Tiny garden

空の片隅(4)

 早良は動けなかった。手足はもちろん、喉が詰まったように何の言葉も出てこなかった。何か言うべきだとわかっているのに、あかりに対し、それ以上声を掛けることが出来ずにいた。
 酔いのせいで辿り着いてしまったあかりの部屋の前で、彼女と出くわした。泣きながら帰ってきた彼女と。ここで起こったことの全てがあまりにも衝撃的で、どう捉えるべきかもわからない。
 元気でいるのだと思っていた。便りのないのがよい便り、との言葉通り、あかりは元気でいるだろうと思っていた。むしろ、事実はどうあれそう思いたかった。彼女が連絡を寄越さないのは大学生活を、この街での暮らしを謳歌しているからで、自分に頼る必要などないからだと思いたかった。
 なのに彼女は泣いている。涙の理由は知らない。ただ笑顔が印象的だった少女の泣き顔は、思いのほか早良の心を打ちのめした。泣くくらいなら連絡を寄越せばいいのに。気まぐれな親切心を働かせる気は、まだこちらにはあったというのに。あの手紙に一文を付け加え、名刺を入れて封をした思いは嘘偽りのないものだった。ポストに投函するまでも、投函した後もしばらく思い悩んだ。自分らしくないふるまいだったと思いながらも、しかし彼女からの連絡を待つ気ではいた。それなのに。

 ぶうんと水銀灯の唸る音だけが聞こえる。
 二人の距離は一定に保たれたまま、視線は絡まり、解けない。空気が張り詰めていくのがわかる。どんどんと密度を増し、重く圧し掛かってくる。
 冷たい光に照らされたあかりは、やがて早良よりも先に動いた。パーカーの袖で顔を拭うと、慌てて声を上げてきた。
「あのっ、早良さん。ぐ、偶然ですね、こんなところで……」
 明るく振る舞おうとする努力は垣間見えた。しかし浮かべた笑顔は引き攣り、声は微かに震えていた。華奢な身体が虚勢を張ろうと背筋を伸ばす、その動作がとても痛々しく映る。
「よく、いらっしゃるんですか、この辺りに」
 あかりの言葉に、早良はようやく反応した。乾いた声で答える。
「いや」
 早良にとって、自分のことはどうでもよかった。ただ彼女の、まだ濡れた頬と赤らんだ目元とを注視していた。
 彼女のことが気になる。はっきりと自覚していた。あかりのことが気懸かりで、ずっと連絡が来ないか待ち続けていた。元気なのだと思いたかった。そして今、現実を目の当たりにして、早良は得体の知れない感情を募らせていた。
 あかりが心配だった。どうして泣いているのか知りたかった。どうして、泣く前に自分に頼ってくれなかったのか――強く、そう思った。
 もしかするとそれも、酔いのせいだったのかもしれない。
「君はどうしたんだ」
 らしくもない早良の口調の強さに、あかりはぎょっとしたようだった。瞬きしながら目を逸らす。
「どうって、あの、私……」
「泣いていたんじゃないのか、今」
 踏み込まないつもりだった領域を、越えていた。
「何かあったんだろう。話してみなさい」
 問い詰める物言いにデリカシーはなかった。相手は子どもだ、今は子どもの顔をしている。自分は既に大人で、だから泣いている子供に親切にしてやる理由がある。自分を衝き動かしたのは大人としての責任感なのだと信じて疑わなかった。
 あかりは目を逸らしたまま、ぼそぼそとした声で応じた。
「あの、でも、早良さんにお話しするようなことじゃ……」
「いいから」
 有無を言わさぬ早良の調子に、あかりは動揺を隠さない。視線を足元にさ迷わせ、言葉を選ぶそぶりを見せる。
「でも、私……あの、本当にどうってことなくって、だから……」
 声の端がかすれた。
 瞬間、あかりは息を呑む。爪先を見下ろす瞳が揺らいで、華奢な身体が震え出す。次の瞬きでぱらぱらと涙が零れ出した。雫が一つ、二つ、アスファルトに吸い込まれていく。力なく項垂れた拍子、顔を手で覆ってしまった。
「う……」
 最早言葉も続かなくなった。

