Tiny garden

空の片隅(6)

「――あかり、さん」
 どう呼びかけるべきか、そもそも呼び止めるべきかどうかを迷った。しかし結果として、早良は彼女をそう呼んだ。
 顔を上げたあかりが、小首を傾げる。
「はい」
「……その」
 何と言葉を継ごうか、更に逡巡する。彼女に向ける親切心はもう使い果たしてしまった。残るはもっと別の、違う感情。しかし形すら掴み切れないその感情では、彼女にどう心を伝えればいいのかわからない。
 早良は再び、初めての局面に立たされていた。ほんの少し前、泣き出したあかりを抱き締めることが出来たように、他にも何か出来ることがあるだろうかと考えた。ごく当たり前のようなふるまいで、彼女を気遣うことが出来たらいいと。
 あかりが大きく瞳を瞠って、早良を見つめている。まだ僅かにだけ潤んだ瞳の中、水銀灯の光が揺れていた。瞬きのたびに彼女の睫毛が影を落とし、目のやりどころに困る。きれいな顔立ちをしている、とふと思う。
 喉が鳴る。次に絞り出した声は弱々しかった。
「もし、差し支えなかったら……」
「はい」
 あかりが顎を引く。早良が言葉を選びながらついた溜息まで、素直に受け止めようとする表情。
 もう、早良も躊躇うことは出来なくなった。そうして選び取ったのは、
「今度、食事に誘ってもいいだろうか」
 恐ろしく月並みな誘い文句だった。
 非凡と言われ、人が羨む才能と容貌を欲しいままにしている早良でも、初めてのことにはまるで不器用だった。あまりに不器用過ぎて、自らに腹が立つほどだった。これまで数多くの女性に同じような誘いを持ちかけられ、その度に歯牙にもかけずにあしらってきたが、実際に自ら口にしてみれば、何と告げにくい一言であることか。もっと上手い文句が出てこないものかと呆れ果て、愕然とした。
 一瞬、水を打ったように場が静まる。
 その後であかりが、驚いたように声を上げた。
「え? 私と……ですか? 早良さんが?」
 明らかに困惑するそぶりを見せられ、早良も慌てて言い直す。
「いや、そう身構えないで欲しい。別に深い意味はないんだ、そういうことじゃない」
「はい……」
 あかりはぎこちなく瞬きをする。
「ただその、君もこっちに一人で出てきて、何かと心細いだろうし、食事の支度も大変だろうと思って。君さえよければ、是非誘わせて欲しい」
 まくし立てたのは理由にもならない口実だった。それすら舌が縺れて、更に早良を苛立たせる。子ども一人誘うのに何を手間取ることがあるのだろう。
 その子どもは、今は大人の表情をしていた。腑に落ちない様子でぎこちなく笑んできた。
「で、でも……早良さんにはいろいろとお世話になっています。上郷の、公民館のことでもそうでしたし、こっちに来てからも気を配っていただいてますし、これ以上何かでお世話になる訳にはいきません」
 あかりは断りたがっているようだ。迷惑だというより、ひたすら困り果てた様子でいた。パーカーのポケットを軽く叩いて、続ける。
「今日だってハンカチをお借りしましたし、みっともないところもお見せしてしまいましたし……。お気持ちだけいただいておきます」
「いいから」
 早良はすかさずかぶりを振った。
「子どものうちは遠慮なんてすることない。大人の言うことは聞いておくものだ」
「子どもだなんて」
 ふっとあかりが表情を和らげる。
「私、十八です。早良さんのお気持ちはうれしいですけど、そんなに子どもじゃありません」
「俺からすれば、十代のうちは子どもだ」
 むしろ早良の方がいささか大人気なく、強情さを発揮していた。ここで引くつもりはなかった。一度言い出したからには、どうあっても彼女を食事に誘いたかった。
 ――いや、食事という口実の下、彼女のことを探りたかった。それが叶えば理由は何でもよかった。子どもを誘うなら食事が一番いいと思ったまでだ。彼女の現在とこれからを見守り、彼女が歪に変わってしまうことのないようにと願いたかった。あかりの中にかつての自分を見た今、早良は彼女を放っておくことが出来なくなっていた。
「遠慮する理由なんてない。ハンカチをこちらへ送る手間も省ける。会った時に返してくれればいいんだから」
 知らず知らず、急くような口調になっていた。
「大人が君に、美味しいものを食べさせてやりたいと言ってるんだ。君は素直に喜んで、受け取っておくこと。むげにされると大人だって傷つくんだからな」
 早良が真顔でそう言うと、あかりは長い髪を揺らして笑い出す。
「そうなんですか。大人の人って、案外強引なんですね」
 他人に笑われるのは気分のよくないことのはずだ。しかし早良はそれほど悪い気もせず、あかりの笑顔を眺めていた。多少の面映さはあったものの、不快だとは思えない。
「じゃあ……」
 と言って、あかりは頭を下げてきた。先程よりもずっと元気よく。
「ご馳走になります、早良さん!」
 その返事にほっとしたのも束の間、顔を上げた彼女の笑みに、早良は戸惑わさせた。期せずして臆したくなるような眩しい笑顔。あの涙はどこへ行ったのか、ころころと変わる表情にはついていけない。
「……ああ、わかった」
 ようやく答えて頷いてから、早良は携帯電話を取り出す。ちらとあかりの表情を盗み見る。彼女は無邪気な笑顔のままだ。
「時間を作って、必ず誘う。連絡先――電話番号を聞いてもいいか」
 結局この期に及んでも知り得なかった、彼女の電話番号。それをやっと手に入れることが出来そうだった。この瞬間までそれが、こんなにも必死になるほど欲しいものだとは思わなかったが。
 今はわかる。自分はそれが欲しかった。あかりの様子をすぐ知ることの出来る手段が欲しかった。だからこそ今夜も、酔いに任せてここまで辿り着いてしまったのだろう。
 珍しいくらいの他人への執着を、早良はまだ捉え切れていなかった。どこか自分らしくない、異質なものとして見据えながらも、その感情に正直に従っていた。逆らうのはよくない、素直になるのが自然なのだと思って、疑わなかった。
 そんな早良の問いに、
「はい」
 あかりは一度、勢いよく頷いたが、すぐに笑みを消した。何か考えるような顔つきになり、その後恐る恐る尋ね返してくる。
「早良さん、家の電話番号でもいいですか。私、携帯電話を持っていなくて」
「ああ。いつ頃なら繋がるか、教えてくれるとありがたいな」
「今くらいの時間なら、大抵部屋に戻っています。日付が変わるまでは起きていることが多いです」
 淀みなく答えたあかりは、それから電話番号を告げてきた。早良はすぐにそれを登録する。十桁の電話番号を叩き込むと、一度確認してから携帯電話をしまい込んだ。
「都合がついたらすぐに連絡する。待っていてくれ」
「はい。楽しみにしています」
 屈託のない表情を見せるあかりに、早良もふと笑みを返した。欲しいものを手に入れて、充足した気分になった。こんな思いがするのは久し振りだった。子どもの頃の感覚を取り戻したようだった。

