Tiny garden

ダスト・トレイル(9)

 宮下あかりが好きだと思う。
 強く、鮮烈な感情と、衝動で思う。
 堪らなく好きだった。行儀のよさも、ころころと変わる表情も、年頃の娘らしい仕種も、身のこなしの軽さも、朗らかさも、長い髪も、いい匂いのする身体も、全て。彼女のことで嫌なものや、疎ましく思う箇所は何もないだろうと思えた。
 彼女が欲しい、と思う。
 きっと何よりも必要なものだろう。早良が生きていくにあたって、早良が自身の望むような生き方をするにあたって、最も必要で大切なものだろう。彼女にいて欲しいし、彼女を守りたい。彼女を離さずに、このまま連れ出したい。早良のこの先に向かうところへ、どこへでも。
 可愛いと思う。いとおしいと思う。
 あかりは早良の腕の中で、今頃になって何か大事に気が付いたように、顔を伏せて身動ぎもしなくなっていた。顔を上げろと囁いても、震えながらかぶりを振るばかりだった。そうしながらも自分にしがみついている、肩に顔を埋めてくる彼女が可愛くて、いとおしくて堪らなかった。
 生まれて初めてのことだった。こんな感情を、それもいっぺんに、一人の人間に対して抱いたのは。経験がまるでないせいで、戸惑いもした。自ら否定もした。否定しきれないとわかるとあれこれ他の理由をつけたがり、酷く遠回りもしてしまった。
 だが、それらの感情を一括りにする言葉を知った今では、ためらう必要もなかった。

「君が好きだ」
 そっと告げた。
 あかりがしがみついてきたまま一向に面を上げようとしないので、結局その耳元に打ち明けた。
「君がいてくれて幸せなのは、俺の方だ。君に手を差し出せてうれしい。君に頼りにしてもらえてとてもうれしい。もっと甘えてくれたっていいくらいだ。君にずっと、傍にいてもらいたい」
 想いを口にするのは、意外にも容易かった。
 言いたいことを全て、淀みなく言ってしまえそうだった。
「だから遠慮はするな。これからもずっと、辛い時、苦しい時、困った時には俺を頼って欲しい。君が呼べば必ず駆けつける。飛んでいく」
 それだけの力が、この想いにはある。
 何よりも強く早良を動かしている。
「好きだ、あかり」
 彼女の名前を、初めての呼び方で口にした。いい名前だと思った。心の奥底にぽつりと灯った火のような、星空の片隅で瞬く一つの星のような、彼女の名前。
 彼女は、早良にも明かりを灯してくれたのかもしれない。初めのうちは辺りも照らせないほどに小さく、しかし少しずつ大きくなっていって、今は早良の心を動かしている。向かう方へと照らし出してくれている。
「え、あの、早良さん……」
 まだ顔を埋めたままのあかりが、くぐもった声を立てた。しばらく顔を見ていないような気がして、早良はぶっきらぼうに促す。
「顔を上げてくれないか」
「駄目です」
 すぐさま返事があった。
「と、とてもじゃないけどお見せ出来ません、だって」
「いいから」
「無理です、私」
 そこまで言って、あかりは激しく咳き込んだ。口元を手で押さえる代わり、早良にしがみついていた手が離れた。
 早良は腕を離さずに、彼女の背中をさすった。やがて収まり、恐る恐るといった様子で、彼女が顔を上げる。心なしか上気した頬と、潤んだ瞳とを視界に捉える。少し苦しそうだと思う。
 やがて、あかりが尋ねてきた。
「本当に、ですか」
「本当だ」
 深く、早良は頷く。
 それであかりは戸惑いがちに、尚も問いを重ねてきた。
「で、でも、いいんですか? 私、早良さんとは歳も離れてますし、未熟ですし、ホームシックで泣いちゃうくらいですし、顔だって普通ですし――」
「君がいい」
 遮るように言っても、彼女は狼狽を隠さない。
「だけど、私、子どもですよね? 早良さんから見たらずっと」
「そんなことはない」
 きっぱりと、早良は否定した。何度かの反省と後悔を踏まえて。
「……前はそんなことも言ったが、あれは、間違いだ。君は子どもじゃない。俺は、今はそう思ってる」
 あかりはあかりで、なかなかに頑固だった。
「いえ、早良さんのおっしゃる通りだと思います。私、すごく子どもっぽくて、全然大人になれてないです。早良さんに助けていただいてばかりです。それに甘えてばかりですし、まだまだ未熟で」
 乾いた唇がそうして紡いでいくのを見て、いっそそれごと言葉を遮れたらいいのにと早良は思う。そうすればきっと静かになる。彼女にも余計なことを言わせずに済む。だが、あかりは風邪がうつると慌てたように言うだろうし、あまりに無作法だろうから、結局、今はしないでおいた。
 物事には手順がある。早良も浮つきがちな感情のままでいる訳ではなく、まだ動かしようのない懸念だけは片隅に常にあった。それを解決してしまうまでは、答えを望むつもりもなかった。
 その代わり、必ず打ち砕くつもりでいた。懸念を振り払い、消し去ってしまって、それからもう一度あかりに告げよう。告げて、その時こそ返答を貰おうと思う。
「返事は、今じゃなくていい」
 まごつくあかりを見下ろし、早良は言った。
 あかりが目を瞬かせる。そして微かに息を呑む。
「君が少しでも考えてくれるって言うなら、急がせるつもりはない。いつでもいいから、じっくり考えて欲しい。後で、答えを聞きに来る」
 諭すように続けた。
 瞬きを繰り返しているあかりが、ぎくしゃくと頷く。
「……はい」
 かすれた声にもほっとした。
 早良は少し笑んで、彼女の肩を抱き直す。
「ただ一つだけ、今は返事が要らない代わりに、君に頼みがある」
「はい」
 今度は幾分か迅速に頷いた。あかりが真っ直ぐな視線を向けてくる。その視線を受け止めつつ、早良は言った。
「信じていて欲しい」
 そう告げた。
「俺は、本当のことを君に打ち明けた。君への気持ちに、一片の嘘も偽りもない。そのことだけは確かだと、君に信じていて欲しい」
 自分が信じてきたものを、彼女にも信じてもらいたい。
 早良はそう願った。
「君のことを好きでいる、俺の心は確かにある。君がどう思おうと、このままずっと守り続けるつもりでいる。だからそのことだけは信じていてもらいたい」
 確かなものがここにある。信じている。
 彼女にも信じて欲しかった。辛い時、迷った時に、確かなものがあるのだと思い出し、頼ってくれればいいと思う。
「俺のことで、もしかすると、おかしなことを吹き込もうとする人間がいるかもしれない」
 早良が言及すると、あかりはちょっと怪訝そうに小首を傾げてみせた。
 それも事実だった。だから、言わなくてはならない。
「俺の気持ちを打ち消そうとする人間がいる。俺の言葉を嘘だと言いたがる人間がいる。そういう人間がもし君の前に現われて、何か吹聴してきたとしても、君には俺の言葉を信じていて欲しい。他のものがどうあれ、俺の言葉は確かだと、そう思っていて欲しい」
 噛み締めるように、早良は告げた。
 あかりにそれを願ったように、自らも信じていたいと思う。
「……はい」
 腕の中で、あかりが顎を引いた。
 早良も頷きを返すと、名残を惜しみながらもゆっくり、腕を解いた。彼女を離した。時計を見る。日付の変わる頃だった。
 あかりはぺたんと腰を下ろし、しばらくぼんやりしていた。
 静まり返った室内に、冷蔵庫の低いモーター音が響く。

