Tiny garden

ペルセウスの方角から(3)

 上郷に入ったのは昼下がりの時分だった。到着してすぐ、早良は旅館へと向かった。
 舗装のされていないうねうねとした道を進むと、山の麓に立つ、この村で三番目に大きな建物へと辿り着く。古い農家を利用した、趣のある和風建築。見覚えのあるその旅館の駐車場へと乗り入れれば、すぐに小さな姿が飛び出してきた。
 短く刈り込んだ髪の、まだ小柄な少年だ。
「早良さん、いらっしゃい!」
 ドアを開ける前から窓ガラスをノックしてきた雄輝は、相変わらずやんちゃ坊主の風体でいた。顔も手足もこんがりと日焼けしていて、笑顔の中で歯の白さが際立つ。それでも声は大分低くなったようだ。
「お邪魔します」
 車を降りた早良が声を掛けると、雄輝は人懐っこい表情で頷く。
「どうぞどうぞ! 狭くて何にもないとこですけど、寛いでってください。――姉ちゃーん! 早良さん来たぞー!」
 張り上げた声は旅館の奥、背にした山にまで響き渡るようだった。変声期の為にしゃがれていても、真昼の山で大合唱する蝉の声には負けていない。さすがに中にも届いたのか、やがて引き戸がからから音を立てた。
 玄関から、あかりがひょいっと顔を覗かせる。
「あ、いらっしゃいませ……」
 彼女はこちらを目に留めると、眩しそうな表情になった。今は仕事中なのか、藍染のエプロン姿でいる。こちらをうかがう仕種が妙に愛らしく映り、早良を戸惑わせた。

 彼女を認めた途端、反応に困った。
 久し振りに見た、会いたくて堪らなかった顔だ。あの表情の為に今日まで仕事をこなしてきたのだ。そう思うと、気恥ずかしさや照れの感情以上にいとおしさが湧き起こる。
 そうしてふとした時に込み上げてくる感情を、どのように表せばよいのか、早良はまだ掴めていない。素直に口にするにも抵抗があり、かといって押し隠し切れるほど器用でもない。まして抑え込めるものでもないから、表情の選択に迷ってしまう。
 特に、人の目が――彼女の弟が見ている前では、どうしているのが一番いいのかまるでわからなかった。結局、面映さを覆い隠すつもりでしかつめらしい顔をする。

「お疲れ様です。運転、大変でしたでしょう」
 車の傍まで駆け寄ってきて、あかりが尋ねる。
「いや、そうでもない」
 まだ覚束ない態度の早良は、ぎくしゃくとかぶりを振った。
「道は空いていて流れがよかった。あまり疲れてないんだ」
「そうなんですか、よかったです」
 あかりの笑い方は、こうしてみると雄輝に少し似ていた。人懐っこい笑顔だった。夏休みの間に家業を手伝っているうち、元々持ち合わせていた社交性を取り戻せたのかもしれない。
「どうぞ、中にお入りください。冷たいお茶をお出ししますから」
「構わなくてもいい。それより、君は? まだ仕事中なのか?」
 早良があかりのエプロンに目を向ける。すると彼女は頷いて、僅かに眉尻を下げた。
「はい、すみません。でもすぐに片付けてきますから、ちょっとだけお待ちいただけますか?」
「わかった」
 今日まで散々待ったのだから、あとちょっと待つくらい、どうということはない。早良が頷くと、あかりもほっとしたように笑った。
 それで早良は自分の持参した土産と、史子から預かった紙袋とを引き渡す。すかさず雄輝が寄ってきて、紙袋の中を覗き込む。
「何これ、お菓子? 俺も食べていい?」
「ちょっと雄輝! お行儀悪いことしないの!」
 姉と弟の賑々しいやり取りを聞くのも久し振りだった。三月の頃とはまた違う思いで、早良は二人の言い合いを眺めている。
「……これは?」
 と、あかりが紙袋の中から、あの空色の封筒を引っ張り出した。
「それは……志筑さんから君宛てに預かった、例の写真だ」
 苦々しく答えた早良の表情を見て、あかりが少し笑ってみせる。
「え、なになに、写真って何?」
「秘密!」
 好奇心を剥き出しにした雄輝を押し遣って、彼女は旅館へと駆け戻っていく。
「秘密って何だよ……早良さん、どういうこと?」
 残された弟は早良へと質問の矛先を向け、早良は別の意味で反応に困った。

