Tiny garden

透明度は低く(4)

 その日は会話が弾んでいた。
 帰りの車の中で、運転席と後部座席で、二人は他愛ない話を続けた。

「知らないお店に入るの、苦手なんです」
 あかりはまだ、その話題を続けていた。苦笑いを浮かべながら言葉を継ぐ。
「この間、一人でお洋服を見に行ったんですけど、素敵なお店だなあと思って入ったら、実は美容室だったんです」
「へえ」
 ハンドルを握る早良が笑う。遠慮もせず、気を遣うこともせずに笑っていた。
「すごくおしゃれな外観だったんです。服も飾ってあったんですよ、後で聞いたら、それは単なる飾りだったんですって」
 あかりの方も、笑われることを嫌がっていないらしい。気に留めた風もなく、むしろ楽しげに話す。
「だから私、てっきり服屋さんだと思って入っちゃったんですけど、そうしたら中は鏡がたくさんあって、お店の人がたくさんいて、ハサミやドライヤーを持ったまま一斉に振り返って『いらっしゃいませ』って言うんですもん。私、びっくりしちゃいました」
「それは驚くな。どうやって切り抜けたんだ?」
「はい、正直にお話ししました。間違えて入っちゃったんですって言ったら、優しい美容師さんたちで、『今度は髪を切りに来てね』ってクーポン券をくれたんです」
 後部座席にころころと笑う声が響く。
 すっかりそこが彼女の定位置になってしまったようだ。早良がバックミラーでその表情をうかがうのも、まるで当たり前になっていた。
「こっちは、きれいでおしゃれなお店がたくさんあって、見ているだけならとっても楽しいんですけどね。何かうっかり失敗しちゃいそうで、なかなかお買い物が出来ません」
 あかりはそう言って、ブラウスから伸びるほっそりした首を竦めた。
「お蔭でこっちに来てからほとんどお買い物をしていません。無駄遣いをしないのはいいことかもしれませんけど、何だかいつまでもおのぼりさんって感じですよね」
「可愛くていいじゃないか」
 何気ない調子で応じてから、ふと早良は口を閉ざした。直前の発言の軽率さに気付いて、無性に気持ちが逸り出す。普段よりもはしゃいでいるあかりにつられてか、つい大それた発言をしてしまったような気がした。
 とっさにバックミラーを覗く。あかりはまだ笑っている。
「そう言っていただけるとうれしいんですけどね」
 彼女の調子もごく軽い。それでほっと胸を撫で下ろした。
 珍しく会話が弾んでいるのはいいが、口が滑り易い夜でもあった。

 ――珍しく、というほど、そもそも一緒にいたことのない二人だった。
 早良が仕事以外であかりと会ったのはたったの四回。そのうち二回は偶然の出会いで、残る二回も食事に誘っただけの間柄だ。今日はデートという名目こそあったものの、結局は食事が終われば部屋まで送り届けることが決まっていた。
 そもそも自発的にデートの予定など立てた経験のない早良は、他人との外出は用が済めばそれで終わり、という意識しか持ち合わせていない。食事が終わったらその後はどうすればいいのかわからない。直ちに家まで送らなければ失礼ではないのかとすら思っている。まだ一緒にいたい、という気持ちはあっても、何となくこの時間を終わらせたくないという気持ちがあっても、どうすれば不躾でないように願いが叶うのかがわからない。そういう話を他人としたこともないから、知識の程も知れたものだった。
 そういう話も、史子に聞けばいいのかもしれない。早良は漠然と付き合いの長い知人の顔を思い浮かべ、しかしすぐに追い払った。この間のようにからかわれるに決まっているから、やはり聞けるはずがない。おとなしく温厚そうに見えた史子の冷やかしようは、不慣れな早良の心を容易く掻き乱してしまう。バックミラー越しにあかりの姿を見る度、史子の言葉が脳裏を過ぎり、落ち着かない気分になる。
 ――早良くん、そうは言ってもね。子ども扱いされて喜ぶ女の子ってあまりいないと思うの。
 濡れた窓を透かした光が、一定の間隔で流れていく車内。光が射しても、薄暗い中でも、あかりの表情はあどけなく見えている。彼女を子ども扱いしないのは、今の早良には難しいことだった。
 それでも、どうせなら喜ばせる方がいい。そうも思う。