 早良が立ち上がったのは、日付が変わった直後のことだ。
 それを見たあかりは勢いよく顔を上げた。
「早良さん」
 先に名前を呼ばれて、何となく戸惑う。こちらから呼ぼうとしたところだった。早良は面映さを思い出した心境で応じる。
「どうした?」
 一方であかりは、一時気恥ずかしさを忘れたようだ。真剣な面持ちで言ってきた。
「また、来てくださいね。必ず」
 念を押す言葉に、早良はふと目を逸らす。次の機会は必ずある。そこでどんな返答を賜るのか、想像もつかなかった。いいようにも、悪いようにも想像出来なかった。
 しかし、すぐに視線を戻して答えた。
「ああ。必ず来る」
 いいように考えておきたい、と思う。これほどまでに彼女を欲しているのだから、意地でも、腕づくでも振り向かせてやりたいと思う。全て、懸念が片付いたら、その時は。
 そして安堵したらしいあかりの、乾いた唇をちらと見やって、言い添えた。
「だから君も、風邪を治しておくようにな」
 早良の視線に気付いたのか、それとも何かを察したのか、あかりは目に見えて頬を赤らめた。注視していなければわからないほどの動きで、小さく、小さく頷いてみせた。

 あかりの部屋を出て、帰途に着いた早良は、途中で一度だけ振り返った。
 彼女の部屋の窓が、淡い光を発しているのが見えた。
 真夜中の住宅街は窓の灯もまばらで、ぽつぽつと数えられるほどに点っているだけだった。遠くの空はまだ明々と、街の放つ光を受け止めているのに。
 ぽつんと見える彼女の部屋の灯を、早良は目を細めて見遣る。
 あれこそが、あの部屋にあるのが、自分にとっての明かりなのだと思う。街中のあちらこちらにある光の中で、たった一つ、彼女だけが。
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