Tiny garden

透明度は低く(3)

 数日前に史子から受け取ったメールには、こうあった。
『静かで品のいい、けれど気取らずに済むお店です。アルコール類の取り扱いもありますがメインではなく、お食事だけを楽しむお客さんの方が多いようです。デートスポットとして人気があるようなので、予約を入れておくことをお勧めします』
 それこそガイドブックのような文体で記されたメールに目を通し、早良は複雑な思いを抱く。ごく丁寧な文章が、逆にからかわれているような印象を与えてくる。先日、散々冷やかされたからだろうか。史子からのメールを見ただけで落ち着かない気分になった。
 大体、こちらはデートスポットなど聞いた覚えもないのに――胸裏でぼやきかけて、胸裏で口を噤む羽目となった。史子には話していないが、あかりに対してははっきりと言ってしまったはずだ。恋愛話には目の肥えているらしい史子は、早良の話した内容から、早良があかりへと抱く感情を察したのかもしれない。少なくともあかりが早良にとって、デートに誘う可能性もある対象だと、見抜いたのかもしれない。

 そんな早良の胸中をよそに、紹介された店は評価に違わぬ雰囲気のよさで、あかりの表情をも輝かせた。
「きれいなお店ですね、外国のお屋敷みたい」
 間接照明の生かされた柔らかい光の中、適度に間隔の開いたテーブルはほとんどが埋まっていた。やや年齢の高い家族連れか、或いは史子の言ったとおり、カップルが多いようだった。騒がしさもなく、かといって気の引き締まるような静けさもなく、実に和やかな空気に満ちていた。
 注文は早良が引き受けた。あかりはイタリアンレストランも初めてだったらしく、カタカナとイタリア語で綴られた料理名のいくつかに、目を瞬かせていた。
「本当に外国に来たみたい」
 ぽかんとして呟く彼女に、早良は笑いながらフォローを入れる。
「大丈夫、ウェイターは日本人だ。日本語が通じれば何とかなる」
 あまり上手とは言えないフォローだったが、それでもあかりは笑声を零した。
「そうですよね」
 結局、コース料理を頼んだ。気楽な店らしくコース料理には予約が要らないらしい。手慣れた様子で注文を終えた早良を、あかりは瞬きを繰り返して見つめていた。

