Tiny garden

空の片隅(7)

 翌日から早良は、猛然と仕事に立ち向かい始めた。これまでも中毒に近い熱の入れようではあったが、今回のそれはやや趣が違っていた。率先して休日を作る為の努力だった。
 いつも以上に熱心に仕事を片付け、次の週末にようやく空白が生まれた。ぽっかり空いたスケジュールを確かめるが早いか、そこには何の予定も入らぬよう根回しまで始めた。
 余計なことにだけ気の利く秘書が、スケジュールを確認しようとすると、早良は先んじるように制した。
「内田さん、その土曜日は先約があります。用事を入れぬようお願いします」
「……承知しました」
 内田は手帳の中身をちらと確認した後、早良の言葉に従った。もちろん続けて含み笑いを見せ、
「志筑嬢とお会いになられるのですか」
 釘を刺すように一言、付け加えるのを忘れなかったが。
 早良はそんな秘書の態度に眉を顰めた。こんな時に志筑史子の名前は聞きたくなかった。今はあかりのことだけを考えておきたかった。
 あかりとの会話で得た、不思議に満ち足りた気分を忘れられなかった。彼女といるとどうしてか幸せで、穏やかな気持ちになれた。その気持ちの因するところを掴めていた訳ではないが、だからこそ大切にしたいと思った。何としてでもあかりと会う時間を死守したい。
「志筑嬢は大変おきれいな方です」
 早良の沈黙をどう受け取ったのか、揶揄するように内田が言った。
「あなたとよくお似合いですよ」
 そう言われても早良は、喜ぶ気にはなれなかった。誉め言葉ではないとわかっていたからだ。むしろ史子の父親か自分の父親が、内田にも嗾けるようなことを言い出したのかもしれない、と悟った。この男はより強い者の言うことをよく聞くらしいから。
 時間はあまりないようだ。史子の出方を見極めながら、早良自身も決断をしなければならない時が近づいている。

