Tiny garden

天頂引力(3)

 俄かには信じられなかった。
 あかりが、内田の車を降りてしまった。それが何を意味するのか、早良は容易に想像することが出来た。内田の話だけを聞き、彼女なりに何かを思ったのだろう。ここへ連れてこられることを拒んで行方をくらましてしまった。
 彼女はここへは来ないだろうと思った。彼女はまだ、この街の地理に明るくないはずだ。ここまで、一人きりでは辿り着けないはずだ。そもそも来るつもりさえもうないのかもしれない。つまり――早良が彼女に話をする機会は失われたということだ。誰よりも信じて欲しいと願う自分の言葉は、彼女の耳には届かない。このままでは。

 耳を疑った早良は、立ち上がったままで史子の父親の、どこか得意そうな笑みを注視していた。
「ご苦労様。君だけでもこちらへ来てくれ」
 内田にそう呼びかけた彼は、その後で電話を切った。そしてこちらへと向き直る。
「そういうことだ、克明くん」
 死刑宣告に聞こえた。
「宮下さんはこちらへは来ない。話した通り、自分から車を降りて帰ってしまったようだからね。内田くんから話を聞いて諦める気になったのか、それとも面倒なことになりそうで嫌気が差したか、その辺りはわからないが」
 容赦のない物言いで、淡々と告げられる。
「素直な、物わかりのいいお嬢さんであるのは確かだ。悪くない相手だったのかもしれないが、諦めたまえ」
 従いたくない言葉だった。それなのに耳から忍び込んできて、心の中へ澱のように溜まっていく。溶けもせず、消えてゆかない。
「君にはうちの娘がいる」
 そこまで言って、史子の父親は史子へと視線を向けた。びくりと身を震わせた史子へと、口調ばかりは親らしく申し渡す。
「史子、お前の心配もなくなったことだし、この辺りで決めてしまいなさい。お前も克明くんが相手なら不満なんてないだろう? 以前のようにぐだぐだと文句を言うこともないな?」
 早良の視界の隅で、史子は俯いていた。膝の上に置いた手がスカートを掴み、そこに深い皺を作り出している。何を思っているのかは早良にもわからない。史子にも、やはり残酷な運命の宣告として聞こえたのかもしれない。
「お前もだ、克明」
 引き継ぐように、早良の父親が口を開いた。
 ゆっくりと切り替わる視界の中、父親はくたびれた表情でいた。声には微かな安堵を滲ませて、静かに続ける。
「いい加減、みっともないわがままは止せ。史子さんにも、志筑さんにも失礼だろう。こんなに素晴らしいお嬢さんがいるというのに、よそ見をする気になるのがおかしい。若い娘に気を取られただけだろうが、さっさと忘れてしまうことだな」
 忘れてしまうことなど出来るはずもなかった。出来るのならとうにしていた。初めて顔を合わせてからずっと、彼女は早良にとって忘れられない存在だった。純粋で、真っ直ぐで、ころころと表情を変えるくせに時々酷く頑固で、涙に暮れるほど打ちのめされても他人に頼ろうとはせず、大人に対してやけに気を遣いたがって――だから、わかる気がした。彼女がここへは来ない理由。内田の車を降りて、早良の前へは姿を見せようとしない理由が。
 彼女はそういう子だ。
 しかし、そういう彼女を心から欲して、求めている。今となっては抑え込むことも、忘れ去ることも出来ない心だった。その心に正直でいるのはいけないことだろうか。
「……少し、時間をください」
 思いついて、早良は言った。
「何をする気だ」
 すかさず父親が噛み付いてくる。険しい面持ちで息子を見据え、釘を刺す。
「志筑さんはお忙しいのだとさっき言ったはずだ。ゆっくりしている時間はない」
「話がしたいんです、彼女と。どうして車を降りて帰ってしまったのか、内田さんから一体何を聞いたのか、確かめたいんです」
 必死の思いで早良は言ったが、聞き入れられはしないようだ。父親が強くかぶりを振った。
「馬鹿なことを言うな。確かめてどうなるというものでもあるまい」
「でも、俺は!」
「いい加減にしろ!」
 一喝され、早良は瞠目した。
 ラウンジに響き渡ったその声を、早良の父親は自ら忌々しげにしてみせる。
「この間も言ったな。お前はまだ若い、だから一時の感情に流されているだけだ。冷静になって考えればわかるはずだ、何がお前にとって利点となり、お前の継ぐ会社にとってプラスとなるのか。それがわからんうちは、お前もまだまだ子どもだ」
 子ども、なのだと思う。いや、――子どもに見えているのだろう、と思う。早良も史子も、それぞれの父親からすれば幼い子どもにしか見えないのだろう。未来を本人へ任せずに決めてしまおうとするのも、お仕着せの未来にのみ価値を見出しているのも、全て子どもを信用していないからだ。子どもには自ら未来を選び取り、幸せになる力などないと、勝手に思い込んでいるからだ。
 早良は子どもではないつもりでいる。自分に未来を決める力や、幸せになる為の力があるのかどうかは知らない。それでも、手に入れたい、そうありたいと思う未来がある。手に入れてみて、それが望んだようなものかどうかなどわからない、だが、だからこそ強く惹きつけられてやまないような未来が欲しかった。先のことはわからないからこそ願うことも、望むことも出来る。そうと知った早良には、父親の言葉に従う気はなかった。

