Tiny garden

天頂引力(5)

 ホテルのラウンジへ、早良とあかりは息せき切って飛び込んだ。
 それを笑顔で出迎えたは史子だけだった。
「お帰りなさい、早良くん! それに……」
 史子の視線があかりへと留まる。さすがに呼吸の苦しそうなあかりが、しかしその時背筋を伸ばした。ちょこんとお辞儀をする。史子も礼を返す。うれしそうに笑んでいる。
 そして史子は視線を移して、にこりともしない顔たちを見遣った。期待を込めたような彼女の笑みは、瞬時に失望の色に塗り替えられた。

 早良の父親は相変わらず不機嫌そうに、唇を結んでいた。息子の方を見もしない。ただ、叱る準備はしているらしいのが伏せられた瞼でわかる。
 史子の父親は、苛立った様子で靴先を上下させていた。こちらも娘の方は見ず、早良たちの姿を凝視している。何と言って口を開こうか、思案を巡らせているのかもしれない。
 そしてその傍らに立つ内田は、早良を見るなり眉を顰めた。まるでこちらの正気を疑うような、そんな表情をしてみせた。

 あいにくと早良は正気で、あれだけの距離を走ってもなお疲労を感じていなかった。手の甲で汗を拭い、大きく一つ息をする。そして皆の囲むテーブルへと、あかりの手を引き歩み寄る。
「彼女を連れてきました」
 居合わせた人間全員へ向けて告げた。
「宮下あかりさんです。彼女とは、上郷村での仕事をきっかけに知り合いました。上郷の出身で、今年からこっちで大学に通い始めています」
 早良はあかりを紹介する。口にした程度の情報はとうに早良の父親も、史子の父親も知り得ていただろうが、形式的に説明しておく。
「宮下です、初めまして」
 あかりが一同へ、深々と頭を下げる。家業のせいか、こういう時の態度は堂に入ったものだった。
 彼女が顔を上げた瞬間、史子の父親が笑んだ。彼女の目にも、早良の目にもよく映るように深く笑んだ。そしてすっくと立ち上がり、あかりへ告げる。
「やあ、初めまして。君を招待した志筑です。今日は急に呼びつけたようで悪かったね」
 やけににこやかな挨拶の後、議員らしく手を差し出してくる。早良は内心警戒したが、あかりは迷いもせず早良の手を離した。目の前で握手を交わす。
「いいえ、こちらこそ遅くなってごめんなさい。秘書の方の車を降りてしまったことも、申し訳なく思います」
 あかりには怯えた様子も、おどおどするそぶりもなかった。それが頼もしくもあり、彼女に無理を強いているようで心苦しくもある。だからこそ、今日はもう引き下がる訳にはいかない。早良は強く、そう思う。

 史子の父親はまだ笑顔だった。余裕のある笑い方で椅子に腰を下ろす。早良とあかりが同じように席に着くと、すぐに身を乗り出してきた。
「さて、お招きしておいて何だけど、私は忙しい身でね。あまり時間がないんだ。単刀直入にお話しよう」
 あかりを見る眼差しが鋭い。間に割って入りたくなるほどに。
 それでもあかりは臆した様子もなく、じっと視線を返している。
「克明くんには、うちの娘を貰ってやって欲しいと思っている」
 と、史子の父親は切り出した。その言葉を早良でも史子でもなく、あかりに対して語りかける。
「これはとてもいいことなんだ。皆が幸せになれる。うちの娘もそうだが、克明くんにとっても実りのあるいい話だ。破談にしてしまうなんてもったいないくらいのね」
 諭すような口調は手慣れていた。
「宮下さん、君は聞き分けのいい子だという話だから、まさか人の幸せを壊そうなんて思いはしないね? とてもいい縁談を、君がずけずけと踏み入ってきたせいでめちゃくちゃにされそうになっている。それは君にも望まないことだろう?」
 しかし物言いは若い娘相手でも実に無礼で、直截的だった。早良は眉を吊り上げたし、隣で史子が息を呑むのも聞いた。
 内田は黙って、父親たちの傍らに控えている。早良の父親はまだむっつりとしている。笑んでいるのは史子の父親だけだった。その目はあかりを射抜いていた。
 視線を向けられたあかりが深呼吸をする。その後、
「お言葉ですけど、志筑さん」
 慎重に切り出した。
「私、決めているんです。早良さんの言葉だけ信じていようって」
 一つきりだった笑みが消える。
「早良さんが一番幸せだと思うこと、そのことに従いたいと思います。早良さんが決めたことにだけ従うつもりでいます。私の望んでいることは、早良さんがしたいと思うことをする、それだけです」
 真っ向から、あかりが言葉をぶつけた。
 場に居合わせた誰にも意外なことで、五人分の視線が一斉に彼女へ注がれた。史子が目を瞠り、早良は改めて唇を引き結ぶ。一方で、史子の父親はわざとらしく息をつく。
「残念だね。君の、素直だという前評判はでたらめか」
 唇の片端を上げ、苛烈な言葉を続ける。
「宮下さん、君がどういうつもりか知らないが、うちの娘を不幸にすることだけは許せないな。君もお父さんがいるだろう、例えば君が不幸な目に遭ったとして、君のお父さんが悲しまないはずはない。私だって、史子に対して同じことを思うよ」
 家族のことを持ち出されると、彼女はきっと、弱い。直感した早良はあかりを内心で気遣う。
 案の定、あかりははっとしたように顔を強張らせた。すぐに俯く。考え込むような間があって、早良は衝動的に彼女の手を握った。彼女の代わりに、反論の言葉を探した。