 反射的に早良は、前へ踏み出していた。
 奇妙な、しかし穏やかな感情に衝き動かされ、あかりの傍へ駆け寄った。辿り着くと迷うことなく、彼女の肩を抱き締めた。驚くほど呆気なく、頼りなげな身体が腕の中に収まった。
 あかりが僅かに身動ぎをする。
「……あ、あの……」
 涙声が何か問いかけようとしたが、やはり続きはしなかった。早良が両腕でそっと包み込むと、あかりは身動ぎを止めて、額を預けてきた。掌に、腕に伝わってくる、彼女の小刻みな震え。喉の奥で何度も何度も堪えられた嗚咽。そして、体温。
「何があったんだ。君はどうして泣いている?」
 抱き締める他になす術もない、早良が問いを繰り返す。そのことを知りたかった。どうしても聞きたかった。自分に連絡をくれなかった理由を、涙に暮れている理由を。知るまでは離さないつもりでいた。
「何も、何もないんです」
 腕の中、あかりがかぶりを振る。長い髪が早良の手をくすぐる。
「ただ、私、私は……」
 振り絞るように、やっとのことで語を継いだ。ひゅうひゅうと喉の奥を鳴らし、喘ぐ言葉が聞こえてくる。
「私……、上郷に帰りたい……」
 あかりの本心はそれだった。
 その言葉に早良は表情を凍りつかせる。それでもあかりに見えないようにと、彼女を強く抱き締め直した。今や完全に早良へと縋りついたあかりは、堪えることも止めたようだ。声を上げて泣き出した。
「帰りたい、上郷に帰りたい……お父さんとお母さんと雄輝と、知ってる人ばかりのいるあの村に帰りたい……帰りたいの……!」
 十九の娘にしては幼い泣き声だった。だからこそ、早良も抱き締めることに抵抗がなかった。彼女は子どもだ、今は。早良の腕の中で子どもに戻ることが出来た。このまま泣かせておくのがいい、それ以外に出来ることなど何もないのだから。
 初めてだった。誰かをこうして抱き締めたことも、誰かの涙に寄り添おうと思ったことも。初めてだというのに、自分でも驚くほど自然に振る舞うことが出来た。これが自然なあり方なのだと思った。歪ではない心のあり方、彼女を思い、出来た行動。
 それから奇妙な感情の正体を探った。あかりを気に懸け、案じている今、不思議と穏やかな気持ちでいる。それはどうしてなのだろう。初めて取った行動がとても自然で、それでいてどこか懐かしく感じられるのはどうしてだろう。あかりの身体を抱き締めながら、早良は思いを巡らせていた。 

 そして、やがて気付いた。
 彼女は自分と似ているのだ。――かつての自分に。
 昔、世界に存在する全てのものがきれいで、優しく、決して自分を裏切らないのだと信じ込んでいた、あの頃の早良と。親に敷かれたレールを意識し、辿るうちに心を歪ませていった早良の、昔の姿と。
 志筑史子が今の自分に似ているのなら、宮下あかりはまるで昔の自分だ。その目にきれいなものだけを映し、無邪気に人を信じ込み、新しいものを恐れずに受け入れて、子どもの世界を飛び出していこうとするかつての自分だ。かつては早良も子どもだった。過去には友と呼べる相手もいたし、自分がどういう家に生まれ育ち、この先の未来にどんな運命が待ち受けているかなど深く考えもしなかった。
 目に映る全てのものを無邪気なまでに信じ込み、早良は新しい世界へ飛び込もうとした。そうして大人になる過程で現実を知り、世界の本質を知り、自らの立場をいやと言うほど思い知らされた。軋轢の中で心を歪にし、摩滅させ、やがて麻痺する行く末を予感している。何よりも思い通りに出来る自分の心を、冷たく鈍磨させようとしている。
 それはこの世の理なのかもしれない。大人になる過程でたくさんのことを知り、引き換えに別のたくさんのものを失い、心は変質を遂げていく。誰にも避けようのない、何よりも強く抗えぬ運命なのかもしれない。
 だが、あかりにはここへ来て欲しくなかった。星の見えないこの街へは、自分のいるところへは来て欲しくなかった。自分のようにならなければいいと思った。失われないものであって欲しい。彼女の、伸びやかな性質は。

 腕の中で泣きじゃくるあかりを、早良はずっと支え続けた。両腕で包み込みながら、初めて味わう奇妙な感情を見つめていた。不思議と穏やかで、懐かしく、どこか甘い。――場違いな感情だった。
 星のない空の下、大きな街のほんの片隅で抱擁し合う二人を、誰も知らずに、気付かずにいる。この街に暮らす大多数の人間からすれば、ごく些細な瞬間に過ぎないはずだった。
 しかし早良にとっては、そうではなかった。
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