Tiny garden

透明度は低く(5)

 早良は言葉を続けた。
「彼は少し、大人になったようだったな」
 記憶には、先日会ったばかりの雄輝の面差しが残っていた。それ以前の古い記憶の中ではひたすらあどけなかった彼も、少し会わないうちに変化を遂げていたようだった。それは顔立ちよりも表情や、声や、言動に表れている。姉を気遣う台詞を第三者に対して告げてきたのには驚かされた。
 大人になることがよいことなのか、早良にはわからない。よいことだとしてもそうではないとしても、成長を止めることが出来ないのは知っている。誰もが少なからず何かを失い、何かを摩滅させ、また何かを手に入れていくものだと知っている。早良はただ、それらが全て顕著だっただけだ。
 過程で多くのものを失った身としては、雄輝も、あかりも、同じ轍を踏まなければいいと思う。こんな人間になってはいけないと、自嘲を込めてそう思う。
「君のことを心配していた」
 だからだろうか、雄輝のことを口にし始めた途端、声音が柔らかくなったことに自ら気付いた。らしくもなく、ごく優しい語調で早良は語る。
「新しい公民館の前で会ったんだ。――ああ、君にはまだ話していなかったな。丘の上の公民館、覚えているだろう。ありがたいことに工事も順調で、もう大分出来てきている。流星群の季節には間に合いそうだ」
 話しながら、あかりの表情を見る気にはなれない。奇妙に照れた。まるで自分が自分のようではなく、はしゃいでいるみたいな、浮ついた気分になっているようで気恥ずかしい。嬉々として報告することがろくにある訳でもないのに。
「そこで彼に会った。いくつか、話もしたよ。君のことばかりだった」
 あくまでも、そうなったのは雄輝のせいだと思いたかった。彼はあかりの弟だから、姉を心配するのも当然だ。そして早良はあかりと同じ街に暮らしているのだから、何かあったらと頼まれるのも当然のはずだった。言い訳がましく並べた言葉を口にしないように気を遣った。いつでも早良のあかりに対する気配りは、見当外れなことこの上なかった。
「変声期なんだろうな。声が違っていた」
 そう言って、自分の時はいつ頃だったかと思いを巡らせてみる。しかしすぐに、どうでもいいことだと思い直した。彼女が聞きたがっているのは自分の話ではなく、雄輝少年や上郷の話に違いなかった。早良のことを話したところで興味を引くこともできないだろう。
「君は、俺とこっちで会ったことを話していたんだな。彼に言われて驚いた。また何かあったら頼むと言われた」
 淡々と話しながら、ふと早良は疑問を抱く。
 彼女の興味を引くと思い、続けてきた話題だったが――反応が一向にない。気付けば彼女は一言も口を利いていなかった。相槌も打たず、笑うこともせず、雨の音より静かに黙りこくっている。
 どうかしたのか。そう思って早良は、バックミラーを久方ぶりに覗いた。
 と同時に聞こえた。
「……う」
 しゃくり上げる彼女の声。
 声というより、ただの嗚咽だった。

 バックミラーにはあかりの顔が映っている。後部座席で身動ぎもしない、彼女の姿を映している。暗がりの中では行儀よく座っているだけに見えるのに、そうではないと空気で察してしまう。
 対向車線の車がお節介を焼いて、彼女の今の表情を明々と照らしていく。紙のように白いその頬に、涙が伝っていた。一滴、二滴という段階では最早なく、止めどなく流れ落ちていた。唇は堪えるように結ばれていた。手で顔を覆うこともせず、彼女はただ泣いていた。泣き始めていた。

