Tiny garden

星が降る日まで(4)

 帰り道も、あかりは車の後部座席に乗り込んだ。
「今日はごちそうさまでした。お料理、とっても美味しかったです」
 行儀のよい挨拶や、料理への感想を告げてくる声が明るい。言葉に嘘はないようだと早良は思った。多少の失策はあったが、彼女には満足してもらえたらしい。
 早良はと言えば、満足とは程遠い心持ちだった。言いたいことの半分も言えなかったばかりか、つまらない失策や失言もあった。扱い方のまるでわからない相手に対し、大人として適切な接し方が出来たかどうか、はなはだ不安が残る。

 これで終わらせてはいいのだろうか。ハンドルを握りながら、思う。
 しかしその問いに対する答えすら浮かばず、途方に暮れた。次の機会を設けようにも、会う口実となるものは何もなくなってしまった。今のあかりには新生活について、特に悩んでいる様子もない――あったとしても、打ち明けてくるつもりはないのかもしれない。以前貸し与えたハンカチは早良の手元に戻り、残っているのはもやもやとした曖昧な感情だけ。これで終わりにしていいのだろうか。これきりにして、彼女のことは頭の片隅にでも追いやって、彼女の方から連絡を寄越すまではそっとしておくべき、なのだろうか。
 恐らく、忘れられるだろうと思った。明日からの仕事に終われるうち、早良はあかりのことを忘れるだろう。もしかしたら忘れられずにしばらく気を揉み続けるかもしれないものの、早良を待ち受ける忙殺の日々はこれから先も、常に過密で慌しい。考える暇さえ与えられないうちに、他人のことなど一切気にも留めなくなるだろう。
 あかりは気配りの出来る娘らしく、早良を忘れたりはしないだろうが、よほどのことでもない限りは連絡をしてこないだろう。何かあった時に早良へと頼るという選択肢は持ち合わせていないはずだった。彼女はそういう娘だ。
 このまま別れれば、何もかもが元の通りになる。あかりとの接点も失われ、会うことも叶わなくなるかもしれない。それでいいのだろうか、と思う。一度は手を差し伸べたいと願った相手を、このまま帰してしまってもいいのだろうか。
 そこまで考えて、早良は胸裏に芽生えた奇妙な感情に、どことはなしの不安を抱く。あかりを助けたい、支えてやりたいという気持ちは、大人が子どもに対して持つ正しい思いなのかもしれない。だが彼女は他人だ。赤の他人に対して、執着にも似た親切心を持つのは正しいことなのだろうか。他人だからと突き放してやってもいいはずなのに、それが、どうしても出来そうにない。

「――早良さん」
 不意に、後部座席から声が掛けられた。
 早良はバックミラーへと視線を走らせ、あかりの笑顔を見つける。
「あの、本当にありがとうございました。いろいろと……」
 最後を言いにくそうにぼかしたのが引っ掛かり、とっさに尋ね返す。
「いろいろと?」
「はい。……今日は、私を励ます為に誘ってくださったんですよね?」
 やはりよくわかっている娘だった。子どもらしくない物言いだ、と内心で早良は眉を顰める。
 あかりはあかりで、気恥ずかしそうに語を継ぐ。
「この間お会いした時に、私、泣いてしまいましたから……ご迷惑お掛けしました。大学生にもなってホームシックだなんて、子どもっぽくて、ごめんなさい」
「気にすることはない。そういうことは誰にでもあるんだから」
 答えた早良自身には、家族が恋しいと感じられた記憶もなかった。ホームシックなどこの先、一生無縁だろうと思えた。
「ありがとうございます」
 頭を下げて、あかりは更に続ける。
「でも、早良さんが親切にしてくださったお蔭で、何とか立ち直れました。私、まだまだ頑張れそうです。お気持ち本当にうれしかったです」
 感謝の言葉は心からのものだった。装っていないのが、早良の冷めた目線からもわかった。
 しかし、早良にうれしさはなかった。
「役に立ててよかった」
 答えた声も強張った。どうしてか彼女には、他の言葉を望んでしまっていた。感謝ではなく、違う言葉が欲しかった。それがどんなものか、見当もつかなかったが――。


