Tiny garden

天頂引力(1)

 七月のある日曜日。
 市街地に建つ高層ホテルの最上階、見晴らしのいいラウンジに早良はいた。
 唇を引き結んで、ただじっと時の流れるのを待っていた。

 音量を絞ったBGMの流れる空間は、史子が用意したとあって品がよく、落ち着いた雰囲気だった。四方に張り巡らされたガラス越しに、眩しい陽光が射し込んでいる。窓際に日向と日陰のくっきりとしたコントラストを作り出し、今の季節を強く意識させた。日向まで歩み出れば街並みが一望出来ると聞いたものの、早良も史子もそうはしなかった。片隅の席に二人揃って腰掛けたまま、視線を卓上に落とし、黙り込んでいた。
 評判のいいらしいこのラウンジは、今はがらんとしている。これからあと二人の来客がある他は、客が来るはずもなかった。早良と史子はその二人を待っている。
 その時を前に、早良はいささか緊張していた。仕事においては自信家の早良も、こと他人との接触は不得手としている。まして最も苦手な部類である手練手管の持ち主二人を相手にするのだから、神経を尖らせるのも無理はない。その上、こちらの手札は正攻法しかないと来ている。
 ちらと視線を動かせば、隣に座る史子の方が更に緊張しているようだった。いくらか血色の戻ってきた顔は、しかし不自然に強張り、引き攣っている。恐怖に怯えているようにも見えた。事実、今日は顔を合わせてからほとんど口を開いていない。いつもとは逆に、早良の方がぽつぽつと言葉を掛け、史子がそれにやっとのことで答える、というやり取りが続いていた。

「大丈夫か」
 早良がそっと尋ねる。他に人気のないラウンジでは、立てた物音はたちまち空間に吸い込まれていく。
 すぐに、史子は頷いた。ぎこちない動作だった。
「ええ、大丈夫……」
 とは言いながらも、到底平気そうではない様子だ。
「そうか」
 短く受けて、早良は眉根を寄せる。それから、どうしたものかと思いながら視線を他方へ巡らせた。広いラウンジは調度から照明、観葉植物の配置に至るまできれいに調和されていて、まるで自分たちだけが異質な存在のように感じられる。
 確かに異質なのかもしれない。早良は胸裏でふと呟く。そうして史子へと目を戻し、少し笑って言葉を掛けた。
「ここは雰囲気がいい。喧嘩の舞台にしては品がよすぎるだろうけどな」
 軽口に近い物言いに、史子も微かに笑んだ。
「そうね。気に入って貰えたならうれしいわ」
「気に入った。こんなところを借り切ってやり合おうっていうのも、きっと俺たちくらいのものだ」
 早良は首を竦める。その言葉を聞いて、もう一度史子は笑った。いくらか解れた表情で語を継いできた。
「本当に、早良くんは変わったわね」
「そうらしいな」
 素直に認めた早良を見て、史子も静かに頷く。
「すごく変わったわ。羨ましいくらいに強くなったみたい。今も、私なんかよりずっと余裕ありそうに見えるもの」
「さすがに、余裕があると言うほどじゃない」
 気懸かりがない訳ではなかった。史子と話し合い、互いの父親を招いて四人で話をすると決めてから、早良はずっと落ち着かぬ心持ちでいた。早良の父親も史子の父親も、特に異も唱えず誘いに乗ってきた。そのことがまず、不気味だった。
 あかりからの手紙を渡された夜以来、早良は父親とほとんど口を利いていない。今日の約束のことの他には全くと言っていいほど会話の機会を持たずにいた。父親は不機嫌そうにしていたが釘を刺すことすらせずにいて、かえって早良の警戒心を募らせた。そして内田は、あの秘書は、何事もなかったようなそぶりで働いている。――ざわつく胸中を静めつつ、早良は今日までをやり過ごしてきた。
 気に掛かるのはその二人のことばかりではない。あかりとも、あの日以来会話を交わしていなかった。彼女はどうしているだろうと思うと、やはり心がざわめいた。
 面差しが浮かぶと、会いたくなる。すぐにでも。その為にも乗り越えなくてはならないことがあるのもわかっている。
「今更、退く気はないからな」
 一つ息をつき、早良は語気を強めた。
「余裕はないし策もない。だからこそ、真正面からぶつかってやるまでだ」
 あの父親たちを相手に、下手な小細工は通用しないだろうと思う。早良は自らの若さを理解している。それならばひたすらに訴えていくよりないのだろう。嘘偽りない言葉で、望む未来を自ら宣言するより他は。
「君は、あれからお父さんと話したのか?」
 早良は史子に水を向けた。途端、史子の顔が硬さを取り戻す。
「いえ、今日のことだけよ。後は何も……聞いてくれなかったわ」
「そうなのか……」
 嘆息する早良に、史子はぽつりと続ける。
「私たち、本当の親子じゃないみたい。こんなことくらいで口も利いてもらえなくなるんですもの」
 呟きを拾った早良もまた、複雑な思いに唇を結んだ。何があろうと血を分けた父親だ。もし、どうしても受け入れてくれなかったら。早良の心をわかってはくれなかったら。許そうとしなかったら――その時は、捨てていかねばならないのだと、密かに考えていた。自分はきっと、どうしても失いたくない、心から欲するものを、手放す気にはならない。代わりに失わなければならないものは、全て捨てていく覚悟があった。早良という人間をこれまで築き上げてきたもの、それらを擲ってでも新しい、心の向かう先にあるものが欲しかった。
 彼女のことが。

