Tiny garden

星が降る日まで(5)

 アパートの前で車を降りても、あかりはすぐには部屋へ戻らなかった。
「ありがとうございました。気を付けてお帰りください」
 感謝の言葉を述べた後、走り去るシルバーのマスタングへと、何度もお辞儀を繰り返していた。

 サイドミラーの中、彼女の姿がどんどん小さくなっていく。やがて夜闇に溶け込んで、完全に見えなくなった。その瞬間まで、早良は一度も振り返らなかった。
 見えなくなってからようやく、嘆息した。物憂い気分だった。
 結局今夜は、何の為の約束だったのだろう――得たものはハンカチのみ、それも単に手元へ返ってきただけだ。聞きたいと思ったことを聞けなかった。言いたいことも言えなかった。そして次の機会も手に入れられないまま、全てが終わってしまったように思う。
 もう、会えないのか。彼女とは会えないのだろうか。そう考えると訳もなく空しくなり、早良は幾度となく車を停めたい衝動に駆られた。こんな気分の時に運転などするものではない。何を見ても、今は溜息しか出てこない。
 家まで戻るのさえ憂鬱だった。しかし他に立ち寄るところもなく、立ち寄りたいと思えるような場所もそもそもない。真っ直ぐ帰る以外の選択肢はなかった。仕方なくハンドルを握り続けた。

 本当に、もう会えないかもしれない。
 同じ街に住んでいるのだから、偶然出会うことはあるだろう。以前のように街のどこかで顔を合わせて、また家まで送り届けてやったり、話をしたりすることはあるかもしれない。
 だが、約束をすることは出来ない。出来ないように、彼女から拒まれてしまった。ああいう言い方をされれば、同じ理由では誘えなくなる。別の口実を探さない限りは、彼女も納得しないだろう。
 或いは、体よく拒絶されただけなのかもしれない。早良が煩わしさから他人を拒絶してきたように、あかりにとっても早良が煩わしかったのかもしれない。赤の他人のくせに親切ぶろうとして、そのくせろくに子どもの扱い方も知らず、優しさも知らず、ただただ形式的に誘いをかけてくるばかりの大人など、鬱陶しいだけなのかもしれない。彼女のそぶりからはそんな様子は見受けられなかったが、もしかすれば――。
「……何を」
 何を考えているのだろう。思わず、呟いていた。
 おかしい。今、早良が考えているのは、明らかにおかしなことだった。他人の心中を推し量り、その推論に一喜一憂している今の心が。それほどまでに彼女にこだわろうとする自らの、志向が。
 彼女は煩わしくないのだろうか。あかりも、早良にとっては他人だ。これまでに出会ってきた連中と何が違うのかわからない。なぜ執着したくなるのかわからない。かつての自分に似ているからか、自分のようになって欲しくないからか。だとしても、どうして彼女だけ、なのだろう。彼女が偶然この街にいて、偶然口を利く機会があり、偶然涙するところに居合わせたからか?
 考えてみても、とんと見当がつかない。
 早良は余計に物憂くなって、長く深い息をついた。

 その時だった。スーツの胸ポケットの中、携帯電話が鳴動した。
 瞬間、早良は辺りを確かめ、車を空いている道の路肩へ寄せた。
 彼女かもしれない、と思う。もしあかりからの電話なら――電話なら、どうするのだろう。彼女からの電話だとしてもどんな用件かはわからない。喜ぶのは早い。いや、そもそも喜ぶことからして奇妙なのに、一体何を考えているのか。
 やけにうろたえながら停車して、慌しく携帯電話を取り出す。ディスプレイに表示されている名前を確かめた。
 視認して、途端に早良は落胆した。掛けてきたのはあかりではなかった。

