Tiny garden

星が降る日まで(3)

 足を運んだのは、創作懐石料理の店だった。
 雰囲気がよく、賑々しくはなく、それでいてあまり格式張っていない店を選んだつもりだった。だが、あかりはいささか慣れない様子で席に着いていた。そっと辺りを見回して、差し向かいに座る早良に話しかけてくる。
「私、こういうお店に入ったの、初めてです」
「そうなのか」
 早良は応じながら、上郷の風景を思い起こしてみる。
 あの村に食堂はなく、あかりの実家である旅館が仕出しもしていると聞いていた。冨安たち現場の人間もあの旅館の食事を摂っている。一番近いスーパーやコンビニまででも車で移動しなくてはならないのが苦労だと、彼らは笑いながら語っていた。
 上郷で一夜を過ごした日、早良もあかりの父親の料理を味わっていた。洗練されているものでは決してなかったが、素朴で美味しい料理だったと記憶している。
「美味しい店だってことは保証する。君のお父さんの料理ほどじゃないかもしれないが」
 早良が告げれば、あかりはようやく無邪気な笑顔を見せた。
「父は、創作料理とかはしない人ですから。お料理、とっても楽しみにしています」

 料理が運ばれてくる頃には、彼女の緊張も幾分解けたようだった。
 旅館の娘らしく、彼女は食べている時も行儀がよかった。足は崩さずに座り、姿勢も常にぴんと正されていた。そして何を食べても美味しい、美味しいと素直に口にした。
「これ、何ていうお野菜ですか」
「それは冬瓜だ。冬の瓜と書いて、トウガン」
「ふうん。初めて食べました。とっても美味しいです」
 冬瓜の煮物に笑みを零すあかりを見て、早良もつられるように相好を崩した。
「美味しそうに食べるな、君は」
「よく言われました」
 深い頷きが返ってくる。
「食べ物のCMに出られるんじゃないかって、両親に言われたくらいです。もしうちの旅館でCMを出すとしたら、私がご飯を食べてるところにしようって……私はちょっと恥ずかしいから、嫌ですけど」
「確かに適任かもしれない」
 早良が肯定すると、テーブルの向こうの彼女は拗ねたような顔になった。
「もう、早良さんまでそんなことおっしゃるんですか」
「でもこっちとしては、美味しそうに食べてくれた方がいい」
 心からそう思い、早良は続けた。
「その方が食べさせがいがある」
 彼女の美味しそうな顔は実に、連れてきてよかった、と思わせてくれた。
 誘ったかいも、スケジュールを空けたかいもあったというものだ。ついでに言えば秘書の目を誤魔化しつつ、仕事を片付けてきたかいも――仕事よりも楽しみなことがあるなどと、よもや思いもしなかったが、今は少し思う気になれた。あかりと過ごす時間はどこか不安定で覚束ないながらも、楽しかった。
 彼女は話し上手で聞き上手だった。年上の人間と話をすることに慣れているのか、とかく厳しい目で相手を選びたがる早良とも、朗らかに会話が続いた。
「早良さんはよく、外食をされるんですか」
「結構、多い方かもしれないな。働き出してからは家族とも食事の時間が合わなくなったし、付き合いで外食することもよくある」
 そういえば、母親の作った料理を食べなくなって久しかった。早良の母親はあまり料理が上手ではなかった。家政婦に一切を任せて、仕事で方々へ飛び回っている。家では父の言いなりで、存在も希薄だった母に対し、早良も特に思うことはなかった。どうせ自分の味方ではない。
 つまらない思索は頭の隅に追い遣り、早良は逆に尋ねてみた。
「君は? 食事は自分で作ってるのか?」
「はい、せっかく台所のある部屋に住んでいるので、ちゃんと自炊しています」
 あかりは愛想よく答えて、それから苦笑いで語を継ぐ。
「というより、外で食べるのがあまり得意じゃなくって……あ、今はとっても楽しくて、美味しいです。早良さんとご一緒しているからとっても楽しいですけど」
 その言葉に、早良は僅かに動揺した。もちろん気取られぬように装ったものの、動じたのは確かだった。
「一人で食べるのって、寂しいんですよね」
 早良の内心を知ってか知らずでか、あかりはさばさばした口調だった。
「こっちに来てから、クーポン券を貰ったので、ハンバーガーを食べに行ったことがあったんです。私、一人で」
「へえ」
 ファーストフードとはほとんど縁のなかった早良は、相槌一つするにも迷った。
「ハンバーガーは美味しかったんですけど、……やっぱり一人だと寂しくなっちゃいました。ああいう賑やかなところに一人でいるのって、何だかいけないことのような気がして。それきり外でご飯を食べようとは思えないんです」
 あかりが肩を竦める。
 少し前に、上郷へ帰りたいと言っていた彼女は――やはり寂しいのだろう。故郷を離れ、家族とも離れて、一人あのアパートで暮らしている。頼る相手がいればいいのだろうが、果たして手を差し出したところで彼女は、頼ろうとしてくれるだろうか。
 今日の、最もたる用件はそれだった。出だしでつまずき、彼女に余計な気を遣わせてしまった今だからこそ、何かしたいと思った。自分に出来ることがあるなら何でもしたいと思った。
 どうあっても、早良はあかりを子ども扱いしたかった。保護者として彼女を思い遣るのが一番自然なあり方だと思った。そうでなければ手を差し伸べるのにも他の理由が必要となってしまう。大人として、子どもを助けてやりたいだけだと、そう思いたかった。そう思えば彼女の領域へと踏み込むことにも問題はないはずだった。

