Tiny garden

ペルセウスの方角から(5)

 その日は、少し早めの夕食となった。
 あかりの家の台所で、早良はあかりと雄輝と、三人で食卓を囲んだ。あかりの両親は書き入れ時で忙しいらしく、一度台所を覗いて、短い挨拶をしてきたのみだった。
「すみません、慌しくて何のお構いも出来ませんで。時間があれば一杯やりたいくらいだったんですけどね」
 二人の父親にそう声を掛けられ、早良はお構いなく、と返す。元々慌しい時期に乗り込んできたのはこちらの方だから、気を遣われるのは後ろめたかった。
「そのうちまた、のんびりしにいらしてください。娘もお世話になっていますし、向こうでの話もうかがいたいです」
「ええ、ご迷惑でなければ、またお邪魔します」
 早良も礼を失しないように応じる。――ここへ来る前に考えていた挨拶のあれこれは、どうやら今回は言う機会もなさそうだった。次に来る時はしっかりと告げなくてはならない。あかりの恋人として、是非彼女の親にも認めてもらいたかった。今のところは歓迎してもらっているようで、そのことだけはほっとする。
「何か不便があったら、うちの娘に言ってやってください。狭い家ですがどうぞごゆっくり」
 父親は機嫌よく、しかしやはり忙しない様子だった。一通りの挨拶を終えると、すぐに台所を去っていった。その後で母親が現われて、こちらも愛想よく、同じ挨拶を繰り返してくる。
「ごめんなさいね。せっかく来ていただいたのに、忙しい時期で……この次の機会は、今日の分も合わせて賑やかにしましょうね」
 母親も立ち去った後、すかさず雄輝が言ってきた。
「絶対また来てくれよ。次に来た時は、超ごちそうになるに違いないから」
 少年の実に素直な願いを聞いて、早良は笑いを堪え切れない。もちろん、是非そうしたいと思う。

 夕食のメニューはおにぎりに味噌汁、それに卵焼きとトマトサラダ。あかりによると、旅館の仕事が忙しい時、めいめいが空いた時間を見つけて食べられるよう、メニューを工夫しているらしい。
 おにぎりの形はまちまちだった。きれいな三角をしているものもあれば、やけに歪な楕円形もある。楕円形の方は海苔の上にもご飯粒が付着していて、誰が握ったものか明白だった。
「あ、それね、俺が作ったの」
 早良が尋ねるより先に、視線を追ってきた雄輝が自ら言った。
 味噌汁をよそうあかりが振り向き、渋い顔をする。
「雄輝、そのおにぎりは早良さんに食べさせちゃ駄目だからね」
「えー何で? 美味いのに」
「きれいに握りなさいってあれほど言ったのに。責任持って自分で食べなさい」
 怒りの滲んだ姉の言葉にもめげることなく、雄輝は楕円形のおにぎりを両手で取り上げた。早良に向かってにやっとしてみせた後、大きな口でおにぎりにかじりつく。一口もぐもぐと飲み込んでからこう言った。
「やっぱ美味いよ。早良さんも食べる?」
「こら、食べかけのを人に勧めない! それより『いただきます』は言った?」
「あ、忘れた」
 慌てて食べかけのおにぎりを置き、雄輝は両手をぱちんと合わせる。
「いただきまーす」
 配膳を終えて席に着いたあかりがそれに続き、早良も当然、二人に倣った。

 夕陽が射し込む台所で、食事は騒々しく行われた。
 どちらかと言えば雄輝が一人ではしゃぎ、あかりがその度に弟を注意する、というやり取りが繰り返されていた。姉弟の言い合いを見守りながら、早良もいつになく愉快な気持ちでおにぎりを頬張る。美味しかった。
 あかりは彼女の両親と同じように、大したもてなしも出来なくてと気に掛かっていた様子だったが、早良からすれば十分なごちそうだった。こんな風に賑やかに食事をすることなどまるでない。
 相変わらず美味しそうな顔をして食べるあかりと、黙って食事はしない雄輝に挟まれて、ふと気がつけば箸が進んでいた。

