Tiny garden

天頂引力(2)

 ラウンジの空気が変わったのは、それからしばらく経った後だった。

 早良の父親と史子の父親とは、五分の間を置いて現われた。早良と史子はそれを、表向きは丁重に出迎えた。早良の父親が二人の礼を聞いてもむっつりと仏頂面だったのに対し、史子の父親は面食らうほどの上機嫌さを見せた。対照的な二人の父親が、早良たちと同じテーブルに着く。
「聞き分けのない奴が、一体何を企んだのやら」
 そう言って、早良の父親が眉を顰めた。隣に腰掛けた史子の父親を見遣ってから、息子に対してぶつぶつと不満を並べる。
「志筑さんはお忙しい方なんだぞ。それをこんな風にお呼び立てして、失礼にも程がある。どうしてこんなやり方をした」
「すみません」
 詫びる気持ちはひとかけらも持てず、早良は応じる。
「ですがどうしても、四人でお話ししなくてはならないと思ったんです」
 ちらと史子へ目を向ければ、史子は俯きながらも僅かにだけ頷く。一対一では話さえ聞いてもらえない。だから四人で会う方が、少なくとも耳くらいは貸してもらえるはずだ――そう主張したのは彼女だった。早良もその意見に賛同して機会を設けた。父親の言葉通り、慌しいスケジュールの合間を縫った約束だった。時間はごく限られている。
「近頃のお前は、どうも直情的だな。スタンドプレーに過ぎる」
 父がぼやくのが聞こえる。文句を言わせる時間も惜しかった。
 早良はその言葉を遮ろうとしたが、
「いや、構いませんよ」
 先んじて、史子の父親がかぶりを振る。スーツの胸元にバッジを光らせた志筑議員は、早良の記憶にある通り、愛想のいい男だった。娘に対してもにこやかに笑んでみせる。それで史子が身を竦ませたのも、視界の隅に見えていた。
 早良の父親が歳相応の枯れた風貌であるのに対し、史子の父親は年齢以上に若く、活力に溢れているように見えた。顔の皺もまだ少なく、肌のつやもいい。その顔立ちが浮かべる笑みは、機嫌のよさ以上に満ち満ちた自信をうかがわせた。
「史子と克明くんのことについては、きちんと話し合いの場を設けて、はっきりさせておくべきだと思っていたのです。何せ娘の未来が掛かっていますからね……そうだろう、史子?」
 父親の問いにも史子は答えない。答えられないというのが実際のところのようだった。強張った面差しを横目に、早良は口を開く。
「お忙しいところ、本当にすみません。お越しいただけてうれしいです」
 言葉だけの礼を述べてから、更に切り出した。
「用件というのもお察しの通りです。志筑さんと二人で話し、確認したことを、きちんとお伝えしたいと思いました。聞いていただけますか」
 広いラウンジにて、埋まっているのはたった一つのテーブルだけ。和やかとは言えない空気がたちまち辺りを侵していく。笑んでいるのは一人だけで、後の三人はそれぞれ表情を硬くしている。
 早良も口元が引き攣るのを自覚していた。笑っているのは不可能だった。むしろ今すぐにでも奥歯を噛み締め、眉を吊り上げ、内心をぶちまけたい衝動に駆られていた。
 たった一人で笑んでいる史子の父親が、膝の上で十指を組む。
「もちろん、君たちの話も聞こうと思っているよ。しかし……」
 意味ありげに言葉を切った後、つい先程入ってきたラウンジの入り口へと目を向けた。つられるように視線を移し、そこに誰もいないことを早良は確かめた。
 穏やかな声が自ら語を継ぐ。
「この件については、我々四人だけで話し合うというのも適当ではないと思ってね。私の独断で、もう一人お呼びしている」
 もう一人。その言葉がすぐには理解出来ず、早良は目を瞬かせた。他には誰も呼んだ覚えなどない。この問題は四人だけで話し合うべき事柄だと思っていた。他に呼ぶあてもなかった。
 隣で史子も呆然としている。彼女も心当たりはないのだろう。
「お父様? もう一人って、どなたを……」
 覚束ない口調で娘が問うのを、父親はあくまでも笑んだまま受け止めた。
「もしかすると、お前は知らない方かもしれないね。――宮下あかりさんという、可愛らしいお嬢さんだ」