「ところで、君は」
 思いつき、早良は口を開いた。
「どういう服を着るのが好きなんだ?」
 尋ねてみた。
「服、ですか?」
 あかりはきょとんとして、質問の意味を反芻するように唇を閉ざす。口元に手を当ててしばらく、考え込んでいたようだ。
 早良が焦れ始めた頃に、答えは返ってきた。
「ええと……やっぱり、着るなら動き易い服が好きです」
「動き易い服?」
「はい。どこへでもすぐに走っていけるような、身軽な服が好きです。子どもっぽいのかもしれませんけど、気付けばそういう服ばかり着ています」
 今日も変わらず身軽な格好のあかりは、確かにそういう服が似合うのかもしれない。今日のいでたちもさっぱりとしていて、少女らしさをより引き立てている。
 しかし服装を替えれば、また違ったようにも見えるはずだった。以前のスーツも初々しく見えていたが、例えばもっと違うものでもいい。
「早良さんは、どういう服がお好きなんですか」
 逆に、あかりの方が尋ねてきた。
 ちょうどそれを思い浮かべていたところで、すぐに答えられた。言葉にする時はさすがに面映かったが、今日の車内の空気がそっと背を押してきた。
「そうだな。――ワンピースなんてどうだろう」
 早良の胸裏にあったのは、白いワンピースだった。丈が長く、裾がふわりと広がるワンピース。日焼けしたポニーテールの少女よりも、少し大人びた顔をして、髪を下ろしている妙齢の女性の方が似合うような。それを着てあの上郷の丘を駆け上がってくる彼女を想像し、本人がすぐ傍にいるにもかかわらず、早良はうろたえた。
 しかし直後、更に狼狽することとなった。
「えっ?」
 目を瞠ったあかりは、笑いを堪えているらしい震えた声で、
「早良さん、ワンピースなんて着るんですか?」
 と問い返してきた。
 フロントガラスには、やはり瞠目した自分の顔が反射している。
「え? 俺が?」
「そうです。今、ワンピースっておっしゃいましたよね?」
「いや、言いはしたが……俺の、着る物の話だったのか」
「はい、そうでした。何のことだとお思いでしたか?」
 おかしそうに笑い出すあかりを見て、早良はようやく気付いた。彼女の問いはあくまで早良の趣味に対してのものであって、早良の思ったような答えを求めていた訳ではなかったらしい。一方、早良がどういう意図で答えたのかは言わずもがなだ。
「あ、それは……その」
 弁解しようとしたが、運転しながらでは上手い言い訳も浮かばない。
 あかりはと言えば、お腹を抱えて笑い転げていた。
「そんなに笑わなくてもいいじゃないか」
 つい、むっとした早良がぼやくと、まだ笑い声の返事があった。
「ごめんなさい、でも、早良さんがワンピースを着たところ、想像したらおかしくって……!」
 それは確かに滑稽なことだろう。しかし、だからって勝手に想像することもないのに――反論しかけて、早良は何も言えなくなる。
 何せ、勝手に想像していたのはお互い様だった。あかり一人を責められるはずがない。それを言うなら、想像したことを本人にも隠している人間の方が余程性質が悪い。

 服を贈るのは、失礼に当たるだろうか、と思っていた。
 例えば、服がないからと行く店を限定しなければならないのが面倒だからとか、服一枚買うのにも難儀するくらいこちらの生活に慣れていないようだからとか、大学生だというのに『大人っぽい』格好もしていない彼女をもったいないと思ったからだとか、理由はいくらでもあった。或いはもっと単純に、何かプレゼントをしたくなったから、というのもある。デートの際に、相手に物を贈るのはおかしなことではない。あかりの好きそうな映画にもよくあることだろう。
 ただ、身に着けるものは選ぶのが難しいと聞くから、それこそ史子に聞いてみなければいけないとも思う。きっとからかわれるだろうし、あれこれ詮索もされるだろうが、自分の力だけではどうにもならないのだから仕方がない。そうしたいと望むことを、すぐに叶えられないというのは実に歯痒く、じれったいものだった。
 それでも、贈りたかった。
 いや、もっと言えば、着せてみたいだけだ。次のデートの時にはその服でと言って、次の約束とデートの行き先と、いつもと違う装いに着飾った彼女とを手に入れたいだけだった。そうして繋がり続けたいと思う。次の約束が、頭を悩ませず自然に出来るほどにこの先も繋がっていたいと思う。いつまでもいつまでも、彼女といられる時間が続けばいい、と思う。
 器用なやり方ではなかった。それも承知の上で、早良は正直になろうとしていた。

 あかりはまだ笑い続けている。
 つられて笑いそうになりながらも、早良はそれを顔に出さないように努めた。正直になろうとしていてもやはり、どうしても、面映かった。だから大人らしくあろうとして、むっつりとした表情を作っていた。
 その上で、話題も逸らそうとした。子どもに対する大人らしく。
「そういえばこの間、仕事で上郷に行った」
 およそ器用なやり方ではなかった。
 早良は器用ではなく、そして、
「雄輝くんと会ったよ。君のことを心配していた」
 決して敏い方でもなかった。
 その時に限って、バックミラーを覗き込もうとしなかった。
 後部座席にいる彼女の表情を、見なかった。

 車の外は雨。まだ降り続いている。
 誰かがそっと息を呑んだとしても、聞こえないはずだった。
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