Tiny garden

中毒性のあるてのひら/後編

 ごく短く、そして取るに足らない内容のわがままだった。
 それでも早良は動じた。耳を疑いたくなるほどに動じた。
「な、何だって?」
 視線は前方、とっぷり暮れた街並みへと向けたまま、助手席に尋ねる。
 答えが返ってくるまでに、一分間ほど間があった。
「あの、手を……繋ぎたいんです」
 繰り返したあかりの声からは、先程よりも強い照れがうかがえた。しかしどこか強い意思も感じられる口調だった。控えめながらも尚、尋ねてくる。
「駄目、ですか?」
 聞かれても困る。早良は胸中で呟く。
 嫌かと言われたら、決して嫌ではない。むしろそうしたいと自ら思うことさえたびたびあった。彼女の手のひらの感触を知らない訳ではないから、触れたいと思う気持ちは確かに存在している。
 しかし、相手から言われるとなると話は別だ。意を決するまでの猶予がない。心の準備も出来ないうちからそんなことを持ちかけられて、容易く願いを叶えてやれるほどの度量はなかった。これが仕事の話で、この車内がプレゼン発表の場だとでもすれば、早良は堂々と振る舞うことが出来ただろう。社会人になってから二年ほどで培われた立案能力も発言力も迷いを見せない決断力も全て、彼女の前では使い物にならなかった。
 後に残るのは、そのくせつきまとって離れない妙なプライドだった。ついつい言葉がきつくなる。
「今は運転中だ」
 そう口にした早良は、自らの声の存外な厳しさに慌てた。しまったと思っても時既に遅し。助手席のあかりが肩を震わせる。
「あっ、ごめんなさい。そうですよね」
 途端に縮こまった姿を横目に見て、即座に語を継いだ。
「いや、怒った訳じゃない。謝らなくてもいい」
 むしろ謝らなくてはならないのは早良の方だろう。彼女に先手を打たれたというだけで動じ、迷い、慌てた挙句、口実のように切り返したのが先程の言葉だ。正直に答えるなら、断る必要もない願いだったのに。
「悪かった」
 詫びを添えると、あかりは急いでかぶりを振ってきた。
「いいえ。私の方こそ無神経ですみません」
「無神経と言うほどじゃない。唐突だとは思ったが」
 駅前通りを抜けて、車は更に市街地を行く。目映い光の散りばめられたビル街へと。
 心なしか道が混み合い始めた。遠くまでテールライトが延々と連なっている。反対車線、すれ違う車の量も多い。にもかかわらず、車内はひっそりと静かだった。
 お互いに黙り込んでいた。
 思いのほか気まずくはない、沈黙だった。
「……思い出したんです」
 静けさに紛れ込むように、あかりは言った。
「早良さんが手を繋いでくれた時のこと。逃げ出して、道に迷った私を、早良さんが迎えに来てくれた時のこと。大きくて、力強くて、だけどとても優しい手でした。私にとって、誰よりも一番信じられる手でした」
 ちょうど、早良も思い出していた。
 フロントガラス越しに背高の建物が見える。見覚えのある高層ホテルのラウンジに、今は柔らかな光が灯っている。
 つい数ヶ月前の夏、あの場所は決戦の場となった。早良にとっても史子にとっても辛く厳しい戦いとなったし、結果的にあかりを巻き込んでしまった記憶も苦々しく残っている。お蔭で今、三人は得るべきものを得、幸せだと言えるまでに至っているのだが――早良にとってはまだ、完璧な幸せとは言いがたい。やるべきことが残っている今の状況下では。
 それでも思う。あの日、あかりが自分を信じてようとしてくれていたことは、とても貴いと思う。自分に力を貸してくれた、ついてきてくれたということは、とても偉大だと思う。
 彼女が手を取らせてくれなければ、今のこの時間すら存在しなかった。
「あの日のこと、急に思い出したんです」
 彼女もまた、窓の外を見ていた。夜景の中にそびえるホテルが斜めの方向から近づき、それからまた斜めに遠ざかっていくのをじっと見つめていた。景色は流れ、やがてサイドミラーにも映らなくなる。
「そうしたら、手を繋ぎたいなって、ふと思ったんです」
 しみじみと語る彼女は、そこでようやく早良の方を見た。
「何だか、おかしいですよね。理由になってなくて。自分で言ってても変だなあって思います」
 微かに笑んだ。恥じらいと懐かしさを含んだ柔らかい表情。
「でも、本当なんです」
 今、彼女の手は、膝の上にある。
 早良の手は、ハンドルを握り締めている。
 伸ばせば届かない距離ではない。けれど、やはり、運転中だ。
 そんなことを思って、早良はそっと苦笑した。それから前を向いたまま、穏やかに応じる。
「君は手を繋ぐのが好きなのか」
「え?」
 短く、怪訝そうな声がする。
「君が好きだと言うなら、そうする」
 早良は遠回しな言い方で告げた。自分がどうなのか、という点については言及出来なかった。実際に手を繋げばたちまち露呈してしまうに違いないのだが。
 あかりが身動ぎをし、視界の端で影が揺れた。再び息を吸い込むのが聞こえた。
「……早良さんとなら、好きです」
 きっぱりとそう言った。
「今すぐじゃなくてもいいですから、また、手を繋いでください」
「わかった」
 すぐに、早良も頷いた。
 それから視線を通りの両端へと走らせた。

