思えた。
 かく言う早良も、ソファーの上で姿勢よく座っているだけだった。目のやり場一つにさえ悩み、結局自分の手ばかりを見ていた。あかりの手の温もりは遠ざかりつつある。――それでもまた繋げばよい、とも思えた。現在の彼女は自分の恋人だ。機会はある、口実だっていくらでもある。

 あかりと恋人同士になる少し前、この居間で、早良は父親と酒を酌み交わす機会を持った。機会と言ってもほとんど酒は飲まず、むしろ刺々しい言葉の応酬となっただけだった。父親の気持ちはわからなくもないが、早良にとって、決して肯定の出来ることではない。譲る気はなかった。だからこそ、今日の記憶と、つい先程までのささやかな幸せがあった。
 父は、この時間をどう捉えているのだろう。あの時と同じ応酬を繰り返すつもりなのだろうか。それとも、純粋に息子と酒を楽しむつもりでいるのだろうか。どちらにも読み切れず、早良は出方に迷っていた。
 誘いに乗ったのは、史子との会話があったから、なのかもしれない。史子と史子の父親が、以前よりも落ち着いた関係を築けていると聞いたからかもしれない。同じようにすれば自分たちも上手くいく、とはさすがに楽観的な予測になるが、今のままではいられないと早良も思っている。
 いつかは認めてもらわなくてはならない。自分のことも、あかりのことも。

