Tiny garden

ダスト・トレイル(8)

 出迎えたあかりは、案じていたよりは元気そうだった。
 髪もきれいに結い、Tシャツにジャージといういでたちで、咳さえしていなければ普段通りの姿に見えていた。
「お久し振りです、早良さん」
 早良の顔を見て少し笑ってくれた。それだけでも早良はほっとする。

 招き入れられた室内もきちんと片付いていて、病人の部屋には見えなかった。相変わらず、いい匂いのする部屋だった。
「買ってきた」
 そう言ってコンビニの袋を差し出せば、中を覗きこんだあかりは目を瞠った。
「随分たくさん買ってきてくださったんですね。あ、他の物も……」
「風邪を引いた時は、スポーツドリンクがいいと言うからな」
 勧められた座布団の上に座りながら、早良は今更のように気恥ずかしさを覚える。
「それと栄養ドリンクと、消化によさそうな食料品も買ってきた。しっかり食べないと治るものも治らない」
「すみません。代金、お支払いします」
「いい。そんなつもりで買ってきたんじゃない」
 財布を出そうとしたあかりを遮る。彼女は早良の言葉に、気の引けたような顔をした。
「でも……こんなにたくさん買ってきていただいたのに」
「いいから。子どもが遠慮なんてするものでは――」
 言いかけて、早良は口を噤んだ。いつぞやの史子の注意を思い出し、言うべきでない発言を悔やむ。慌てて訂正した。
「君は、子どもじゃなかったな」
「……いえ、早良さんから見たら、きっとまだまだ子どもです」
 あかりは自らそう言うと、丁寧にお辞儀をした。
「あの、ありがとうございます。いただきます」
「そうしてくれ」
「いつか、お礼をさせてください」
「別にいい」
 早良がかぶりを振ると、あかりは小さく笑った。そしてコンビニの袋を掲げてみせる。
「アイスクリーム、早良さんも召し上がりませんか? うち、冷凍庫が小さくって……」
 言いにくそうなあかりと大きなレジ袋とを見比べて、どうやら買い過ぎたようだと早良は知った。あかりがどんなアイスクリームを好きなのかわからず、一揃い購入してきたのがまずかったようだ。