 早良はあかりの表情を見つめ、少しの間、ためらった。
 だが迷う時間すら惜しくなり、遂には切り出した。
「最近、大学の方はどうだ?」
 途端にちらと、大人びた表情が過ぎった。陰りとまではいかない、しかし微かな強張り。あかりはそれでも、間を置かずに答えてきた。
「最近、ようやく慣れてきました。あ、お友達も出来ましたし、道も少し覚えたんです。まだ大学周辺だけですけど」
 嘘ではないのだろう。だが、どこか優等生的な回答であるようにも聞こえた。隙のない物言いだった。
 早良が一瞬、返す言葉に迷うほどに。
「そうか。それはよかった」
「はい。……その節はご心配をお掛けしました」
 申し訳なさそうに頭を下げてくる彼女を見れば、これ以上立ち入ったことも尋ねられない。
 今はもう、帰りたいと思うことはないのか。ホームシックに駆られることはないのか。いっそ尋ねてしまいたいと思ったが、言えるはずもなかった。
 ただ、これだけは。言っておきたいことがある。
「もし、君が――」
 早良が口を開き、それを告げようとした時だ。
「あ、そうだ。すっかり忘れていました」
 彼女の方がふと思い当たったように声を上げた。箸を置き、バッグを開ける。そしてそこから取り出したものを、早良へと差し出した。
「これをお返ししなくちゃいけなかったのに……遅くなって、ごめんなさい」
 差し出されたのは、ハンカチだった。
 まさにあの時、泣いていたあかりと出くわした夜に、彼女へと早良が貸したハンカチだ。
 四隅を合わせてきれいに折り畳まれ、しっかりとアイロンも掛けられていた。貸した時と寸分違わない整いようだった。
 ハンカチのことは早良もしばらく忘れていた。いささか驚きながら受け取った。
「あ……ありがとう」
「お礼を言うのは私の方です。ありがとうございます」
 そう言って、あかりは控えめに微笑んだ。
「早良さんのお蔭で、私もようやくこの街に慣れてきたみたいです。大学にも、一人暮らしにも慣れました。早良さんが親切にしてくださったお蔭です。本当に感謝しています」
「いや、別にいい、そんなことは」
 ハンカチはポケットにしまい込み、早良は首を横に振る。
 そんなことはどうでもよかった。大体、純粋な親切心であるのかどうかも怪しいくらいだった。その他にどんな感情があるのかまでは、今の早良には考えもつかなかったが――。
 執着に近しいようだ、とは思っていた。
「アイロン掛け、本当に上手いんだな」
 以前の電話での会話を覚えていた。早良が告げると、ふふっと柔らかな笑声が漏れた。
「そうでしょう? 得意なんです」
 胸を張るあかりを見ていれば、どうしても、心の内は告げられなかった。あえて思い出させるべきではないようにも思えた。

 あの夜に手渡したハンカチが戻ってきたことで、あの夜の出来事そのものが消え失せてしまったようだ。
 今となっては他に口実もない。よすがとなるものも、恐らくもうない。だからこそ胸中を打ち明けるべきと思ったのに、早良は結局口を噤んでしまった。
 テーブル越しに見たあかりは、隙のない無邪気さで笑んでいた。
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