Tiny garden

ペルセウスの方角から(4)

 夏の陽射しはかんかんと照りつけている。
 緩やかな丘を覆う草は、山の木々よりも柔らかな緑色をしていた。一面、風にそよいでいる。街中とは違い、風は陽射しと緑の匂いだけを含んでいる。陽射しはきつくとも、歩いていくのは気分がよかった。
 煉瓦舗装の坂道を、早良とあかりはのんびり歩いていく。向かう先には新公民館があり、ひっきりなしに人の出入りがあるのが見えていた。
 坂道を下りてくる、何組もの人々とすれ違った。あかりがその度に笑顔で会釈をするので、恐らく旅館の客なのだろう。家族連れからカップル、友人同士とおぼしきグループまで、様々な組み合わせを見かけた。今日の上郷には相当数の観光客が足を踏み入れているようだ。
「こんなに賑やかなのは初めて見た」
 早良は率直な感想を漏らす。
 隣を歩くあかりは頷いて、
「私もです。上郷が急に元気になったみたい」
 うれしそうに笑みを零した。

 丘の頂上に立って見下ろせば、上郷は夏の色をしていた。
 草木は生命力に溢れ、太陽へと手を伸ばすように生い茂る。雲一つない空は澄み渡り、強い陽射しを遮ることもない。田畑も夏の恩恵を受けて、瑞々しい育ちの時期を迎えている。
 ぽつぽつとある家々の屋根は色とりどりで、緑の風景に彩りを添えている。その間を繋ぐようにうねる未舗装の道に、家々よりも多くの人影を見ることが出来た。
「きれいなところだな、ここは」
 思わず、早良は呟いた。上郷の美しさは春にも夏にもあるらしい。春先とは趣の異なる風景を目の当たりにし、深く嘆息する。この村が好きだと思う。
「早良さんに気に入っていただけてよかった」
 あかりもふうと息をついた。こちらは安堵の溜息らしい。
「何にもないところだから、つまらないって言う方もいるんです。でも私にとっては何もないのが当たり前みたいなものですし、この村にそんなにたくさんの物はなくてもいいって思うんです」
 太陽の光の下で、眩しい笑顔がこちらを向く。
「だから、今の上郷を好きになっていただけて、すごくうれしいです」
「俺は好きだ。のんびり出来るし、どこか懐かしい気がする」
 仕事で初めて訪れてから、早良の心は上郷に、無性に惹きつけられていた。
 確かに不便な村ではあった。買い物に行こうにも店はほとんどないし、旅館もあかりの家が一件あるのみだ。近くの町へも遠く、仕事の度にここへ通ってきた早良も、途中の山道にはいささか辟易していた。
 しかし、この村には美しい風景がある。飾らない自然のままの風景が、それだけで人の心を捉えてしまう。かつてはどこにでもあった懐かしい姿が、ここにはまだ残っているのだ。緑深い山々と、昔ながらの田畑と、その中で暮らしていく人々と――多くが失われ、今はほんの僅かにだけ残された、けれど決して特別ではない風景こそが、上郷の魅力なのだと思う。
 早良はおもむろに、あかりへと視線を移した。白いワンピースの裾をはためかせた彼女は、とても魅力的だと思う。田舎育ちだけあって野暮ったさは否めないし、美人と呼ぶにもまだ早い。どこにでもいるような少女でありながら、早良が失ってきたものをまだ持ち合わせている彼女に、いつしか強く惹きつけられていた。
 きっと、あかりを育んできた土壌ごと、彼女に恋をしたのだろう。早良はそう思う。
「――どうかしました?」
 眼下の景色を見ていたあかりが、ふと早良の視線に気付く。
 一瞬答えに窮したものの、早良は思いついたことを口にしていた。
「その服、似合うな」
「そうですか? ありがとうございます」
 あかりははにかみ笑いを浮かべる。
「見立ててくださった早良さんのセンスがよかったんです」
「単に好みで選んだだけだ」
 素っ気なく早良は答えたが、実際自分にセンスがあるなどとは思っていない。何せ妙齢の女性にまともなプレゼントをするのは初めてだった。どんなものがいいか、何を贈れば喜ばれるのか、まるでわからないままあかりを連れて買い物に行った。
 彼女に好みの服を着せたい、という至極単純な理由からの贈り物だったが、こうして早良と会う時に着てきてくれる彼女を見るに、目論見は成功したといえるだろう。あかりも購入時には、自分も代金を払うと言って聞かなかったが、最後には早良が無理を押し通した。今は素直に着てくれているから、恐らく納得してくれたのだろう。
「あの、恥ずかしいですから、あんまりしげしげ見ないでください」
 早良があまりにも無遠慮な視線を送っていたせいか、あかりがやんわり釘を刺してきた。照れたような顔がふいと横を向く。女心は難しい、と早良は痛感している。
「見せる為に着てくれたんじゃないのか」
 尋ねると、どこか拗ねたらしい声が返ってきた。
「それもそうですけど……でも、恥ずかしいんです」
「俺は君を見に、ここまで来たのに」
 嘘ではない。流星群と同じくらい、もしかするとそれ以上にあかりの顔が見たかった。流星群だって、二人で見るものと既に心に決めている。だから彼女にも、星空にも、隠れていて欲しくはない。
 幸い、今日は快晴だった。このままの天気が続けば、観測にふさわしい夜となるだろう。
「私も、早良さんにお会いしたかったです」
 ちらと振り向いた彼女が言った。そして、華奢な手を差し出してくる。
「早良さん、手を繋いでもいいですか」
「それは恥ずかしくないのか?」
 すかさず早良は尋ねた。こちらとしては、人前で手を繋いで歩く方が、よほど気恥ずかしく思える。
 あかりは弾ける笑顔で早良の手を取った。柔らかで、ひんやりした感触。
「ちょっと恥ずかしいです。でも私、こうしていたいんです」
 告げられた言葉には万感の思いが込められていた。早良にもそれはわかる。
 だから、
「……好きにするといい」
 どうしようもなく面映く、答えにも困り果てていたものの、やがてやむなくそう言った。
「そうします。じゃあ、公民館の中を見に行きましょう」
 繋いだ手が優しく引かれて、二人は並んで歩き出す。