 あかりのアパートがある、郊外の住宅街が近づいてきた。
 早良はいよいよ落ち着かない心境だった。このままでいいのか。今日で終わりにしていいのか。そんな迷いが胸を過ぎり、もやもやと澱のように沈んでいく。
 答えはまだ出ていなかった。自分がどうしたいのか。どう思っているのか、まるでわからなかった。自分の心なのに靄がかかったようで、心情さえ判然としない。曖昧な心のうちで、ただ一つだけ、形のはっきりしている思いがあった。
 次の機会を作ろう。次は、何の失策もないように。
 そうだ、と思った。閃いた途端に思索の糸が繋がったようだ。今日は早良にとって失策の多い日となった。店の選択を間違え、あかりにかえって気を遣わせた。ならばこの次は彼女に気遣う隙を与えないように、完璧な日にしよう。挽回の機会が必要だ。次の機会が、自分には必要だ。
 早良は思いついた答えに満足していた。その答えが何に所以し、どこから発露したものであるかは深く考えもしなかった。考えたくなかったのかもしれない。

 ともあれ、彼女に告げた。
「もし、君がよかったら――また誘ってもいいだろうか」
「え?」
 窓の外を見ていたあかりが、はっとしたように首を動かすのがわかった。
 運転席の早良は、妙に落ち着かない気分で言葉を継ぐ。
「その、今日は君に、余計な気を遣わせてしまったようだから。次はもう少し、気楽な店を探すようにする」
 調べなくてはならない、と思った。仕事上の付き合いでしか外食をすることのない早良は、あかりのような娘を連れて行ける気楽な店など全く知らなかった。それも調べておく必要があるだろう。今後のことを思えば。
 しかし、多少の苦労は惜しむつもりもなかった。
「だからもしよければ、次も誘わせて欲しいんだ」
 フロントガラスに目を向けたまま、早良は言った。
 こんな風に誰かを誘ったことは初めてだった。同じような物言いで誘われたことはあったかもしれない。何人かの女性から誘いを受けたことが過去にもあった。しかしそのどれもを早良は拒み続けてきた。気乗りがしない、という理由だけで――表向きはもう少しやんわりと、誘いを退けることが上手くなっていた。
 誘う側に回ってみて、初めて知った。これは酷い重労働だった。気にも留めなかったあの女たちも、こんな風に思い悩み、口実一つに頭を痛め、落ち着かない気持ちで誘い文句を告げたのだろうか。

 あかりが答えを口にするまで、やけに長い沈黙があった。
 少し、焦らされる間の後で彼女は、慎重に答えた。
「……お気持ちは、とってもうれしいんです」
 語調でわかった。拒絶の言葉が続くのだろうと。
 他人を拒絶するのは慣れていても、されるのはあまりないことだった。不快さに背筋がぞくりとしたが、面には何も出さぬよう努めた。
 彼女の言葉は続いている。
「でも私、これ以上早良さんにご迷惑をお掛けする訳には……。もう十分なくらいです。こんなに親切にしていただいて、食事までごちそうになって。本当に感謝しているんです」
 それは欲しい言葉ではなかった。
「子どもは何も気にしなくていい。黙って、大人の言う通りにすればいいんだ」
 やや強く、早良は告げたが、すぐにあかりが反論してきた。
「わかってます。私、早良さんがどのくらい私を心配してくださってるかも、すごくわかるんです。だけど……やっぱり」
 彼女の物言いもまた、譲らない頑なさがあった。
「きっと、両親にも叱られちゃいます。早良さんには上郷にいる頃からお世話になっていたのに、こっちに来てからもお世話になっているなんて、両親の耳に入ったら大騒ぎになっちゃいます。だからもう、十分すぎるくらいなんです」
 そして、彼女らしい言い分だった。
 食い下がる隙も与えてくれないような返答に、早良は詰まった。苛立ちを押し隠しながらもようやく言った。
「そうか。それなら、仕方がないな」
 思い浮かばなかった。これ以上の誘いの言葉も、そこまで執着するだけの理由も。ただでさえ、ここまで他人に係わろうとする心は不自然すぎた。
「すみません」
 詫びるあかりの微笑を確かめ、早良も礼を失しない程度に笑んだ。
「気にしなくてもいい。今日を楽しんでくれたなら、それだけで」
「はい。とっても楽しかったです」
 彼女は嘘をついていなければいい、と思った。自分が嘘をついた直後だからこそ。
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