 あかりはバニラのアイスクリームを、実に美味しそうに食べていた。時々咳をしながらも、とてもうれしそうにしていた。そういえば、彼女は食べ物を美味しそうに食べる娘だったと、早良もしみじみ思い返す。チョコレートアイスで付き合いながら、果たして自分の食べている顔は、どんなものだろうなとも思う。
 彼女の目にはどう映っているのだろう。今、傍らでアイスクリームを食べている自分。冷凍庫に入り切らないほどのアイスクリームを買い込んできた自分。こんな時間に、全速力で彼女の元へ駆けつけた自分――。
 そこまで考えて、早良はふと時計を見た。もうすぐ十一時になる。バニラアイスを堪能しているあかりに視線を移し、さりげなく尋ねてみる。
「寝ていなくていいのか? 君は」
「平気です」
 あかりは、すかさずはにかみ笑いを浮かべた。
「今日はお昼過ぎからずっと寝ていて、ちっとも眠くないんです。明日は講義も遅い時間からですし、大丈夫です」
 その後で、逆に心配そうに問われた。
「早良さんこそ、お時間は大丈夫ですか? 明日はお仕事ですよね?」
「平気だ」
 短く、早良は答えた。同じように、ちっとも眠くはなかった。目の前にある懸案事項を片付けなければ、きっと明日の仕事も手につかない。
 彼女に話したいことがあった。たくさん、あった。
 まずは少しずつ、一つずつ、打ち明けていこうと思う。
「五月に貰った手紙を読んだ」
 スプーンを持つ手を一旦止めて、早良はそう切り出した。
 あかりの手も止まった。しきりに瞬きをしている。
「五月に、ですか? ええと……」
「君が二度目にくれた手紙だ。事情があって、読むのが遅れてしまった。今日まで俺の手元に届かなかったんだ」
 詳細については、言うべきかどうかを迷った。自分の父親のしでかしたことを、あかりの耳には入れたくなかった。今の彼女を不安がらせたくはなかった。
 いや、むしろ――他の人間のことを徹底的に排除して、今は自分だけを見ていて欲しい、と思った。それが最も強い感情だった。
「そうだったんですか……」
 あかりは眉尻を下げた。その後で、ふと思い出したような顔をする。途端に俯き、スプーンの動きを再開させながら、もごもごと呟く。
「あの、あの時の手紙って、私……ちょっと恥ずかしいこと書いてませんでしたか?」
 内容は当然、覚えている。タクシーの中で読んだ彼女からの手紙。
「どうだろうな。特に、問題はなかったように思うが」
 答えつつ、早良の方も何となく面映い。
 二人きりの部屋に、奇妙に気まずい沈黙が落ちた。直にあかりの咳によって、破られてしまったものの。
「とにかく、手紙を今日読んだ」
 早良も咳払いをしてから、話を戻す。
「返事を出せなくてすまなかった。不義理な奴だと思わなかったか?」
「そんなことありません。早良さんがお忙しいのはわかっていましたし、お返事いただきたかった訳でもないんです」
 あかりは強くかぶりを振った。咳き込みながら、頬を赤らめる。
「何と言うか、あの時は……早良さんがいてくださることがすごくうれしくて、つい浮ついた手紙を書いてしまったんです。私、あの頃はずっと、一人きりで不安ばかり抱えてましたから」
 言いながら、彼女はスプーンを置いた。見ると、アイスクリームを既に食べ終えていた。よほど食べたかったのかもしれない。
「食べるの、早いな」
「はい。ごちそうさまでした」
 手を合わせたあかりが、照れ笑いで続ける。
「うちは昔から、風邪を引いた時はアイスクリームなんです。父がわざわざ大きいのを買ってきてくれて、お皿にスプーンで、まあるく盛って食べるんです。それがうれしくって、風邪を引いた時はちょっと得した気分でいました」
 上郷にいた頃の思い出も、至って明るく語られた。早良は驚いたが、口は挟まずにいた。
「今日も、得した気分です。早良さんが来てくださったから」
「そうか」
 アイスを食べながら、相槌を打つ。チョコレートのアイスは甘かった。冷たさに目も覚めるようだった。
「以前と同じです。私が辛い時とか、困っている時に、早良さんのことを考えていると、早良さんが来てくださるんです。偶然なのにうれしくて、本当にうれしくて……」
 あかりの手が、胸の前できゅっと握り合わされた。
「ありがとうございます、早良さん。それとこの間は、ごめんなさい」
 睫毛を伏せる。
「私、こんなにお世話になってるのに、失礼なことを言ってしまってごめんなさい。あの時は、上郷のことを思い出して、つい泣きたくなってしまって」
 途中で少し、咳をした。それでも止めずに彼女は語を継ぐ。
「早良さんの前で泣くのは駄目って、思っていたんです。みっともないところをお見せしたくなかったですし、子どもっぽいところだって見せられないって。甘えてばかりいたらいつまで経っても恩返しが出来ないって思っていましたから、私、しっかりしていたかったんです」
 早良も、アイスクリームを食べ終えた。最後の一口は押し込むように食べた。スプーンを置く。小さなテーブル越しに彼女を見つめる。
 あかりは恥じ入る表情で語る。
「でも……酷いことを言った後で、間違ってることに気付きました。早良さんと一緒の時はホームシックとか、辛いこととか、忘れていられたんです。こっちに来てよかったって、一番強く思えたんです。それがどうしてかってことも考えないで、私、浅はかだったと思います」
 それがどうしてなのか、早良も知りたいと思う。ちょうど同じように思うことがあるからだ。あかりといる時は、彼女のことばかりを考えていて、他のものの入る余地がなかった。
「やっぱり、甘えてばかりはよくないって思ってます。それは今でも思います。私はもっとしっかりして、早良さんにちゃんとお礼をしたいです。だけど」
 彼女が視線を上げた。
 かちりと音のするように、目が合う。
「早良さんがいてくださることが、頼らせてくださることが、すごく幸せだとも思います。私、こうしていられるのも、全部早良さんのお蔭なんです。一人じゃないって思うから――」
 あかりの言葉が、直後に途切れた。
 咳き込んだせいではなかった。
 衝動的に早良が身を乗り出し、テーブル越しに腕を伸ばして、彼女の肩を抱いた。そのせいだろうと思われた。

 何が引き金だったのかはわからない。だが、そうしたいと思った。
 素直に、心の赴く方へと従って、早良は細い肩を抱き締めた。彼女の身体は、彼女の部屋と同じ、いい匂いがした。
「……早良さん」
 あかりがぼんやりと呟く。それからはっとしたように身を強張らせ、言ってきた。
「駄目です、あの、風邪がうつっちゃいます」
「平気だ。このくらいじゃうつらない」
 早良は答える。方便ではなく、この程度でうつる訳がないと思っていた。他に、うつるようなことをするならいざ知らず。
 二人の間を遮るテーブルが、邪魔だと思った。
 退けてしまえばいいとわかっていながらも、今はひたすら、こうして抱き締めている方がよかった。しばらくは離したくなかった。
「早良さん」
 再度、あかりが呟いた。
 彼女も強く、しがみついてくる。抱き締め返されて、早良の領域を取り囲んできた隔壁は、呆気なく崩れた。決壊した。

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