 何度も感謝の言葉を繰り返したあかりが、ようやく部屋へ戻っていく。
 ひっそりしたアパートの一室にぱっと光が点ったのを見届けて、ようやく早良は踵を返した。酔いはすっかり醒め、春風が身に染みる冷たさとなっていたが、不思議と足取りは軽かった。初めての感情に対する戸惑いよりも、今はうれしさ、充足感の方が勝っていた。
 たった数時間前の、史子とのやり取りを忘れた訳ではない。まだ心の奥底に、重石のように存在している。史子のことも、彼女の父親のことも、自分の父親のことも、考えなくてはならないことは山ほどあった。それらを後で思い返せばまた憂鬱さが蘇り、どうにもならない歯痒さに煩悶するだろうこともわかっていた。
 それでも、早良は幸せだった。いつになく幸福な気分だった。一時の高揚感に身を任せて、ひたすら歩き続けていた。あかりに笑顔を取り戻せたこと、彼女と繋がりを持てたことが、無性にうれしくて堪らなかった。
 空の片隅に浮かぶ小さな小さな星を見つけたような、ごくささやかな幸いに、今はこの上なく満足していた。きっとその星は、一等星に比べればぼんやりとした弱々しい光しか持たないだろう。だが、確かに輝いている。大きな空の片隅に、ここからははっきりと見えなくても。
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