 ラウンジにはまた沈黙が落ちた。
 ごく微音のクラシックは緊張感を駆り立てる。早良もそのことに気付いていて、何か切り出さねばと思っている。しかし迂闊な話題を口にすれば、史子は余計に緊張してしまうだろう。寝不足らしい顔を見ているのは、やはり辛かった。
 何か話すことはないかと考えを巡らせていると、
「ねえ。違う話をしても、いい?」
 史子の方から、慎重に持ちかけてきた。
「ああ、構わない」
 内心ほっとしつつ頷けば、史子はためらうそぶりを見せる。逡巡するように視線を泳がせて、溜息を一つ。その後で、意を決した様子で尋ねられた。
「早良くんの片想いの相手とは、その後どう?」
 実にストレートで、答えに詰まる内容だった。
 むしろ息を詰まらせた早良に、史子は慌てたように続けてくる。
「あ、別に、無理に答えなくてもいいのよ。ただ聞いてみたかっただけで……」
「興味本位か? 君も、趣味が悪いな」
 喘ぐように非難した早良。ラウンジの室温が確実に上がった。慌てるあまり、呼吸もまるで整わない。
 その様子を見てか、史子は開き直った様子で、
「そうなの。私、そういう話を聞くのが好きだから」
 と言うなりじりじりと膝を詰めてきた。急に明朗さを取り戻したようになって、こちらの顔を覗き込んでくる。
「ねえ、差し支えなければ教えて。彼女に、もう告白した?」
 問われて、早良は再度息を詰まらせる。言い当てられたことに狼狽して、思わず問い返した。
「どうして知ってるんだ?」
「え? 知ってた訳じゃないけど……本当にしたの?」
 史子の瞳が場違いに輝くのを見て、瞬間に早良は気付いた。――藪蛇だった。
 しかし察した時には既に遅く、好奇心を露わにした史子が迫ってきた。
「早良くん、何て言って告白したの?」
「いや、してない。したと決め付けないでくれ」
「でもさっきは、そういう反応だったじゃない。教えてくれない?」
「嫌だ」
「教えたくないってことは、じゃあやっぱり告白はしたのよね?」
「……想像に任せる」
 何を言っても蛇が出てくる、と早良は心の中でぼやいた。誤魔化すことすら出来ないとは、無策にも程がある。
「難しいわね。そういう早良くんってちっともイメージ出来ないから。年下の女の子に翻弄されてる、って感じなのかしら……」
 想像に任された格好の史子は、あれこれと巡らせていたようだ。やがて、ふふっと楽しそうに笑ってみせた。その笑い方も何とも、早良をうろたえさせるものだった。
「志筑さん、あんまりおかしな想像はしないでくれないか」
「想像していいって言ってくれたの、早良くんじゃない」
 さも当然、と言いたげな相手へ、居た堪れない思いで早良は強調する。
「言葉のあやだ」
「そう。じゃあ、これだけは教えて。……返事は何て?」
 史子は久し振りに満面の笑みを覗かせている。先程までの緊張感が吹き飛んでしまったようだった。
 早良自身も、重苦しい気負いを一時忘れていた。あかりのことを考えると幸せな気持ちになれた。まだ少し苦い味のする感情は、しかしそれよりもずっと強く、早良を支えている。
 だからだろうか。早良はあっさりと観念して、目を逸らしながら打ち明けた。
「返事は、まだ貰っていない」
「そうなの?」
「こっちのことが片付いたら、聞こうと思っている」
 今日までの原動力でもある。そう思って、早良は言った。あかりに答えを聞くまでは、立ち止まるつもりはなかった。
 答えを聞いた史子は、
「そう」
 ふと、柔らかい表情になった。
「じゃあ、今日は頑張りましょうね」
 それには、どうにか素直に答えられそうだった。
「……もちろんだ」
「私も、もう逃げないわ。早良くんには幸せになって欲しいもの」
 ちらり、決意の色を覗かせた史子が微笑む。
 早良も深く顎を引く。これから待つ時間に対し、場違いな気恥ずかしさを覚えながらも、心はとうに決まっていた。

 後は――出来れば、彼女の声を聞きたかった。
 早良を幸せな気持ちにし、史子をも明るくさせたあかりのことを、早良は朝からずっと考えていた。実は出掛けに電話を掛けていた。思いの丈を打ち明けて、返事も貰っていない状態で、気まずいことこの上なかったが、それでも声が聞きたかった。全て片付くまではと連絡を絶ってきたが、耐え切れなくなったのもある。父親たちとの『喧嘩』に臨むにあたって、景気づけに声を聞いておきたかったのもある。
 しかし、あかりは電話に出なかった。何度掛けても不在だった。日曜日、それも天気のいい午後だ、どこかへ出かけたのかもしれない。早良はそう思って、数回留守電のメッセージを聞いてから、彼女の声を聞くのを諦めた。
 それなら、本当に全て片付けてから、あかりの声も、返事も聞く。改めてそう決意した。原動力としては十分過ぎるほどに強い要素だった。
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