Tiny garden

天頂引力(4)

 ホテルから件の繁華街までは目と鼻の先だった。しかし早良にはやけに遠く感じられた。世界の果てまであるようだ、と走りながら思う。疲労はない。けれど彼女の姿が見えない。一刻も早く、すぐにでも会いたいのに。
 休日の雑踏をすり抜けてひた走る。脇目も振らずに駆けていく。

 そうして辿り着いた先、あかりは、確かにそこにいた。
 不安に強張った顔のまま、じっと身動ぎもせずにいた。
 繁華街を駆け抜けてきた早良の脳裏に、覚えのある情景がよみがえる。昼間のネオンサインはぼやけていたが、形は変わらずそのままあった。排気ガスの臭いも相変わらず、辺り一帯に立ち込めている。春とは違い風のほとんどない日だったが、代わりに早良が風を作り、風をここまで連れてきた。
 百貨店の前の広場もそのままだ。広場に植えられた木は記憶の頃よりも青々としていて、季節の移ろいを感じさせた。その植木の陰に、身を潜めるように彼女がいた。道に迷った時と同じ、翳りのある表情だった。
 あかりの姿を認めると、早良は一度、立ち止まる。
 さすがに息が切れていた。肩を上下させながら、視線は彼女から外さない。髪が乱れてしまったのには構わず、掛ける言葉を探している。
 相変わらず自分は迂闊で、未熟で、どうしようもない奴だった。彼女を不安がらせてしまった。こんなところまで引っ張り出してしまった。そのことに罪の意識を感じつつ、早良は言葉を探す。彼女の不安を晴らす為に。そしてもう一つ、彼女を――。

 彼女が、顔を上げた。
 その目が早良を捉えて、瞬間、強張っていた表情が崩れる。泣きそうな顔になる。早良が動くよりも先に彼女が動いた。アスファルトを蹴って、ひゅうと音のする風を作った。
 飛びついてきた重みと温かさを、早良は反射的に受け止める。少しよろけた。けれど、尻餅はつかずに済んだ。あかりはありったけの力を込めるようにしがみついてきて、抱き締め返さずにはいられなかった。乱れた呼吸のままで、それでも、全力で。
 どちらがどちらの腕の中にいるのかわからないくらい、お互いに強く抱擁し合った。足元から伸びる色濃い影が重なった。
「早良さん、早良さん!」
 顔を上げたあかりが、涙声で呼んでくる。
「私、待ってました。お待ちしてました。早良さんが絶対に来てくださるって、信じてました」
 振り絞るような言葉を聞きながら、早良は思う。――彼女はどうして泣いているんだろう。それほどまでに不安だったからか。それほどまでに、信じていてくれたからなのか。
「お父さんとか、お母さんには」
 ひっく、と喉を鳴らしてあかりは続けた。
「こっちに来る前に言われてたんです。知らない人の車に乗っちゃ駄目だよって。今日来てくださったのは知らない方でしたけど、でも、でも早良さんの秘書さんだっておっしゃるから、私、乗せていただいたんです」
 内田は要領のいい男だ。あかりくらいの純粋な娘なら、信じ込ませるのも容易だろう。話を聞いて、早良は胃がむかむかしてくるのを覚える。
「でも、あの方がおっしゃったんです。早良さんには、婚約されてる相手がいるんだって」
 あかりがそう言ったので、無言のまま、早良は抱き締める腕の力を込めた。ふうと息を吐き出すのが聞こえて、彼女は更に語を継ぐ。
「早良さんの婚約が成立したら、いいことずくめなんだってうかがいました。早良さんも相手の方も幸せになれて、お仕事も上手くいって、周りの人も祝福してくれて……だから、よその人間が入ってくる余地なんてないんだって、うかがいました」
 早良は唇を噛んだ。入ってくる余地がないどころか、今や腕の中の彼女のことしかないような頭で、あかりの言葉を受け止め続けた。
「私が、早良さんの幸せを壊してしまいかねない存在だから、そうならないようにして欲しいんだって、そうも、おっしゃいました」
 そこで一度、くすんと鼻を鳴らした。あかりは額を早良の胸元に預ける。華奢な腕は、相変わらず精いっぱいの力でしがみついてくる。
「本当は私、ちょっとだけ迷っちゃったんです」
 今日の彼女はいつものように、ラフな格好でいた。半袖のパーカーにジーンズに、スニーカー。きっとどこへ行くのか、どこで話し合うことになるのかも知らされないままだったのだろう。
「早良さんの幸せを壊してしまうのはやだなって、思いました。早良さんにはたくさんお世話になりましたし、立派なお仕事をされてるのも存じてましたから、そういうのを私が壊してしまうんだったら、すごく嫌だって思って、どうしたらいいのかわからなくなりました。でも……」
 彼女がかぶりを振ると、ポニーテールの髪がゆっくり揺れた。
「その時に、この間、早良さんが言ってくださったことを思い出しました」
 思わず、早良は目を伏せる。
「だから私も、早良さんの言葉は信じようと思ったんです。早良さんの言ってくださったことだけは信じて、他の方が言う、どうしていいのかわからないような言葉は、信じないでおこうって決めたんです。だから、あの方の車を降りました」
 言葉が繋がった。自分の告げた言葉が彼女の心の内に留まり、そうして彼女を動かした。そのことが、早良には堪らなくうれしかった。
 暗闇の中、腕で捉えた温もりは、もうどこへも逃げないはずだった。誰にも引き離せないはずだった。こんなにも強く抱き合っているのだから、絶対に、絶対に引き剥がせる訳がない。
「この街に来た時も、私、同じことを思いました」
 あかりは続ける。いつの間にか湿っぽさの消えた声が、だんだんと張りを取り戻していく。
「ここには私の入る余地なんてないんじゃないかって。上郷には居場所があったけど、ここには私を迎えてくれる場所なんて、どこにもないんじゃないかって、思ったことがあったんです」
 早良は目を開ける。
 夏の陽射しがかすめてきて、視界が眩んだ。それでも彼女の存在を確かめることは出来た。
「だけど、早良さんは」
 顔を上げて、あかりが少し笑ったようだ。
「早良さんはずっと優しくて、温かくて、私にとても親切にしてくださいました。早良さんの傍には居場所があるって思いました。どこにもいられる場所がなくても、早良さんがいてくれるうちは、一人きりじゃないんだって。ずっと前から、本当に、ずっと、そうだったんです」
 彼女の入る余地はここにある。
 彼女の居場所は、ここだった。
 繋がった。言葉が、事実が、想うことが。早良はこの上なくうれしい気持ちで、思わず笑んだ。笑って、また彼女を抱き締め直す。
「怖い思いをさせたな」
 ようやく声を発した早良は、まず、あかりへそう告げた。
 返ってきたのは気丈な笑み。
「怖いことなんかないです。早良さんが来てくださったから……早良さんがいてくれたら、私、怖いことなんて何もないんです」
「……そうか、ありがとう」
 早良は、素直に感謝を告げる。同じように思う。自分も、彼女がいてくれたら怖いものなど何もない。全てのことを乗り越えていけるようだと思う。
 あかりは小さく顎を引いた。
「私、早良さんの言葉を信じます。だから教えてください。――早良さんが、一番幸せになれる方法を」