 三階建ての新公民館を、あかりと共に見て回った。
 早良にとっては図面でも落成後も繰り返し眺めた建物だが、初めてのあかりは大いにはしゃいでいた。ホールや会議室を覗いてはきれいだと声を上げ、床がぴかぴかだと目を輝かせ、図書室の蔵書の多さに面白いほど驚き、休憩所の自動販売機の品揃えにまでいちいち興味を示す。
 新公民館の目玉となる大きな大きな天体望遠鏡を目にした時は、驚きも一回りしてしまったのか、すぐには声が出せなかったようだ。天文室の入り口に立ち尽くしたまま、しばらくぽかんとしていた。それから望遠鏡の周りをぐるぐると眺め出す。
 物珍しげなあかりの様子を、早良は見守りながら追う。
「わあ……これで星を見るんですか? すごいなあ……」
 ひとしきり望遠鏡を観察した後、あかりは感嘆の言葉を口にする。
 口径が一メートルを超える反射望遠鏡は、今夜の出番を静かに待っている。あかりが熱心な視線を送っても恥らうこともなく、ひたすら堂々としている。
「きっと、素敵な眺めでしょうね」
「そうだろうな」
 早良は頷く。しかしその後で、雄輝に言われたことを思い出し、どうしたものかと思う。――天文室も新公民館も、夜になれば間違いなく混み合うだろう。丘の上で賑々しい天体観測というのも悪くはないだろうが、もう少し落ち着いた場所でのんびり観たいものだと思う。出来ることなら、二人きりで。
 そんなことを考えながら、望遠鏡に見とれるあかりを眺めていた時だ。
「あれ、早良さん……と、あかりちゃん?」
 聞き覚えのある声に呼ばれて、早良は振り返る。
 天文室にちょうど立ち入ってきたのは、何度も見た面差しの見慣れない姿。日に焼けた顔の初老の男性が、確かめるように目を丸くして、早良とあかりの顔を見比べている。
「冨安さん。こんにちは」
 早良が挨拶をすると、向こうも愛想よくお辞儀を繰り返してくる。
「どうもどうも。やっぱり早良さんでしたか」
 新公民館建設の責任者だった、冨安だ。ヘルメットを被っていない顔は竣工式でも見かけたが、普段着姿を見たのは初めてだった。
 あかりも振り向いて、すぐに笑顔になる。
「あ、冨安さん! こっちにいらしてたんですか?」
「せっかくだから、今年の流星群は上郷で見ようと思ってね。お墓参りがてら来てみたんだよ」
 明るい表情で語る冨安の傍らに、同い年くらいの女性が寄り添っている。品のいい微笑を湛えたその人は、恐らく夫人だろう。察した早良が挨拶をすると、いつも主人がお世話になっています、と返ってきた。冨安が照れたような顔で言い添えてくる。
「私がどんな仕事をしたのか、妻にも見せてやりたかったもので」
 確かに、誇れる仕事の一つに違いなかった。早良にとっても同じことで、この公民館のあることがうれしく、この仕事に携われたことが幸せに思える。
「冨安さんはこの現場の功労者ですよ。頑張ってくださったお蔭で、夏休みシーズンに間に合いました」
 早良が告げると、冨安は慌ててかぶりを振った。
「いえいえそんな、私なんて何もしておりませんよ」
 その後で夫人と顔を見合わせ、二人揃って笑んでいた。仲睦まじい夫婦のようだ。
「本当に素敵な場所ですよね」
 天文室の高い天井を見上げ、あかりが呟くように言う。
「上郷にこんなところが出来るなんて夢みたいです」
「上郷と言えば、何にもないところの代名詞みたいに言われていたからねえ」
 冨安がそれに同意し、倣うように視線を上げる。
「皆、田舎だからしょうがないと諦め半分でいたものだ。それがこうして新しい風が吹き込んできて、途端に目を覚ましたようになるんだからね。諦めるなんてもったいないと思うよ」
 しみじみ語った冨安は、その後で早良に目を向けた。
「その新しい風を連れてきてくださったのは、何と言っても早良さんですよ」
「……いえ、私こそ、何にもしていません」
 面と向かって誉められると、さすがに照れた。自分がどれだけのことをしたのかは、自分自身がよくわかっている。自分だけの力では到底ここまで漕ぎ着けなかっただろうし、微力ながらもこの仕事に携わり、上郷に貢献出来た。そのことだけでうれしい。上郷を愛する人たちに喜んでもらえる、それだけでとてもうれしい。
 苦笑する早良はふと隣を見て、にこにこしているあかりの表情を見つける。目が合うと、お互いに笑い合った。くすぐったい気持ちになって、笑っているのも容易かった。
「それにしても、びっくりしたなあ。早良さんとあかりちゃんが一緒にいるとは思わなかった」
 ふと、冨安はそう言って、視線を下の方へと落とす。ちょうどその先で、早良とあかりはまだ手を繋いでいた。
「若いっていいですなあ」
 冨安にしみじみと呟かれ、早良とあかりはまた顔を見合わせる。
 照れも気恥ずかしさももう今更だった。お互い、もう一度笑っておくことにした。
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