Tiny garden

ダスト・トレイル(7)

 その後、早良と史子はとあるささやかな計画を立てた。
 計画と呼ぶには巧妙さも、緻密さもないものだったが、二人の間に共通の目的と意識が生じたのは事実だった。その為に協力し合おうと、互いに誓った。
「早良くんの言う通り、策を弄したところで、勝てる相手じゃないものね」
 史子はいつになく強い口調で言った。
「だったら正攻法で、とことん主張するしかないのよね。やりましょう」
「ああ」
 早良も深く顎を引く。そして、珍しい殊勝さで言い添えた。
「ありがとう、志筑さん」
 結局、共闘という形になりそうだ。求めるものの形は違っても、目的は同じだった。早良にも、史子にも、自らの手で決める生き方が必要だった。その為の道は険しく、だからこそ同道する者の存在が何よりありがたい。
「こちらこそ、よ。私の為にすることでもあるんだから」
 すっかり明るさを取り戻した史子が、人好きのする笑みを浮かべる。気遣うようにそっと添えてきた。
「ただね、早良くん。――あなたの大切なお嬢さんのことは、ちゃんとフォローした方がいいと思う」
「……わかってる」
 気まずさと焦燥感に駆られつつ、早良は表情を引き締めた。それを見た史子も、ふと声を落としてみせた。
「この間の内田さんのこともあるから、用心して。早良くん、絶対に守ってあげてね。あなたの好きな人のこと」
 前にも口にした台詞を、史子はもう一度、言い含めるように繰り返す。
 早良も思う。既に早良の父親には、あかりの存在が知られている。必ず、必ず守り抜かなくてはならない、と思う。


 史子とは、バーを出て、ビルの前ですぐに別れた。
 気を利かせてくれたのかもしれない。去っていく彼女の背をちらと見やって、早良は携帯電話を取り出す。
 史子と話しているうちに、あかりへの想いは更に膨れ上がったような気がした。ちょうど鏡に映して初めて気付けることがあるように、いつになく、この上なく心が彼女を求めていた。彼女にこの間のことを詫び、その後で、もし叶うならば胸中を告げたいと思う。彼女が耳を傾けてくれるなら、だが。
 逡巡はほんの僅か、すぐに行動した。
 生温い風の吹く、静かな夏の夜だった。早良は街の灯に明らむ夜空を見上げながら、あかりを呼ぶコール音を聞く。二つ、三つと反復される音を聞く。ここ数日ですっかり聞き慣れてしまった苛立たしい音は、五度繰り返された後で留守番電話の応答に取って代わるはずだった。
 しかし――五度目に到達する直前、四回半のタイミングでぷつりと途絶えた。
 繋がった。
「あ……」
 繋がった。そのことに驚き、早良は思わず声を立てる。本当だろうか、本当に繋がったのかと確かめる前に、電話の向こうで声がした。
『もしもし』
 くぐもった、トーンの低い声だった。留守番電話の応答ではない。
 早良の声が詰まった。喉がごくりと鳴る。
『もしもし……? どちら様ですか?』
 あかりは、やけにしゃがれた声をしていた。もしかすると寝ていたのかもしれない。時刻は十時過ぎ、考えて掛けるべきだったかと早良は思わず悔やんだ。
 悔やんでる合間に、彼女の声が追い駆けてくる。
『まさか、早良さん……ですか?』
 彼女が早良を呼んできた。言い当てた。
 早良はもう一度喉を鳴らし、それから、
「ああ、そうだ」
 無愛想に、不器用に答えた。
 電話越しに息を呑む気配があった。
「あの……久し振り、というのもおかしいかもしれないが、その、電話に出てくれて、ありがとう」
 ぎこちなく、早良はそう切り出した。
「この間のことで、もう口を利いてもらえないかと思っていた。この間は、済まなかった」
『そんな、早良さん、私――』
 何か言いかけたあかりが、不意に言葉を途切れさせた。後に続いたのは声ではなく、激しい咳の連続だった。
 はっとする。