 反射的に、早良は立ち上がっていた。
 あかりの名前を史子の父親が口にしたことで、平静をすっかり失った。
「彼女を? どうしてですか!」
 張り上げた声がラウンジに響くと、真っ先に早良の父親が眉間の皺を深める。
「取り乱すんじゃない、克明。いいから座りなさい」
 諌める言葉は逆効果だった。かえって反抗心を煽られただけだった。早良は奥歯をぎりっと慣らし、父親を睨みつける。
「父さんが言い出したんですか」
「そうだ」
 首肯されるといてもたってもいられなくなった。ラウンジの入り口へと目を遣り、そこにあかりの姿がないことに安堵と苛立ちとをいっぺんに覚える。領域を踏み荒らされたことに、憤りよりも絶望感が先立っていた。
「君の秘書は有能だね、克明くん」
 史子の父親は、場の空気にそぐわない愛想よさで続けた。
 機械的に視線を戻した早良は、不気味なくらいの笑顔を見下ろす。
「君がどういうお嬢さんと付き合っているのか、素性から住所、今日の予定に至るまで全て調べ上げて、我々に報告してくれたよ。私が今日の予定を空けたのも、件のお嬢さんの都合がついたからだ。聞いたところによれば、随分と素直で、聞き分けのいいお嬢さんらしいじゃないか」
 温厚そうなトーンは罵声よりも鋭く、胸を抉ってくる。
「内田くんからは先程、連絡があったよ。宮下さんのところへ迎えに行って、彼女を車に乗せたそうだ。これからこちらへ向かうとのことだから、もう五分もすれば着くだろう」
 秘書の不快な顔が浮かんで、すぐに消えた。代わりにあかりの面差しが浮かび上がってくる。また、彼女を守れなかった。彼女のいる自分の領域を守れなかった。迂闊だったのだと思う。悔恨が込み上げてくる。
 電話を掛けても繋がらなかったのもそのせいだったのか。自らの迂闊さに吐き気がした。もっと早くに気付いていれば、彼女へ伸ばされた手を振り払えたかもしれないのに。代わりに手を差し伸べて、彼女を逃がしてやることだって出来たはずなのに。――それとも、不可能だっただろうか。早良のような若造では、老獪な男二人に対抗することなど出来なかったのだろうか。
「酷いわ、お父様。早良くんの大切な人にまでそんなことを」
 史子が抗議の声を上げると、その父親は目だけを娘へ動かした。
「お前は黙っていなさい」
 やんわりと遮り、再び早良を見上げてくる。立ち尽くしていた早良へと、憐れみを含んだ視線を向ける。
「誤解はしないでもらいたいな、克明くん。私は別に、彼女に手荒な真似をしようとしている訳じゃない。あくまでも穏便に、話し合いだけでことを収めようとしているだけだ」
 指を組み替えて、尚も穏やかに言葉を続ける。
「内田くんには説明を頼んでおいた。こちらへ到着するまでの車内で、宮下さんもある程度の事情は聞かされてくるだろう。君と史子が婚約する予定だということも、君たち二人の結婚がどれだけ君たちに利益のあることかということも、きちんと説明してくれるはずだ。彼は有能だからね」
 そうして短く息をついた。
「宮下さんも素直な、聞き分けのいいお嬢さんだと聞いているよ。そういう子なら、我々の話も聞いて、納得してくれることだろう。――君の家柄に目が眩んだということでなければね」
「彼女はそんな人ではありません」
 早良はとっさに言い返したものの、それだけ言うのがやっとだった。自分のことはさておいても、あかりを侮蔑の眼差しで見られるのは嫌だった。彼女はそういう人間ではない。しかし――。
 聞き分けのよさと素直さは、確かに持ち合わせている人間だった。
 あかりが内田から事情を聞いたら、一体どう思うだろう。早良に婚約する相手がいると知れば、早良のことをどう捉えていても、誤解を招かぬようにと距離を置きたがるかもしれない。ただでさえ気を遣うのが彼女だ。まして内田の偏った説明を聞けば、鵜呑みにして受け止めてしまうかもしれない。
 彼女と話がしたい、と思った。携帯電話を持っていないあかりと、現時点で連絡を取り合うことは不可能だったが、何とかして話がしたかった。だからと言って内田に電話を掛ける気にはならない。あの男は早良の味方にはならない。
 あかりに会いたかった。今すぐ、何もかもを擲ってでも飛び出していきたかった。彼女の元へ辿り着けたらその耳を塞いでしまって、自分の言葉だけ聞こえるようにしておきたかった。誰の言葉にも耳を傾けずにいて欲しかった。自分の言葉だけを信じて欲しいと思った。だがその願いも、今となってはどうにもならない。彼女は既に、早良の手が届かないところにいる。
「そんな人じゃないなら、かえって都合がいい」
 史子の父親はそう言い放ち、時計を見遣った。
「そろそろかな……」
 呟いた拍子、ラウンジの空気を切り裂いて、電話が鳴った。

 自分の電話であればいいと早良は願った。あかりからの連絡だったなら、と。
 現実にはそうではなく、電話に出たのは史子の父親だった。失礼、と短く言って立ち上がる。席を離れていこうとして、しかし立ち止まった。こちらを振り返り、少し意味ありげに笑った。
「――ああ、君か。こちらに着いたのかな」
 電話の向こうへ、史子の父親は穏やかな声で挨拶をする。
 内田からだろうと、早良も察した。あの秘書の顔は、最早憤りを伴ってしか浮かんでこない。
 いくつか言葉を交わした後、
「え? 何だって?」
 通話先に対し、史子の父親は怪訝そうに問い返す。
 僅かな間があり、また笑った。
「……そうか。まあ、そういうことなら仕方ない」
 何かが起こったようだった。早良は胸騒ぎがしたが、やはり何の手出しも出来ない。
 通話口を押さえた史子の父親が、そんな早良に向かって言った。
「克明くん、彼女のことだがね――こちらへ着く前に、急に車を降りると言い出して、いなくなってしまったそうだよ」
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