Tiny garden

空の片隅(5)

 どのくらい経っただろう。
 子どものように泣きじゃくり続けたあかりも、次第に落ち着きを取り戻していた。泣き声は止み、辺りには再び水銀灯の唸る音が響いている。あかりはくすんと鼻を啜り、目を擦りながらぎくしゃく顔を上げた。早良を見て、まだ涙の残る瞳で、はにかむように微笑んだ。
「ごめんなさい……たくさん泣いちゃいました」
 交差する視線まで、距離が近い。そのことに気付いた早良は今頃になってうろたえた。思わず目を逸らしながら答える。
「気にしなくてもいい。そういうことは誰にでもあるから」
 親切を働いた後はなぜか気まずく、気恥ずかしいものだった。何もしなければよかった、と思えるほどに。早良は音も立てずに腕を解いて、あかりの身体を解放する。抱き締めた時と同様、自然な動作であかりは一歩身を離した。
 と、彼女の手が、早良のスーツの胸元に触れた。そこは涙で濡れていた。
「あっ、服も汚れて……本当にごめんなさい」
 慌てた様子であかりが言うので、早良もいささか動じながらかぶりを振る。
「いいんだ、このくらい」
「でも……」
「子どもが気にすることじゃない」
 そう言って、内ポケットからハンカチを取り出す。服を拭こうか迷ったが、先にあかりへと差し出した。
 早良の手にあるハンカチを見て、あかりは瞬きをする。睫毛に小さな雫が残っていた。
「使いなさい」
 語気を強めて告げる早良。あかりは一瞬迷いを見せたが、すぐに頭を下げ、素直にハンカチを受け取った。目元を拭う仕種がぎこちない。
「あの、洗ってお返ししますね」
 さっきまで子どものように泣いていた彼女が、子どもらしくない気遣いを見せる。その違和感に早良は顔を顰めた。
「いい。そのまま返してくれれば」
「そういう訳にはいきません。うちにも洗濯機、ありますから」
「うちにだってある」
 早良は答え、途端にあかりは吹き出した。
「そうですよね」
 何がおかしいのかと眉根を寄せる早良に向かって、
「でも、このくらいはさせてください。でないと私、早良さんにはお世話になりっ放しで、申し訳ないです」
 ようやく彼女らしい笑顔で答える。
 気を遣わなくてもいいと言っているのに。内心、早良は嘆息したが、あかりもこの点においては頑固そうな娘だった。一つくらいは好きにさせてやるかと譲歩する。
「わかった。そこまで言うなら、洗濯は君に任せようか」
「はい、ありがとうございます」
 頷いたあかりは、ハンカチを畳み直して、そっと早良のスーツを拭き始めた。早良はやはり動揺したが、止める暇もなかった。彼女の手が躊躇いなく自分に触れてくるのを、何とも言えぬ心地で見下ろしている。
 先程抱き締めてしまった時、あかりもこんな風に奇妙な心地でいたのだろうか。そう思うと居た堪れなさが込み上げてくる。やはり慣れないことなどするものではなかった、と密かに悔やんだ。
 あかりは笑んだままで作業を終え、もう一度ハンカチを畳み直すと、それをパーカーのポケットにしまい込んでしまった。
「洗ったらすぐにお送りしますから」
「送る?」
「ええ、早良さんのお住まいに。住所、存じてますから」
 そう言われて早良は煮え切らない気持ちを抱く。住所だけではなく、電話番号も教えているはずなのに、結局連絡はくれないのか。ハンカチを送って返却すると考える辺りはいかにもあかりの発想らしい。
「ああ、わかった」
 それでも、早良は首肯するよりほかない。連絡をくれと言えるだけの気概はなく、そもそもどうして自分が彼女から連絡を欲しがっているのか、自身でその心境が掴み取れていなかった。送り返して貰う方が気楽でいいはずなのに。
 ふと、あかりが早良を見上げる。怪訝そうな表情が、すぐにおかしそうな笑顔に変わった。
「何か違うなあって思っていたんですけど」
「え?」
 発言の意図を測りかね、早良が困惑を見せると、
「口調、です」
 あかりがそっと、言ってきた。
「早良さんが敬語じゃない話し方をなさっているの、初めて聞きました。それで……何だか前にお話した時と違うなって思ったんです」