『あの、ご、ごめんなさい。ちょっと、待って、て』
 苦しげに急き込みながらも彼女が言ってくる。早良は血の気の引く思いで、彼女の咳が収まるのを待った。声はこんなにも近くに聞こえていながら、何もすることの出来ない自分がもどかしい。
『お、お待たせしました』
 しばらくして戻ってきたあかりは、やはり嗄れたような声をしていた。
「風邪を引いていたのか」
 即座に尋ねた早良に、微かな笑いが返ってくる。
『はい……。もう大分よくなったんですけど、ここ数日はずっと、横になってばかりでした』
「そうか……」
 こちらまで苦しい思いがした。知らず知らず、顔を顰めていた。
「どうして連絡をくれなかったんだ。一人きりでいたなら、病気の時は何かと大変だろう。大丈夫だったのか?」
 電話でもくれれば、すぐに飛んでいったのに。こんな時こそ頼りにして欲しかったのに。早良はそう思ったが、彼女の答えは実に申し訳なさそうだった。
『大丈夫、です。あの、それに私、早良さんに……』
 あかりがまた咳をする。今度は短く済んだ。すぐに語が継がれた。
『この間、酷いことを言ってしまいましたから。お詫びをするのが先で、これ以上頼るなんてこと、駄目です』
「そんなことはない。君は何も悪くない」
 悪いのは自分だと早良は思う。わざわざ上郷のことを思い出させて、無神経にも傷を抉り返してしまった。あれほどに不用意な発言もないだろう。
『私、ずっと、謝りたかったんです。早良さんがせっかく、たくさん親切にしてくださったのに』
「君のせいじゃない。謝るのは俺の方だ」
『でも私、私の方が』
 押し問答も長くは続かず、また咳に遮られてしまう。会話をするだけでも苦しそうだった。早良の罪悪感は余計に募って、つい慌てた口調になる。
「その、悪かった。この間の件もそうだが、こんな夜遅くに電話をして」
『いいえ、平気です。起きていました。私、夕方まではずっと寝ていたんです』
 あかりはそう答えると、おずおず問い返してきた。
『早良さん、さっきもお電話、くださいましたか? 私、寝惚けていて、出られなかったんです』
「……八時頃のことなら、確かに掛けた」
『やっぱり早良さんだったんですね。そうじゃないかと思っていました。出られなくて、ごめんなさい』
 一つ息をつくのが聞こえ、また、彼女が続ける。
『もしかして、昨日も掛けてくださいましたか?』
「ああ」
『一昨日も、ですよね?』
「ここ数日は何度か掛けた。君は? ずっと、体調を崩していたのか?」
『はい。ここのところはずっと、でした。本当にごめんなさい』
 心底から詫びる声が、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。それは嗄れて、苦しそうにはしていたが、早良を得心させる言葉だった。
『そうじゃないかって思ってたんです。横になって、うとうとしている時に電話が鳴っているのを聞いて、その度に、絶対に早良さんからだって思ってたんです。だけど、申し訳なくて、電話に出られなくて……早良さんに、治ってからまずお詫びをしようと思っていました。こんな声を聞かせたら、また心配をお掛けしてしまうでしょうから』
 それで連絡がつかなかったのか。拒まれていた訳ではないことに、早良は多少安堵した。しかし彼女自身の言う通り、心配もした。
 あかりは申し訳なさに出られなかった、と言ったが――実は体調が思わしくないせいで、電話に出られなかったのではないだろうか。今は明るい口調でいたが、連絡が取れなかった間は、彼女の方が辛い思いをしていたのかもしれない。
「こんなことをされたらかえって心配になる。気を遣わなくていいから、連絡して欲しかった。俺はいつでも飛んでいったのに」
『はい……ありがとうございます』
 あかりがまた、ごく小さな笑声を立てた。