 目的としては奇妙なものかもしれない。
 早良は車を、街中のビルパーキングへと停めた。エンジンを切ってシートベルトを外してから、助手席の彼女に向き合う。
 あかりはまだシートベルトを外していなかった。外さないつもりらしかった。早良がこういう行動に出るとまでは踏んでいなかったようで、目が合うと微かにはにかんでみせた。
「あの、何だか、すみません」
 エンジン音のしない車内は、走行中とは比べものにならないほど静かだ。あかりの言葉もそっと溶け込んでいく。
「私、本当にわがままを言ったみたいで」
「気にしなくていい」
 早良はかぶりを振る。そうとしか言えないのがもどかしい。
 だから代わりに、手を差し出す。その為だけにここへ車を停めた。手を繋ぐことだけが目的だった。
 ビルパーキングの中は薄暗く、人の姿もほとんどなかった。車内灯が消えた後は、時々瞬いてみせるビルの照明だけが頼りだった。ごくたまに、他の車のライトが薙ぐように通り過ぎていく。外から見れば、早良たちが車内にいるのはわかっても、手を繋いでいることはわからないだろう。
 大きな手に、ほんの少し小さな手が重なる。体温が重なる。しっとりとした手のひらの感触が重なる。軽く握ると握り返してくる。今にも解けそうなくらいの優しい力で。
 繋いだ手を解くのは容易い。しかし、意思によって解けない。狭い車内にあって、互いの存在のうちで触れ合っているのは手のひらだけ。そのことが余計にいとおしさを掻き立てる。他人と繋がることの難しさを、早良はよく知っている。たった一箇所だけでもこうして、繋がっていられることの幸いを噛み締めている。
 そうでありながら、言葉はいまだ不器用だった。
「満足したか」
 早良が率直に問うと、あかりが薄暗がりの中で目を瞠る。
「もう、おしまいですか?」
「いや、そうは言ってない。そういう意味で聞いたんじゃない。君が望むならいくらでも」
 いくらでも構わなかった。いつまでも、繋いでいたかった。早良はそう思っている。
 彼女も多分、同じように思っているのだろう。囁きほどのトーンで言ってきた。
「じゃあ、もう少しだけこのままでいたいです」
 あかりの言う、『もう少し』はどのくらいだろう。数分だろうか。数十分だろうか。どちらにしても早良にとってはこれっぽっちも足りなかった。それだけの時間が経てば、彼女は完全に満足して、もう手なんて繋いでいなくてもいいと思ってしまうだろうか。早良はきっと、どれほど繋いでいても、満足することはないはずなのに。
「もう少しと言わず、いくらでも構わない」
 言い訳がましく告げても、彼女はあくまで控えめだった。
「長くいたら、お金が掛かっちゃいますよ」
「気にするほどのものか」
「いいんです。本当にあともう少しだけで」
 そっと、あかりが視線を落とす。繋いだ手を見つめている。緩い力でだけ繋がれていても、しばらくは解けなかった。
「私、ちっとも寂しくないです」
 不意に彼女が呟いて、早良も深く息をつく。

 ビルパーキングにいた三十分の間、二人は車を降りなかった。
 手を繋ぐ為だけの三十分間だった。
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