「お前の口に合うかな」
 笑いを含んだ声と共に、父親はグラスを寄越してきた。それを受け取った早良が会釈を返す。
「いただきます」
 お互いに軽くグラスを掲げ、ほぼ同時に口元へ運んだ。確かに、高い酒の味がした。舌触りが柔らかい。空腹の胃にも溶け込むようだった。
「美味いだろう」
 誇らしげに父親が問う。早良は渋々頷く。
「ええ。美味しいです」
「そうだろうな。こいつを飲んだら、安い酒を買ってくる気にはもうなれまい」
 肩を揺すって笑う父。気をよくしたらしく、卓上の皿を指し示し、勧めてくる。
「ほら、つまみも食え。これはこの酒によく合う」
 料理の不得手な母が用意したのは、ハムやチーズ、野菜を切って並べただけの皿だった。それでも父親は満足げにつまんでいたし、早良も不満を述べる気は起こらない。空腹がいい調味料となった。
「しかし、お前が一人で飲むことがあるとはな」
 父親はしみじみと言う。早良がろくに相槌を打たないうちから、自ら語を継いでいく。
「無理に誘いでもしない限り、滅多に家で飲んだりはしないだろう? 酒があまり好きではないのかと思っていたくらいだ。一人ではよく飲むのか?」
「それほど多くはありませんが、たまに」
 短く答えた。
 父親がひょいと首を竦めてみせる。
「あのお嬢さんはまだ未成年だったな、さすがに飲みには連れて歩けんか」
 ごく何気ない――少なくとも何気なさを装った口調ではあった。しかし早良は緊張したし、無視を決め込む訳にもいかなかった。やはりそういう話になるのかと、警戒しながら応じた。
「ええ」
 早良の態度が硬化したのを察したのだろう。父の表情も僅かに強張る。グラスを傾けつつ、更に続けた。
「今日も会ってきたんじゃないのか。あのお嬢さんに」
「……ご存知なんですか」
 ぎょっとした早良が問い返す。たちまち、呆れたように笑われた。
「お前の出かけていく姿を見れば、大体察しがつく」
 どういう意味なのか気に懸かった。服装でばれているということだろうか。それとも、態度が違うということなのか。あかりと会う日だからといって、家の中でまで浮き足立った態度を見せているつもりはなかったが。親の目を誤魔化すことはそれほどまでに難しいのだろうか。
 言葉に窮した早良をよそに、父は深い溜息をついた。
「悪い相手だとは言わんが、しかし随分と若い娘を見つけてきたものだな。十代のお嬢さんと付き合うことで、お前に何か得があるのか」
 はっきりと言いはしなかったものの、言外に否定的なニュアンスが見て取れた。
 これには早良も黙っていられない。面と向かって咎める調子ではないのがかえって癇に障った。すかさず反論する。
「彼女とのことを、損得で捉えたことはありません」
「考えてみた方がいい。損をする相手と付き合うことはない」
 諭すように父が反駁してきたが、取り合う気にもならない。
「仮に損をすることがあったとしても、俺は彼女を選びます」
 きっぱりと宣言した。
 もう既に決めていた。今夜のように、自分に対してあれほど多様な感情の変化を与えてくれる相手は、彼女しかいない。これまでも、彼女以外にはいなかった。あかりでなくてはならないのだと思う。
「女は、あのお嬢さん一人だけではないぞ」
 父親の助言らしき言葉にも、耳を貸すつもりはなかった。
「わかっています。でも、俺にとっては一人だけです。傍にいたい、一緒にいたいと思った相手は、彼女だけなんです」
 初めてだった。他人に対してそんな思いを抱いたのも。そう思わせてくれる人間と出会えたのも。
 初めての恋だった。客観的に見ればごくありふれたものだろう。愚かしくて、無様で、滑稽で、誰にでも起こり得るような恋心なのだろう。自分と彼女とはどこにでもいるような恋人同士にしか見えないだろう。そうだとしても、自分にとっての彼女は特別だった。初めての恋人であり、初めて自分の心に灯を点してくれた人だ。
 初恋は一度きりだ。失えば二度とは戻らない。だから失くす気はないし、守り抜きたい。たくさんの物をこれまでに失ってきたからこそ、早良は思う。強く思う。一つくらい、いつまでも失わずに済むものがあったっていい。むしろそのたった一つを守り抜く為に、自分は大人になったのかもしれない。そう思いたかった。
 早良がきっと見据えると、父親はどこか気まずげな顔をした。少し迷うような間を置いてから、低い声で尋ねてきた。
「そんなに可愛いのか、彼女が」
 酔いも手伝ってか、返答はすぐに口をついて出た。
「可愛いです。愛してます」
 本人にも滅多に告げられない言葉を、父親には容易く宣言出来た。酔った勢いとは恐ろしいものだと、他人事のように早良は考える。明日の朝辺り、素面に戻ってから慌てるかもしれない、とも。
 それで父は仏頂面になり、グラスの中身を豪快に呷った。その後で再び嘆息する。
「我が息子ながら、酷い盲目ぶりだと思うが……お前を止める手だてが全く見つからんから困ったものだ」
 肩を落としてはいたが、口調は至って穏やかだった。早良と目が合うと苦笑さえ浮かべてみせた。
「正直に言えば、長続きするとは思っていない。お前にあのお嬢さんは若過ぎる」
 穏やかなまま、淡々と告げてきた。
「それにお前もまだ若い。社会に出てから少しは大人になったかと思ったが、そうやって損得も考えずに突っ走るところは未熟だと言わざるを得ないな。困ったものだ」
「自覚はしています」
 未熟さについてだけは、早良も素直に認めた。まだ足りない。あかりを傍に置く為にも、彼女と共にある未来を守り抜く為にも、周りの人間たちに認めさせる為にも足りないものはたくさんある。
 これからなのだとわかっている。初めての恋を手に入れて、これからが正念場なのだと。
 恐らく、父もわかっているのだろう。空になったグラスを手に、ソファーから立ち上がった。その瞬間に告げてきた。
「どうしても突っ走りたいと言うのなら、まずは長続きさせてみろ」
 はっとして、早良は面を上げた。父親はこちらを真っ直ぐに見ていた。苦渋とも言える表情で、しかし口元にだけは微かな笑みを浮かべていた。
「続かないものを認めるも何もないからな。大した利のないことだとしても、やるからにはとことんやれ」
「――はい」
 挑戦状を叩きつけられた。早良はそう解釈した。すかさず頷き、受け取った。
 やるからにはとことん、やる。彼女を想うのも、守るのも、その為に努力を重ねるのも、何一つ手は抜かない。この先迷うことやためらうことがあっても、失うことだけは絶対にしない。
「志筑さんから聞いたぞ」
 台所へとグラスを下げに行った父親の、声だけが居間まで届いた。
「史子さんは家を出たそうだな。あの子もお前も、いつの間にやら親の言うことを聞かなくなったな」

 居間には早良だけが残された。
 グラスの中、氷はゆっくりと解けていく。丸い形へと柔らかく変化していく。手のひらに熱が戻ってくる。彼女の柔らかい感触と、温かさを思い出す。
 愛している。言葉にするのも、今なら容易かった。では、長く続けていくのは容易いだろうか。今のこの想いを失わずにいるのは容易いだろうか。
 その答えはこれから見つけてゆかねばならない。一人ではないこと、それだけが救いだった。たとえ盲目と言われようとも、早良には信じることが出来た。
 多分、大丈夫だ。――早良も未熟なままではないだろうし、あかりだって十代のままでいる訳でもない。この先お互いに、大人になっていくはずだ。もしかすると、もう少し器用にもなれるかもしれない。

 グラスの中身を空にしてから、やがて早良も立ち上がる。
 氷が柔らかく解けた、そこはかとなく幸せな夜だった。全てが満ち足りた夜も、きっとそう遠くない頃に訪れるだろう。早良はそう、信じている。
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