 そんな冷めたやり取りとは別次元のように、電話越しに聞くあかりの声は明るく、弾んでいた。
『早良さん、もうお電話くださったんですか! うれしいです』
 もう、と言われて早良はぎくりとする。これでも大分時間を置いたつもりでいた。あの夜から既に三日も過ぎていたし――三日も、だ。早良にしてみれば長いくらいの間だった。ビジネスと同様の感覚でいたと言えばそうなのかもしれない――、両親や秘書の目を盗んでスケジュールをやり繰りし、店には予約を入れるのも一苦労だった。その上あかりに電話を掛けるまでは思案の時間も必要とした。先日の件については触れた方がいいのか、それとも触れない方がいいのか。第一声はどのように告げるべきか、既に崩れてしまった彼女への毅然とした態度を戻した方がいいのか、どうか。相手を子どもだと考えるなら多少砕けた口調でも問題ないのか……そんなことをあれこれ考えるだけであっという間に時間が過ぎた。
 いざ電話を掛ければ、先日のように舌が縺れ、やはり早良は苛立った。何から何まで、こと彼女に関する事柄には手際が悪過ぎる。
「たまたま都合がついた。早いうちの方がいいだろうと思って」
 言い訳がましく告げてから、約束の日時を伝える。
「来週の土曜日、夕方六時でどうだろう。君の都合は?」
『大丈夫です。空いてます』
 特に何かを確かめるということもせず、あかりは即答した。
 早良は相手に聞こえないよう、そっと安堵の息をつく。
「それなら決まりだ。その時刻になったら、君の部屋まで迎えに行く」
『え? でも、こっちまで来るのは大変じゃないですか?』
 申し訳なさそうにあかりが聞き返してくる。郊外の住宅街にある彼女のアパートと、市街地に建てられた早良の実家とは、電車で六駅ほどの距離があった。食事をする予定の店は市街地にあり、あかりのいるところまで迎えに行くのは効率が悪い。しかし彼女の住まいがあるあの近辺には目ぼしい飲食店がないのだ。まさか、先日史子と会ったあのバーに連れて行く訳にもいくまい。あかりが未成年だということを考慮すれば、場所は自然と限られてしまう。
「いや、気にしなくてもいい。車なら大した距離でもないから」
 と言った後、早良は微かに笑いながら付け加えた。
「それに君は、まだこの街の地理に詳しくないんだろう? 道がわからなくなって、辿り着けなかったら大変だ」
『そうでした』
 電話の向こうでも笑う声が聞こえる。あの笑顔が目に浮かぶようだった。
「迎えに行く。君は部屋の前で待っていてくれ」
『はい、わかりました。楽しみにしています』
 愛想のいい言葉に、早良の気分も軽くなる。既に翌週の土曜日が待ち遠しくなっていた。会えば会ったでいちいち言葉に迷い、態度に迷い、彼女をどう扱うかで思い悩み、彼女の衒いのない反応に戸惑わされるのもわかっている。それでも楽しみで、幸せで仕方がなかった。
『そうだ、早良さん』
 あかりはこの約束をどう思っているのだろう。声は嬉々としていたが、その内心までは推し測れない。同じように楽しみだと思っていてくれるといいのだが、と早良はぼんやり思う。
『お借りしたハンカチ、洗っておきました』
「あ……そうか。ええと、ありがとう」
 早良が反射的に礼を述べると、くすくす笑いが返ってくる。
『いいえ、お世話になったのは私の方ですから。ちゃんとアイロンも掛けておきました。きれいにしてお返し出来ます』
「そうか。楽しみにしているよ」
 何と答えていいのかわからず、早良はそう言った。あかりはまだ笑っている。
『はい。私、アイロン掛けは得意なんです。楽しみにしていてください』
 そうなのか、と思う。言われてみると早良は、彼女のことをまだ何も知らなかった。名前と出身、現住所に電話番号、そういった無機質な情報は得ていても、彼女自身のことは何も聞かされていない。唯一、家を出てまでこの街の大学に通い出した理由だけは知っていたが。

 ――私、この村の為になりたいんです。この村がだんだんと寂れていくのは、やっぱりちょっと悲しいから。大学へ行ってたくさん勉強して、この村を元気付ける為に出来ることを学んできたいんです。
 星を眺めた夜の、彼女の言葉がふと過ぎる。
 ――村の皆が言ってるんです。早良さんは、ここに春を連れてきた人だって。この村に明るさと元気を連れてきてくださった、早良さんのようなお仕事をしたいんです。
 それを聞かされた時、早良は面食らった。自分のあり方、ふるまいが、誰かに影響を及ぼすことがあろうとは考えもしなかった。あったとしても、自分に係わりがなければどうでもいいことだった。何とも思わないはずだった。
 しかし早良はあかりの存在に、強く心を揺さぶられている。かつての自分の面差しを彼女に見出し、彼女が自分のようになりたいと言ったことに戸惑いを隠せずにいる。ここへは来て欲しくない、自分のようにはなって欲しくないと思いながらも、それを止めることは出来ないとも思う。自分にも、他の誰にも。
 だからせめて、彼女を見守りたかった。彼女の心が歪でないうちは、見守り手を差し伸べてやりたかった。

『お気遣い、本当にありがとうございます』
 あかりが大人びた口調で言い、早良は苦笑いを噛み殺す。
「子どものうちはそんなこと、気にしなくてもいい」
『そうでしたね。じゃあ、ご厚意に甘えちゃいます』
 彼女の様子はひたすら明るく、無邪気だった。先日の涙の記憶は薄れ、どこかへ消えてしまったようだ。
 そのせいか早良も尋ねることは出来なかった。あれから、ホームシックに苛まれることはないのだろうか。大学には溶け込めたのだろうか。星の見えないこの街の生活にも慣れただろうか。それから――。
 約束の日には、尋ねてみようと思っていた。君に手を差し伸べることを許してくれるだろうか、と。
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