 瞬間、早良の思考は呆気なく吹き飛んだ。
 仕事の時には有能に回る頭が切れ味を損ない鈍らとなった。ろくな考えが浮かばなかった。彼女が泣いている理由を、想像ことすら出来なかった。
「ど、どうした。どうしたんだ」
 思わず問う。その時にはもう嗚咽が止まらず、あかりは身体を震わせていた。どうにも堪え切れない泣き声が、雨音を遮り車内に響く。
 大慌てに慌てて車を減速させる。パーキングを探すのさえままならず、空いた道の路肩に車を寄せた。すぐさまエンジンを切る。車の震えが止まる。静かにはならない。
 もどかしい手つきでシートベルトを外すと、やっとの思いで振り向いた。後部座席のあかりを、視界に捉えた。
 彼女はまだ泣いていた。細い肩を小刻みに揺らし、喉の奥から振り絞るような呻き声を立てていた。白いブラウスよりもずっと白く見える泣き顔だった。
「どうした。何かあったのか」
 早良は尋ねた。こういう時に限って、優しい口調が出てこない。まるで子どもを叱るような声になる。
 あかりは唇を結んだままだ。聞こえていないはずはないだろうから、答えられないのか、答えたくないのだろう。早良の頭は回らない。いつになく狼狽していた。
「泣いてちゃわからない。どうしたのか言ってくれ」
 再度促しても尚、あかりは答えない。気が逸る。焦れる。
「俺が何か、君を泣かせるようなことを言ったのか? それなら」
 そこまで言うとようやく、
「ち、ちが、違うっ」
 彼女が湿り気を含んだ声で答えてきた。強くかぶりを振っている。手の甲で涙を拭おうとしている。拭い切れていない。
「わた、私、違うんです、早良さん、ご、ごめんなさい」
「何が」
 嗚咽の下で詫びられて、思わず早良は眉を顰めた。訳がわからなかった。何が違うのかもわからなかった。
 それでもハンカチは取り出せた。すかさず彼女に手渡そうとして、彼女はまたかぶりを振る。手を出さない。
「い、いいです、ごめん、なさい」
「つまらない遠慮をするな。そんな顔でどうするんだ」
「だって、だって、私――」
 まるで子どものようだった。弟よりも幼い顔をしていた。ぐちゃぐちゃの、ろくに構いもしない泣き顔で、何度も言葉を途切れさせながら続けた。
「わ、私、駄目なんです。いっつも、そうやって、早良さんに、たす、助けてもらってるから、駄目なんです」
「どうして駄目なんだ」
 早良も慌てふためいていた。埒の明かなさに苛立ちも募ったが、どうにか追い遣り、ハンカチで涙を拭いてやろうとする。しかし運転席から後部座席までの距離は遠く、手を伸ばした直後に拒まれた。あかりが逃げるように身を捩った。
「もう放って、放っておいてください、私のことなんて」
「そんなことは出来ない」
 即座に、ぴしゃりと言い返したが、彼女の拒絶は更に続いた。
「いいんです、私、早良さんに甘えて、ばっかりなんですから。こっちに来てからもう、三ヶ月も経つのに、全然、駄目なんです。早良さん、早良さんがいないと駄目だったんです」
 早良は息を呑む。目の前の泣き顔まで、距離は遠い。手が届かない。ハンカチを握り締めて、あかりの言葉を聞いている。
「ずっと、帰りたくて、上郷に帰りたくってしょうがなかったんです」
 あかりは泣き声の中で言った。
「お父さんとお母さんと、雄輝のいる家に帰りたかったんです。ずっと、ずっとそうだったんです。大学に行っても、講義中でも、友達といる時でも、片時も忘れたことはなかったんです。上郷のこと、家のこと、帰りたくて堪らない気持ちのこと――」
 ようやく、早良も気付いた。
 失言をしたのだと、自覚した。
 彼女のホームシックを助長させたのは早良の発言だった。あの何気ないつもりの話題が、彼女の傷を深く抉ってしまったのだとわかった。もしかすると癒えかけていたのかもしれない傷は再びあらわになり、ぐずぐずと悪化を始めていた。
 背筋がすうっと冷え込んで、表情を作ることさえ出来なくなった。虚を突かれた顔をして、その後はもう、あかりの話をただ聞いているだけだった。
「それ、でも、早良さんといる時は、わ、忘れて、いられたんです」
 彼女は酷い顔をしていた。子どもじみた泣き顔を晒して、恥ずかしげもなくひたすら泣いて、喚いて、しゃくり上げていた。
「早良さんには、甘えられたから。気を張ってる必要、なかったから」
 涙は頬を伝って顎に雫を作り、そこからぱたぱたと白いブラウスの胸元に落ちた。じわりと広がるしみを作った。室内灯の消えた車内でもそれがわかった。目が慣れ始めていた。
「だけど、甘えてたら駄目、だってことも、わ、わかって、て」
 小さな手の甲が涙を拭う。十分に濡れてしまった肌が、尚も抑え切れない涙を堰き止めようとしている。もちろん、不可能だった。
「ごめんなさい、ごめん、なさい、早良さん」
 謝罪の言葉を繰り返すあかりは、嗚咽の間に一呼吸置いて、それから、
「もう、いいんです。私のこと、構わないで、放っておいてください」
 と言った。
 早良はそれを、口も利けずに受け止めていた。
「優しい、から。駄目な私にも優しくして、くださってるの、わかってたんです。すごく親切に、してくださって、私、私のことも気にしてくださってて。早良さんにはすごく、感謝してるんです、でも」
 喉を引き攣らせたような声は耳に残る。こびりつく。
「ごめんなさい、もう……会わない方が、いいです。私、これ以上駄目なところ、見られたくない。早良さんには、もう」

 その言葉に、早良は答えることが出来なかった。
 運転席から離れられないまま、後部座席で泣きじゃくる少女を見つめていた。
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