『私も本当は、早良さんとお話したかったんです。こんな状態じゃお会いすることもできませんから治ってからにしようって思ってたのに、一人で寝ていたら寂しくなって、早良さんの声が聞きたくなって。今日はつい、電話に出ちゃいました』
 携帯電話を手に、早良は目を瞬かせる。
「俺からの電話だって、わかったのか」
『はい。何となく、ですけど。前にもこんな風に、早良さんに助けていただいたことがありましたから』
 はにかむ口調はどこか子どもじみていて、甘えたようにも聞こえた。
『まるで、早良さんとお話したいって思った、私の願いを聞き届けてくださったみたいで……偶然でしょうけど、うれしかったです』
 偶然ではなかった。早良にはわかる。
 声を聞きたがっていたのは、話をしたいと思っていたのは、ずっと自分の方だった。彼女も同じように思っていて、お互いに同じ思いを抱いていて、心の中で呼び合っていた。偶然ではないはずだった。思いが繋がったのも当然のことだ。
 繋がった思いは何よりも強く、心そのものを動かした。
 早良はとっさに告げていた。
「今から、会いに行ってもいいか」
『えっ?』
 あかりの驚く声に、そういえばと思い出す。今は夜の十時過ぎ、時間が時間だ。病人相手でなくても、若い娘の部屋へ押しかけるにはいささか問題がある時刻だった。
「その、迷惑じゃなければ……いや、君が何か、必要なものでもあるなら、だ。具合が悪ければろくに外にも出られなかっただろうし、何か入り用の物があるなら買って、持っていく。見舞いに行きたいだけだ、君の顔を見たくて」
 たどたどしい物言いになりながら、まくし立てる。あかりが答えに困っているようなので、更に付け足した。
「ああ、別に今日じゃなくてもいい。明日の夜にでも、君さえよければ行くから、都合のいい時を教えてくれ」
 いつでもいいのだと思う。彼女に会えるのなら。彼女の声が聞けるのなら。ここ数日は常に、そう願い続けてきたのだから、今すぐでなくてもよかった。
『本当に、来てくださるんですか?』
 あかりが、確かめるように尋ねてきた。
 早良は、見えもしないのに頷く。
「もちろんだ」
『でも、風邪、うつっちゃいませんか?』
「そんなことは気にしなくていい」
『気にします。早良さんが風邪を引いてしまわれたら、私、お見舞いに行きますから』
 勢いよく言って、あかりはまた咳をする。早良は呆れて肩を竦めた。
「いいから、君は自分の風邪を治してくれ。それで……いつなら、行っても構わない?」
 一瞬の間があって、彼女が答える。
『今でも、いいですよ』
「本当に?」
『はい。早良さんのお時間がよろしければ、お会いしたいです。何のお構いも出来ませんけど』
「病人は気を遣わなくていい」
 早良は嘆息した。呆れ少々、大部分は安堵の溜息だった。
 そして尋ねた。
「何か買っていく。必要なものは?」
『いえ、大丈夫です。お気遣いなく』
「そう言うな、何かあるだろう。買い物には出ていたのか?」
『……いいえ』
 やっぱりか、と思う早良に、しばし逡巡していたらしいあかりは、やがて遠慮がちに申し出た。
『じゃあ、あの、私、アイスクリームが食べたいです』
「わかった」
 早良は少し笑って応じた。今の表情は、彼女には見せられないなと思う。

 電話を切ってすぐ、早良は近くのコンビニに立ち寄った。
 注文通りのアイスクリームと、それから経験則に基づいてスポーツドリンクを購入した。栄養ドリンクも買ってはみたが、彼女の口に合うだろうかと後で思った。もし合わなければ持って帰るまでだ。後は病人食らしくうどんと、レトルトのおかゆと――気が付けばやけに大荷物になっていた。
 買い物を終えると、全速力であかりの部屋を目指した。
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