 真っ先に食べ終わったのは雄輝だった。
「ごちそうさまー!」
 言うが早いか椅子を降り、皿を流し台へと運ぶ。そしてどたどたと台所を退出していく。
「人の食事中は走らないの!」
 あかりの小言もどこ吹く風で、ものの三分も立たぬうち、帽子を被って戻ってきた。
「じゃあ姉ちゃん、行ってくるから」
「気をつけなさいよ。もうすぐ暗くなるから、転ばないように」
「わかってるって!」
 本当に理解しているのかどうか怪しみたくなる軽い返事。その後、彼は駆け出した。玄関の戸が開けられ、すぐに勢いよく閉まるのが聞こえた。
「騒々しくってすみません」
 二人きりになった台所で、あかりは早良に詫びてきた。
「小さなうちは元気がある方がいい。おとなしいとかえって心配になるだろ?」
 早良が尋ねると、小さな笑いが返る。
「そうかもしれませんね」
「それにしても、随分早くから出かけるんだな」
 窓の外はまだ夕陽の色をしている。いくら今日が流星群の見頃とは言え、星空を眺めるには尚早な時分だ。
「お友達の家にお邪魔するんだって言ってました」
 あかりは笑いながら首を竦める。
「望遠鏡を持ってるお友達がいるそうなんです。今日は皆でその子のところに集まって、遅くまで星を見る予定らしいです」
「へえ」
 活発なのはいいことだと思いつつ、早良にはあかりがあれこれと世話を焼く理由もよくわかった。雄輝のやんちゃぶりを傍で見ていれば、姉としては黙ってもいられないだろう。急に静かになってしまった台所で、ふと笑みが零れる。
「あ、そういえば」
 あかりが声を上げたのも、ちょうどその瞬間だった。
「早良さんの写真、見ましたよ」
 言われて早良は目を瞬かせる。
「写真?」
「志筑さんからいただいた写真です。早良さんの子どもの頃の……」
「……ああ、あれか」
 早良は苦々しい表情を作った。あかりが写真のことを話したがっているのがうかがえ、うきうきとした顔が可愛いかったり、まだ見ぬ自分の写真に何が写り込んでいるのかが不安だったりと、内心が目まぐるしく揺れ動く。
「いかにもわんぱくって風の子どもだったんですね」
 くすくすとあかりが笑っている。
「早良さんにもそんな頃があったなんて意外です。てっきり、雄輝みたいにやんちゃなことはしないと思っていたのに」
「一体、どんな写真なんだ」
 笑われるのは不快ではなかった。しかし史子はどんな写真をあかりに寄越したのだろうと、いささか気になる。
「あれ、早良さんはご覧になっていないんですか」
 怪訝そうにあかりが尋ねてくる。
「見ていない」
 早良が答えると、重ねて問われた。
「じゃあ、ご覧になりますか」
「……見る勇気が起こらない」
 正直過ぎる答えにあかりが吹き出した。
 自分の子ども時代のことはおぼろげに記憶している。それによれば、確かに早良は活発な子どもだったこともあったが、今の雄輝ほど酷くなかったはずだった。それを雄輝みたいだと評されてしまうと、記憶にも自信がなくなってしまう。思い出は美しく、無難なままであって欲しいと早良は思う。
「そんな、おかしな写真じゃないですよ」
 あかりがフォローらしきことを口にした。
「ただちょっと泥んこだらけで、棒っきれを構えてジャングルジムを占領している写真があっただけで……」
「その説明だけで十分だ」
 早良は、思い出を無難なままに固定しておくことに決めた。
 またあかりが笑う。心底、楽しそうに。
「でも、素敵だと思いますよ。そういう子ども時代を送ってきた早良さんが、こうして立派な大人になられたなんて、人に歴史ありという気がします」
「誉められた気がしないな」
 つられるように早良も笑う。
 そこであかりが小首を傾げた。
「でも、だとすると、あの雄輝もいつかは落ち着くんでしょうか」
「そうかもしれないな。案外、真面目な大人になるかもしれない」
 想像はつかない。あの少年の成長した姿は、これから先の時分の未来と同様に、ちっとも想像出来なかった。
 しかし、
「だといいんですけど……今は手に負えなくて、困ってるんです」
 苦笑いのあかりの顔を見ていると、それほど不安がることもないかもしれない、と思う。
「大丈夫じゃないか? 彼はしばらく見ないうち、どんどん大人になっているようだし」
「そうでしょうか。私からは、あんまりそんな感じがしませんけど」
「遠くで頑張ってるお姉さんを見てれば、きっと思うようになる。倣って落ち着いた大人になろうと」
 早良がそう告げると、あかりはますます困ったような顔になる。
「そんな、私なんてちっとも落ち着いてないですよ」
「落ち着いてるよ。立派なものだ」
 誉めたつもりの早良だったが、彼女の方はと言えば視線を逸らして少し笑う。その後、ぼそぼそと語を継いできた。
「あの、そこまで言われてしまうと、ちょっと提案しにくくなっちゃうんですけど……」
「提案?」
 もう一度目を瞬かせる早良。
 あかりは視線をこちらに戻すと、急に箸を置いた。そして姿勢を正し、声を潜める。
「ええと、私、やっぱり雄輝の姉なんだと思います」
「は?」
 何のことだろう。早良は訝しく思う。
「今夜の流星群ですけど、公民館はすごく混み合うらしいって聞いてました。だから」
 珍しくいたずらっ子の顔になり、あかりは早良にこう告げる。
「二人で、山の方まで星を見に行きませんか? ……三月の頃みたいに」
 姉と弟はやはり、よく似ていた。
 ぽかんとする早良へ、さらに言葉が追ってくる。
「そんなに深く入らなければ危なくないですから。私も小さな頃は、よく夜の山に入って、星を見ていたんです」


 かつてやんちゃな子どもだった二人が、山へと足を向けたのは一時間後のことだった。
 懐中電灯で足元を照らし、しっかりと手を繋ぎ合いながら、夜道を並んで歩いていく。
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