 あかりが仕事を片付けている間、玄関で待っていることにした。
 持ってきた荷物は雄輝が部屋まで運んでくれ、戻ってくる時には麦茶の入ったコップまで持ってきてくれた。早良は遠慮をする機会を失し、結局ありがたくそれをいただいた。
 上がり框に腰掛け、冷たい麦茶で喉を潤すと、知らず知らず息をついていた。蝉の声がするほかは物音もほとんどせず、車もまるで通らない、静かな村だった。開け放たれた戸は風を取り入れて涼しく、陽を遮った薄暗い玄関は、実に過ごし易い場所となっている。
「今日はやっぱり忙しそうだな」
 一息ついてから、早良は雄輝に声を掛ける。早良の横に腰を下ろした少年は、もっともらしい顔つきで顎を引いてみせた。
「そうなんだ。一昨日の晩から満室でさ、もうてんてこまい。今はお客さんも皆、夜に備えて休んでるとこだけどね」
 言いながら、大きく伸びをする。
「ほら、流星群って夜中に見るもんじゃん。日付が変わるくらいの頃が一番いいってんで、そういうの好きな人はずっと遅くまで観測してるんだって。だから今は昼寝してる人もいるらしいよ」
「へえ」
 どうりで静かな訳だ。早良は胸裏で呟く。
 あくまでも今日のメインイベントは夜の流星群。上郷の夏の名物というそれを、訪れる人々は一番の楽しみにしているのだろう。早良にとっても楽しみではあったが、夜に備えて昼寝をして、昼の上郷を眺めずにいるのももったいないような気がする。
 ここへ来る途中に見かけた、夏の緑の山々と、緩やかな丘の上に立つ新公民館。あれは昼間の内に見ておかなければ、色彩の美しさがわからない。あかりを連れて、まずはあの丘の上まで登ってみたいと思う。
「早良さんも流星群、見に来たんだよな」
 雄輝の問いに、早良は首肯する。
「そうだ」
「じゃあさ」
 と言って、少年は難しい表情になった。
「天文台で見るのはあまりお薦めじゃないかも。山登った方がいいよ」
「そうなのか? どうして?」
「多分、すっげー混む」
 鼻の頭に皺を寄せ、雄輝は力説する。
「皆してあそこ行くって言ってるんだ。きれいだし、立派だからさ。今日は夜中もずっと開放するらしいけど、多分一晩中混んでると思うよ。そういうとこだと落ち着かないだろ?」
「まあ、そうかもな」
 星を見るなら静かな方がいいと早良は思うが、だからと言って陽が落ちてから山に入ろうとも思わない。そんなことをするのは雄輝くらいのものだろう。
「特にデートだって言うんならさ」
 ふと、雄輝が得意げな顔をした。
 小学生らしからぬ台詞に、早良は虚を突かれる。まさかそんな言葉を彼に言われるとは思わなかった。あかりも大人びたところがあるが、やはり姉弟、そういうところは似てくるものなのだろうか。
 ぽかんとする早良を見て、にやっとした雄輝が続けた。
「早良さんってさ、本当にうちの姉ちゃんと付き合ってんの? 本気で?」
「……そうだ」
 ぎこちなく早良が頷けば、途端に雄輝は物珍しそうな、驚きを含んだ眼差しを向けてくる。
「早良さん、よく物好きだって言われない?」
「いや、覚えはないな」
 言われたとしても取り合うつもりはない。早良の心は彼女以外の、他の誰にも動かしようがなかった。
 とはいえ、早良にとっては最愛の恋人でも、雄輝にとってはまた違う。あかりという存在を、雄輝は笑いながら語った。