 指摘されて初めて気付いた。早良はあかりに対して、敬語を使うのを止めていた。それも脈絡なく、意識せず、いつの間にか。
 早良は焦った。口元に手を当て、一体いつの間に、と心中で呟く。アルコールのせいだとすれば厄介なきっかけだった。そのくせこれも妙に自然で、何気なく行き過ぎていく変化として受け取れたのが尚のこと引っ掛かった。
 今更元に戻すのもおかしい。子ども相手に仕事の口調を忘れたくらいで、ことのほか動揺しているのもおかしい。かと言って、今後どう話しかけていいものか――早良が逡巡していると、あかりは懐かしむように続ける。
「お父さん――うちの父みたいだって、思いました」
 彼女の敬語も一瞬、崩れた。
「すごく懐かしいような気がして、それで、それで私……」
 はにかむ笑顔の次には、言葉も途切れた。泣いた後の目元と頬はむくんで、見ていると胸がずきずきと痛む。
 黙り込むあかりを見つめ、早良はしばし躊躇した。だが、既に彼女の領域に足を踏み入れたことを悟り、結局尋ねた。単刀直入に。
「君は、何かあったのか? よかったら話してくれないか」
「いえ、あの、お恥ずかしいんですけど」
 あかりは躊躇わなかった。頬をほんのり染めて、言ってきた。
「ホームシックなんです、私」
 そうだろう、と早良は思う。彼女は先程言った、上郷に帰りたいのだと。
「単にそれだけ、だったんです。理由とか、そういうことは何にもなくて、ただ無性に帰りたくなってしまったんです」
 すっとあかりの視線が動き、早良の肩越しに向こうを見遣る。そちらにはひっそり静まり返ったアパートがあるはずだった。
「夜中に外へ出かけても、誰もついてきてくれないし、部屋に戻っても私一人きり。そう思ったら何だか急に上郷が懐かしくなって……」
 ふと、早良は上郷で過ごした一夜に、あかりと星を見に出かけたことを思い出す。あの時は雄輝が早良を誘い、あかりがそこについてきた。仲のいい姉弟はいつもあんな風に星を見に出かけていたのだろう、そう思わせるやり取りだった。
 しかしこの街では見に行くような星はない。外出についてきてくれる弟もいない。帰り道、遠くに点る家の灯にほっと安堵することもない。彼女が故郷を想い、寂しくなるのもわかるような気がした。
 この大きな街の片隅で、彼女はたった一人きりだ。
「でも、決めてるんです」
 あかりは声のトーンを上げて、早良に対し胸を張ってみせた。
「私、夏休みまでは帰らないんです。両親にわがままを言って、無理を承知でこっちに出てきて、大学まで通わせて貰ってるんです。余計なお金を使うことなんて出来ないから……だから、夏までは帰りません。頑張ります」
 無理をしているのがありありとわかる、装い切れない子どもの態度。
「ペルセウス座の流星群の頃に帰ろうって、そう思っています。その頃には新しい公民館も完成しているでしょうし、きっとうちも忙しくて、懐かしさに浸ってる暇なんてないですから。夏に帰るのがきっと一番いいんです。それまでは頑張ろうって思ってるんです」
 一息にそこまで語ってから、あかりは静かに肩を落とした。そして控えめな笑みを作る。早良を見上げる顔に、大人びた表情が戻ってくる。
「ご心配をお掛けしてすみません。早良さんのお蔭で、もう大丈夫です」
「そうか……よかった」
 早良も、心にもない言葉を口にした。胸裏ではざわざわと強い不安が募り出している。虚勢を張るあかりを目の当たりにしながら、取る術も見当たらない自分への苛立ちが湧き起こる。
「ハンカチ、ちゃんとお送りしますね」
 あかりはパーカーのポケットを叩くと、深々と一礼した。
「大変お世話になりました、ありがとうございました、早良さん」
 それが別れ際の挨拶であることを、早良は察した。察した途端に引き止めたくなった。
 彼女を帰してはいけない。まだ帰す訳にはいかない。彼女の心細さをもう少し和らげてやりたい。――親切心と呼ぶにはもう少し踏み込んだ心情で思っていた。
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