 早良は言葉を探す。
 あかりの不安を晴らす為に。
 そしてもう一つ、彼女を――あの場所へ連れて行く為に。
 嘘や誤魔化しは必要なかった。本当のことだけ言えばよかった。それが彼女の問いへの答えになる。

 ほんの少しだけ腕の力を緩める。
 彼女の顔を覗き込んで、早良は告げた。
「俺が、婚約させられそうになってるのは本当だ」
 あかりは瞬きもせず、その言葉を聞いている。
「それは幸せなことじゃない。そんなことは望んでもいないし、相手は友人なんだ。その人のことを愛している訳ではないし、これから先もそういう感情は持てない。彼女も、俺と同じように思っている。二人で話し合って結論を出した」
 ラウンジに残してきた、史子の面差しが過ぎる。彼女が今の早良を見たら、頑張れと背を押してくれるだろうか。それとも、遠慮なく冷やかしてくるだろうか。
「俺が愛しているのは君だ」
 早良は続ける。ためらいもなく口にした。
 ちらとあかりが頬を染める。はにかみ笑いが浮かんだ。
「君がいてくれたらそれでいい。幸せだ。幸せになる為なら何でもするつもりでいる。どんなことがあっても君を失う結果だけは選ばない。君が俺の傍にいること、それが俺にとっての幸せの、絶対条件だ」
 本心を告げることに、今更照れも面映さもなかった。
「したくもない婚約はしない。君を失うつもりはないし、友人と、互いに不幸になる道を選ぶ気もない。不幸を強いてくる人間は説き伏せて、意地でもわからせてやるつもりだ。その為に」
 一呼吸置いて、彼女の瞳を覗き込む。瞬きを止めた瞳には信頼の色が湛えられている。早良にはそれが確かにわかった。
「君にも、一緒に来て欲しい。これから説得に行く」
「はい」
 あかりは即答だった。すぐに答えて、頷いた。
「行きます、私。早良さんが幸せになれるなら……」
 最後までちゃんと笑って、答えてくれた。
「私が早良さんを幸せに出来るなら、私、どこへでも行きます。連れて行ってください」

 それで早良は、彼女の身体を解放した。
 その時、ここが繁華街の只中であること、休日の午後で辺りがやけに混み合っていること、広場の周囲をぐるりと囲んで、遠巻きにして眺めている何人もの人間がいることに気付いたが――どうしようもなかった。誰に見られていようが、誰に知られようが構わなかった。彼女が傍にいてくれたらそれで。
 僅かに残った気まずさは、溜息一つで追い払った。早良は照れ笑いを噛み殺しながらあかりに告げる。
「少し急ぐぞ。走れるか?」
「はい」
 あかりは頷く。やはり笑顔だ。
「私、走るのは得意なんです」
 返答を聞いた早良は、春先に初めて出会った時のことを思い出す。あの頃の情景をよみがえらせながら、あかりの手を取り、走り始めた。
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