「嘘だあ。うちの姉ちゃんを彼女にするなんて、ちょっと変わってるって言うかさ、特殊な趣味だと思うけどな。他にもっとましな女の人いるって、あんなのじゃなくってさ」
 自分の姉だというのに、むしろ姉だからなのか、彼の言い様は遠慮のないものだった。とっさに早良が声を失えば、更に愉快そうに告げてくる。
「っていうかさ、早良さん知ってる? うちの姉ちゃん、怒るとすげー怖いの」
「……まだ、怒られたことはないからな」
 ようやっと、そう答えた。
 出来ればこの先も、彼女に怒られることなどなければいいと思う。彼女が怖いかどうかはともかく、怒る時は怒る娘だということは姉弟のやり取りを見て知っている。雄輝の場合は、普段の行動が姉の怒りを買って当然のものだから、彼女が怒るのもやむを得ない気がするのだが。
 そういえばまたしばらく見ないうち、雄輝の背が伸びたようだ。日焼けした顔にはそこはかとなく凛々しさも加わっている。それでも中身は相変わらず、愉快そうに姉の事実を吹聴してくる。
「じゃあ怒られないように気を付けた方いいよ。姉ちゃん、ああ見えてプロレス強いから。技とか掛けてくるから」
「そうなのか」
 まさかと疑いつつ、万に一つも掛かりたいとは思えない早良だった。あかりは小柄だし、手足も華奢だ。あの体躯でプロレス技を掛けられても恐ろしくはないはずだが……。
「喧嘩になるともうすげえから。遠慮なく間接とか決めてくんの。最近はさすがにやってないけどさ、そのくらいはするのが姉ちゃんだから、早良さんも用心して」
 雄輝はいかにも恐ろしげな口ぶりだった。
 なら、覚えておくようにする。早良はそう答えようとして、慌てて口を噤んだ。ちょうどその時、玄関にあかりの姿が現われたからだ。
「――何の話?」
 二人の空気を察したのか、現われるなりあかりは眉を顰めてみせた。着てきた白いワンピースとはそぐわない、険しい表情だった。
 直後、飛び上がった雄輝はぶんぶんとかぶりを振る。
「ぜ、全然何でもないよ!」
「それにしては慌ててるみたいだけど。雄輝、早良さんと何を話してたの?」
 どことなく疑わしげな目を向けてくる姉。弟は顔を引き攣らせている。
「姉ちゃんには関係ない話!」
「何それ」
「だから関係ないんだってば。じゃあね!」
「あ、こら!」
 あかりが呼び止めても構わず、雄輝は奥へと引っ込んでしまう。つむじ風のような敏捷さで、たちまち足音も遠ざかった。
 そうして静かな玄関には、あかりと早良が残された。早良が言葉を探している間に、彼女の方から尋ねてきた。
「うちの弟、何かおかしなことを言ってませんでしたか?」
 早良は迷った。どう答えれば雄輝の身を守り、あかりの機嫌も損ねずにいられるだろうか。正直にありのままを答えるのは得策じゃないだろうが、誤魔化してしまうのも気が引けた。
 迷いに迷った末、小声で告げた。
「俺はその、君のどんな話を聞いても、君への気持ちは変わらないから」
 するとあかりは顔を赤らめ、気まずそうに目を逸らす。一瞬の間があって、すうと息を吸い込んだ後、彼女は屋内に向かって叫んだ。
「雄輝っ! やっぱり余計なこと言ったでしょう!」
 その件に対する弟の反論はなく、早良は答え方を誤ったかなとこっそり思った。
 一応、嘘ではない思いだった。
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