 だが、家族のことを持ち出されて、黙っていられない人間が他にいた。
 早良よりも先に口を開いた。
「――お父様が、私の幸せを願っていると言うの?」
 ラウンジに響いた震える声は、史子のものだ。柳眉を逆立てた彼女は、あかりの後を引き継いで、自らの父親を見据えた。
 父親の方は微かに笑んだ。娘の性格は熟知しているだろう。言うことを聞かせるのも容易いと思っているのかもしれない。
「そうだよ、史子。私は誰よりもお前の幸せを願っている。克明くんと一緒になる方がお前にとってもいい。幸せな暮らしが出来るぞ」
「嘘よ」
 史子は激高し、言い返した。いつにない激しさだった。
「私と早良くんの気持ちも考えないで、お父様たちで勝手に決めてしまうような結婚、幸せになれるはずがないわ。私も早良くんも、一緒にいるべきじゃないのよ」
「……失礼じゃないかね、史子。早良さんも克明くんもいる前だというのに」
 父親の咳払いも意に介さず、史子は語気を強めていく。
「いいえ、失礼じゃないわ。だって私たちの為になることを言っているんですもの。私と早良くんはお友達よ。結婚なんて出来るはずがないし、お互いを幸せにすることも出来ないわ」
 史子がちらと早良を見遣る。早良と、あかりの方を確かめる。それからまた、父親へと向き直る。
「私に出来るのは友達の幸せを願うことと、自分自身を不幸にしないこと。そのくらいなの。でもそのくらいでも、私はせめてやり遂げたい。早良くんは大切なお友達だから、絶対に幸せになってもらいたい。そう願えなかったら、私まで惨めな、不幸せな人生になってしまうもの」
 彼女は、恐らく初めてだろう。父親の意見に反論したのも、ここまで強く意思を口にしたのも。そして、自分の意思を父親に、ひとまず黙って聞いてもらっていたのも。
 娘にその意思を叩きつけられた父親は、目に見えて動揺していた。歯噛みする音が聞こえてきた。
「史子……お前まで、聞き分けのないことを言うのか? どうしたんだ、お前らしくもない」
 そして娘と、娘が庇おうとしている少女とを見比べながら、やや険しい語調で言った。
「お前だって克明くんのことを大切に思っているんだろう。それなら、お前とこちらの、若過ぎる無知なお嬢さんと、どちらがより克明くんの妻に相応しいかわかるじゃないか。私はお前を、立派な人間に育てたつもりだよ」
「立派なんてものじゃないわ」
 史子はあくまで強硬だった。頑なに、父親を否定し続けた。
「私は欠陥だらけよ。一人きりでは口答えどころか、お父様に耳を貸してもらうことさえ出来なかったんだから」
 ラウンジは水を打ったように静まり返る。
 父と娘は、静寂の中でしばらく睨み合っていた。

 早良は目の端で、自分の父親の顔を見る。
 志筑親子のやり取りを苦々しい表情で見守っている父親は、やはりこういう状況でしか自分の話を聞かないだろうと思う。皮肉なものだった。早良も史子もこうして追い込まれ、何かを強いられようとする段になってやっと、話を聞いてもらえるのだから。それは親子として正しい形なのだろうかと、空しく思う。
 だが一方で、こうも思う。自分も史子も大人らしく、親離れの時期を迎えたのだと。これからは胸を張り、敷かれたレールの上を外れて、先のわからない未来へ歩いていけるようになるのだと思う。
 これは、必要不可欠な反抗だ。自分たちにとっても、父親たちにとっても。

 静寂も睨み合いも、やがて一方的に打ち切られた。
 史子の父親が席を立つ。
「私は忙しいんだ。予定があるので、お先に失礼するよ」
 傲慢に言い放ち、一同をじろりと見下ろした。
「頭を冷やす時間が必要だろうな、克明くんも、史子もだ。どうするのが一番いいのか、少し考えればわかることだろうに」
 捨て台詞の後、視線を娘へと定める。史子は目を逸らさない。再び睨み合う格好となる。
「史子、お前も帰りなさい。こんな茶番劇に付き合うことはない」
「嫌です」
 きっぱりと史子が答え、父親は途端に鼻白んだ。
「史子!」
「――逃げるのでしたら、お父様お一人でどうぞ。私は前に進みます」
 挑発めいた発言は、自尊的な男を徹底的に打ちのめしたようだった。
 娘をも放り出し、史子の父親はラウンジを出て行く。憤然とした足取りで、一度もこちらを振り返らずに。

 父親の姿が見えなくなってから、史子は静かに嘆息していた。
 どこか寂しげに、早良には聞こえた。
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