「早良さんって、外食をされることが多いんでしたよね」
 食事が運ばれてきて、しばらくしてからあかりが切り出した。
 外国の料理でも、食事自体はあかりの口に合ったようだ。しきりにメニュー名を尋ねてきては早良の答えを聞き、そしてその度に何やら感嘆していた。初めての料理にいちいち感動し、喜んでみせるそぶりが、早良にはやけに新鮮だった。
「知らないお店に入るの、お得意なんですか?」
 感動が一段落したからだろうか、彼女の問いはいささか唐突だった。
「得意ということはないな」
 早良は笑いを堪えるのに苦労した。あかりの方はいたって真面目に質問しているつもりらしい。にもかかわらず、その物言いが無性におかしくて仕方がなかった。あどけない問いだ、と心の片隅で思う。
「仕事の付き合いで行く機会が多いから、初めての店へ行くことには慣れているのかもしれない。この店も初めてだ」
「そうは見えませんでした。とても堂々としていらっしゃって」
 率直な誉め言葉に、早良はまた笑いそうになる。慌てて咳払いで誤魔化した。
「君は苦手なのか?」
 すぐに問い返してみる。
 あかりが返してきたのは、困ったような微笑だった。
「そうなんです。私、知らないお店に入るのって緊張しちゃって……こっちはきれいなお店が多いから、そう思ってしまうのかもしれませんけど、何か間違いでもあったらどうしようって思っちゃうんです」
「そんなこと、考えなくてもいい。店に入った時は君がお客さんなんだから、好きなように振る舞えばいいじゃないか」
 早良はそう思う。それは早良だけの認識ではなく、客として対価を支払う上での世間一般での常識だと思っている。
 しかしあかりははにかんで、
「でも私、どうせならいいお客さんになりたいって思っちゃうんです。お店の人を困らせたり、悩ませたりしないようにしたいって」
 と答えた。
 気を遣う、彼女らしい答えだった。
 恐らく、実家が旅館であることも影響しているのだろう。あかりはその目で、やってくる様々な客を見てきているはずだ。いい客もよくない客も目の当たりにしているはずだ。だからこそ、よその店を訪れる時にはいい客でありたいと、そう思うのだろう。
「じゃあ、聞かせてくれるか」
 好奇心を抑え切れずに早良は問う。
「君の思う、『いいお客さん』とは? 是非君の考えを教えて欲しい」
「私の、ですか? ええと……」
 それであかりも、素直に答えを考え始めたようだ。食事の手を止め、眉根をきゅっと寄せる。ゆっくり思いを巡らせているのが、宙を泳ぐ瞳の動きでわかる。早良はその姿を、同じように手を止めて見つめていた。
 しばらくして、答えを導き出したらしい彼女は、こう言った。
「例えば、こういうレストランだったら、出てきたお食事を美味しい美味しいって、うれしそうに食べてくれる人だと思います」
「――なるほど」
 腑に落ちる思いで、早良も顎を引く。
「それと」
 と、後に照れ笑いが続いた。
「やっぱり、お料理を美味しいと思ってくださったり、いい店だと思ってくださったなら、そのことを広く――他の方々にも話してくださって、お店のことを広めてくださるお客さんが、いいなと思います」
「宣伝してくれるような客ってことか」
 早良が堪えられずに笑ったせいか、あかりはぱっと頬を赤らめた。
「はい、でも……ちょっとちゃっかりしてますね、今の意見」
「いや、そうでもない。というより、どこの店も本音はそうだろう。いい評判を広めてくれる客の存在はありがたいものだから」
「早良さんもそうお思いですか。よかった……」
 今度は胸を撫で下ろしている。相変わらず、くるくると表情の変わる娘だった。
 出会った日のことをふと思い出し、早良の心がざわめいた。あの日からあまり変わっていないようにも、少し変わったようにも見える、彼女。あの日の上郷の風景は、ついこの間訪れた時の記憶と重なり、輪郭と色彩ののはっきりした情景として浮かび上がってくる。
 上郷のことを考えている。早良はそう察していた。あかりは今の話を、過疎に悩む故郷に重ね合わせて考えているに違いない。
 察したからこそ、切り出した。
「上郷も、そういう客が増えるともっと賑やかになる」
 故郷の名前を聞いた、あかりの瞳が瞬いた。一瞬強張った表情は、すぐに真剣なものへと取って代わる。
「はい」
 力強い頷きが返る。
 早良も控えめに笑んで、続けた。
「いい評判を広めることさえ出来れば、あの村には必ず人が来る。人を惹きつけるだけの魅力はあるんだ。ただその魅力をちゃんと見つけてくれる人がいないだけだ。見つけてもらう機会さえ設ければ。その機会に、新しい公民館は、必ずなり得ると思う」
 自分もとうにその一人だ。早良にはその自覚があった。今まで誰にも話したことはなかったが、あの村に惹かれているのは事実だった。上郷の為に、あの美しい村の為に何かしようと思い、一層仕事に打ち込もうと思った。努力はもうじき実を結ぼうとしている。早良だけではなく、上郷を思い、惹きつけられている人々の願いを乗せて。
 そこに彼女も、あかりもいてくれたらいいと思う。どんなにいいだろうと思う。丘の上に完成した新しい公民館から、上郷の星空を見られたら。名高いペルセウス座流星群を共に眺められたら――そこまで考えると、何か大それた、自分らしからぬ願いのような気がして、早良の心はたちまち萎んでしまうのだが。いつの間に、そこまで願うほど、彼女を近しい人間として認めたのだろう。そんなつもりはないはずだった。恐らくは、まだ。
 早良の内心はやはり知らない、あかりは少女らしく笑んでいた。
「私もそう思います。私、そういう仕事をしたいんです。早良さんみたいに、上郷の為になるような仕事がしたくて」
 そう言った後で、しかし何かが彼女の心をも萎ませたのだろう。僅かに影の差す表情で続けた。
「今の私には、大それた夢ですけど……今のままじゃ到底無理ですけど、でも頑張りたいんです」
 近頃は故郷のことを、あまり話さなくなった彼女。ホームシックは解消されたのだと思っていたが、他にも悩みがあるのかもしれなかった。早良の与り知らないことではあるものの、あかりのそういう表情を見ているのは気になった。
 突っ込んで尋ねる気にはならない。若いうちは悩みもつきものだろうし、人付き合いの下手な早良には、まだ境界線を踏み越えていくタイミングが計れずにいる。余計なことを言って、かえって傷口を広げ、あかりの表情を更に曇らせるのは嫌だった。
 だから、とっさにこう言った。
「それなら、大丈夫だ。君には才能がある」
 どうせ下手なフォローにしかならないとわかっていても、言わずにはいられなかった。
「君は食事を、とても美味しそうに、うれしそうに食べる人だからな。俺も食べさせがいがあるし、店の人だって君みたいなお客さんはありがたいだろう。君の言う、いいお客さんの条件を、半分は満たしている」
 言ってから、思った。――これをありのまま志筑史子に打ち明けたら、厳重注意を食らうだろう。およそ年頃の娘に対する誉め言葉ではない。微妙な年頃の少女に告げていい言葉ではない。場合によっては相手を傷つける、大変失礼な言葉でもある。
 事実、あかりは紅潮した顔で、恥じ入るように俯いた。
「あの、恥ずかしいです。何だか私って、食欲だけは一人前って感じですよね」
 目の前で赤面されると、いよいよ早良も反応に困った。なぜか自分まで面映くなる。それどころではないというのに、あかりの仕種のあどけなさが脳裏にちらつき、離れなくなる。それでますます後に続く言葉が浮かばず、結局は。
 とりあえず、率直に告げた。
「誉めてるんだ」
 到底上手いフォローではなかった。
 それでもあかりは、史子が懸念する方面においては、さほど繊細ではないらしい。やがて表情を和らげ、おかしそうにしながら言った。
「わかっています。早良さんが誉めてくださってるって、ちゃんとわかりました」
「――そうか」
 早良は表向きは平静に、内心では非常に安堵しながら応じた。

 終始そんな調子だったから、だろう。早良は気付かなかった。
 あかりが、今日はまだ家族の話をしていないことに。
 家族思いのはずの彼女が、今夜は一言も家族のことを口にしていない事実に、全く気が付かなかった。
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