『もしもし、早良くん?』
 控えめに呼びかけてきた史子に、早良は内心を隠せなかった。
「ああ、志筑さん」
『……どうかしたの? 元気、ないみたいだけど』
 どうかしたのか、自分が知りたいくらいだった。早良自身にも現在の心情はまるで理解し切れない。考えている場合でもない。
「いや、何でもない。それより何か用か?」
 問い返すと、なぜか史子の声も沈んだ。
『うん……』
「君の方こそ元気ないじゃないか」
『そうね。ちょっと……ね』
 早良のことが言えないほどに、史子の様子もおかしかった。声のトーンが落ちれば、そのまましばらく沈黙する。携帯電話越しに、吐息さえ聞こえない静寂が伝わってくる。
 いつもなら苛立つ早良も、あかりとのことがあって、余計な口を利く気力もなかった。その上、史子との間には例の――お互いにとって望まない未来の話が浮上している。それでつい、尋ねた。
「まさか、君のお父さんが何か言ってきたのか」
 将来について、わざわざ急かすような真似でもしたのだろうか。焦りを抱いた早良に、しかし史子は素早く否定してきた。
『ううん、私のことじゃないの』
「君のことじゃない?」
『ええ。でも、どう言ったらいいのか……』
 言いよどむ様子にためらいが覗く。
 何を迷っているのかは、もちろん早良にはわからない。史子が電話を掛けてきながら、なかなか本題に入ろうとしないのは珍しいことだった。それに付き合ってやる気力もあまりなかったので、溜息と共にこう切り出した。
「志筑さん、俺はまだ外なんだ。急ぎの用じゃないなら家に帰ってから掛け直すよ」
『あ。やっぱり、出かけてたのね』
 史子が言った。やっぱり、と言葉にした。
 その言葉に早良はどことなく引っ掛かりを覚える。――やっぱり? 何が?
 だがそんな疑問も、
『もしかして、デートだった?』
 次の史子の言葉によって、吹き飛んだ。
「……まさか」
 とっさに色を失った早良は、短い返答しか継げなかった。慌てて言い添えようとする。
「違う。そういうことじゃない。今日は……その、たまたま仕事で知り合った相手と食事をしてきただけで」
『早良くん、そんなに慌てなくたって』
 電話の向こうで、史子が笑い出した。癪に障った。
「からかわないでくれるかな、志筑さん」
『ごめんなさい。でもそんなにうろたえられるとは思わなくって』
「うろたえてなんか……」
 言いかけて、声が引き攣った。史子が更に笑う。早良はむっつりと奥歯を噛み締める。
『別に隠さなくてもいいのに。私、誰にも話したりしないから』
「隠してる訳じゃない。志筑さんも随分としつこいな」
『本当にごめんね。だって、私……』
 史子の言葉は、そのまま笑い声によって途切れてしまった。お蔭で早良は、不機嫌さもあらわに反論する羽目となった。
「そういうことじゃないんだ。そりゃあ、食事をしてきた相手は女の子だったけど、子どもだ。君に勘繰られるいわれもない」
『そうなの。それにしては早良くん、いつにない慌てようだったけど』
「志筑さん!」
 語気を強めて咎めても、史子はどこ吹く風のようだ。ひとしきり笑った後で言ってきた。
『ちょっと意外だったんだもの。早良くんからは冗談でもそういう話題、聞いたことがなかったから。余程隠してるのかなって思っていたところ』
 もちろん、隠している訳ではなかった。隠すようなこともなかった、これまでは。
 単に興味が持てなかっただけだ。健全なことではないと自覚しながらも、他人が皆、煩わしくて仕方がなかった。信用の置けない相手を傍に置くくらいなら、一人でいる方が過ごしやすく、そして安心だった。
 今は、興味を持った相手こそいるが――いたとしても、史子の言うようなことではない。何せ向こうは子どもだ。史子の言うような対象になるはずもない。
『本当にそういう人がいたら、相談に乗ってあげる。いつでも話してね、早良くん』
「君に?」
『こう見えても相談に乗るのは上手い方なの。……仲立は下手だったみたいだけどね』
 揶揄するようでもある言い方に、早良もそういえばと思い当たる。早良に好意を寄せていた女性たちは、大抵史子を仲介役として近づいてきた。世話焼きの史子の働きが功を奏したことは今まで一度もなかったが、そういう話を聞き慣れているのは事実なのだろう。
 現に電話の向こうの史子は楽しげで、はしゃいでいるようでもあった。彼女がこんなにも愉快そうにふるまったことがこれまでにあっただろうか。冷やかされているようでいい気はしなかったが、早良は心の片隅で、漠然と安堵もしていた。
 今は暗い話を聞きたい気分ではなかった。電話を掛けてきた時の史子は沈んだ様子だったが、きっと大した話ではなかったのだろう。一向に話してくる気配もなく、早良のことばかり尋ねてくるのだから。
「相談するようなこともない」
 呆れながら早良は言ったが、その後でふと、思い当たった。
 世話焼きの史子は、同窓会の幹事役を務めていたことも何度かあった。日程合わせも会場の手配も、ほとんどが彼女のしていたことだった。
 それなら、彼女は飲食店にも明るいのではないだろうか。
「相談はない。でも……」
 思い当たりはしたものの、さすがに早良は口ごもった。日頃疎ましく思っている相手に対して、いきなり頼み事をするのは抵抗がある。こんな時にばかり他人に頼るのは虫のいい話だ。自分で調べる方が後腐れもなく、いいはずだった。
 しかし早良は疲れ切っていて、おまけに今日の失策で自信を失いかけてもいた。多少の手間をかけても、次は確実な方法を取りたい。確実に満足のいくような結果を得たい。
 その思いが早良に、質問を告がせた。
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