 しばらく、睨み合っていた。
 父親を真正面から捉えて、早良は唇を引き結んだ。
 もし少しでも隙を見せたら、ここから飛び出していくつもりでいた。あかりに会わなくては、彼女の真意を尋ねなくては諦め切れない。それに、自分にだって話したいことがある。内田や、早良の父親や史子の父親、その他の誰のものよりも耳を傾けて聞いていてもらいたい言葉がある。

 ラウンジ内は時が止まったようだった。四人がそれぞれ身動ぎもせず、互いに出方をうかがっている。牽制し合っているようで、その実、何も出来ずにいるだけかもしれなかった。
 しかし静けさは長く続かなかった。早良は、すぐには気付けなかったが、音がした。
 スーツの胸ポケットからだった。
「――早良くん」
 真っ先に史子が口を開いた。顔を上げ、思い出したようなはきはきとした口調で言う。
「電話が鳴ってるわ、早良くん!」
 言われて、早良もようやく気付いた。目覚めた直後のような緩慢さでスーツのポケットに手を突っ込む。携帯電話が鳴っていた。取り出すと、その音は高らかにラウンジ内で鳴り渡る。空気をびりびりと震わせた。
 早良はディスプレイを覗き込んだ。電話を掛けてきたのは――公衆電話からだ。まさか、と思った瞬間、周囲に断りもせず通話キーを押した。
「……もしもし」
 声が情けないほどかすれた。
 そんなことも、次の瞬間にはどうでもよくなった。
『早良さん!』
 あかりが名前を呼んできた。
『私です、宮下あかりです。あのっ、早良さん、私――』
 鼓膜を打つ彼女の声が、電話越しに止めどなく溢れてくる。たちまちのうちにそこら中を満たしてしまった。早良の心の内にあった澱を押し流し、どこかへと消し去ってしまった。
『早良さん、ごめんなさい。何から謝っていいのかわからないくらいですけど、私、早良さんからお話を聞くまでは、やっぱり信じ切れなくって。あの、秘書の方のこと疑うのもよくないかなって思ったんです。早良さんの秘書だっておっしゃってたから、信じなくちゃいけないかなって。でも、やっぱり……』
 彼女が息継ぎをする。間近で、耳元で聞こえるようだった。
『どういうことでも、私は、早良さんの口から聞きたいです』
 きっぱりと、言ってきた。
『早良さんのお言葉通り、私も早良さんのことだけ信じようって思いました。だから、車、降りちゃいました。ごめんなさい』
「君が謝ることじゃない」
 どうにか、早良も語を継いだ。謝るのは自分の方だと思う。きっと怖い思いをさせただろうし、驚かせもしただろう。それに。
「巻き込んだようで悪かった」
 率直に早良は詫びた。当てつけのつもりはなかったが、早良の父親も史子の父親も、揃って表情を引き攣らせた。
『いいえ、大丈夫です』
 あかりの声は気丈に聞こえた。
『私の方こそごめんなさい。早良さんの秘書の方に悪いことをしました』
「気にしなくていい」
 これは当てつけ半分で言った。その対象はまだ、ここには来ていなかったが。
「君は今、どこに?」
 早良が尋ねると、ちょうど視線をぐるりと一周させたような間があった。
 そして、
『あの……どこと言って、おわかりいただけるかどうか』
「道に迷ったのか?」
『ごめんなさい。前と同じ辺りです。前に私が迷っていた時、早良さんとお会いした場所です』
 記憶は造作もなく蘇る。日の暮れた繁華街の情景。そこで巡りあった、途方にくれた顔つきのあかり。思い出して、早良は言った。
「迎えに行く。待っていられるか?」
『はい、いくらでも』
「ありがとう、すぐに行く」
『こちらこそありがとうございます、早良さん。私、ずっとお待ちしてます』
 通話を終える直前の言葉は、少し震えたようだった。
 早良は満ち足りた思いで電話を切り、ポケットにしまい込んだ。視線を上げれば、事の成り行きを見守っていたらしい父親たちの苦々しい表情が映る。隣で、史子だけはうれしそうにしていた。
「彼女を迎えに行きます。時間をください」
 再度、早良はそう言った。
「まだ言い張るか、克明」
 父親は怒りの息をついたが、取り合ってもいられなかった。
「元々、彼女のことも招待していたんでしょう? 俺たち四人だけで話し合うのは適当ではないんでしょう? だから俺は、彼女を連れてきます」
 早良は言うと、史子の父親へも目を向ける。笑みの消えた顔は、次の一手を考え出そうと思案しているように見えた。その顔に尋ねた。
「そういう話だったはずです。彼女を連れてきても構いませんか?」
「……出来るものならそうするといい。こちらはあまり長くは待てないが」
 史子の父親が視線を合わせずに答える。
「すぐに戻ります」
 挑戦的に言い返した早良は、最後に史子の顔を見た。
 ただ一人、史子だけが笑んでいた。早良の視線を受けて、大きく頷いてみせる。早良も頷きを返した。
「志筑さん、しばらく頼む」
「ええ。気を付けて、必ず二人で戻ってきてね」
 もちろんだ。――声には出さずに答えると、早良は床を蹴った。全速力でラウンジを飛び出していく。
「克明!」
 父親が呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まるどころか振り返りもしなかった。父親も、引き止める気はなかったのだろう。追い駆けては来なかった。

 早良は走った。ホテルの廊下を猛スピードで駆け抜けていく。
 いくらでも、ずっと待っていると言ってくれた、彼女の元へとひた走る。
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