Tiny garden

空の片隅(3)

 その後、話は特に進展しなかった。互いの胸中を確認し、曖昧に約束し合っただけでその夜は終わった。これ以上話を進めるには、互いの父親にも掛け合わなくてはならないことを、二人ともよく承知していた。
 じっくり話すべき相手は、今はまだ別のところにいるのだ。

 二人揃ってバーを出たのは、夜九時を回った頃のことだった。
 大きな通りまで出てからタクシーを拾い、早良は史子だけを先に乗せた。早良が乗り合わせないことに、史子は目を丸くしていた。
「早良くん、乗っていかないの?」
「ああ。少し酔いを醒ましてから帰りたくて」
 そう答えると、一瞬寂しそうな顔をしたものの、史子は早良を引き止めなかった。後部座席に寄り掛かり、気安い挨拶を告げてきた。
「そうなの……じゃあ、またね、早良くん」
「ああ、気を付けて」
「今日は会ってくれてありがとう。またね」
 繰り返された、またね、という言葉が重い。次に互いと会う時、状況はいくらかでも好転しているだろうか。今日の会話で明るい材料が見えた訳でもなく、早良と史子の間にはまだ明らかな緊張があった。早良にとっては苦々しい思いも、消えずに心の片隅にあった。
 タクシーのドアが音を立てて閉まり、みるみるうちに遠ざかる。手を振る史子が一瞬だけ認められた。すぐに他の車が放つ光に紛れ込み、テイルライトが通りの向こうまで連なっていく。それを見送って尚しばらく経った後、ようやく早良は歩き出す気になれた。
 夜風がほろ酔いの頬に心地良い。今夜の酒量はそれほど多くなかったが、考えることが多過ぎてかえって酔いを加速させたようだ。歩き慣れない夜道をぼんやりと辿る。

 考え事をしたかった。まだまとまり切らない、とりとめのないことばかりだが、少し考えてみたいと思った。
 自分のことも、史子のことも、互いの父親の思惑のことも。
 史子があんなことを言い出すとは思わなかった。彼女が自身の父親に逆らおうとすることがあるなどとは。まだ逆らった、と言えるほどのものではないが、直にそうなるのかもしれない。或いはやはり、父親の意向によって挫かれ、運命に従うことを選ぶのかもしれない。史子の胸のうちは早良にはわからないが、似ている、とは思う。
 思えば、史子に抱く嫌悪の情は、そのまま自己嫌悪でもあるのかもしれない。早良が自分自身の歪さに抱く嫌悪や疎ましさを、史子にも見出し、遠ざけたいと思ってしまうのだろう。父親には逆らえず、敷かれたレールの上から外れる勇気も持てず、しかし密かに反感のような鬱屈とした感情を抱き、現在の自分には疑問を持ちつつもまだ向き合うことは出来ていない――二人は確かに、よく似ていた。
 自分自身と似ている相手に、恋愛感情を持つことが出来るだろうか。史子を妻に迎えれば、間近で鏡を覗き込むような圧迫感に息苦しくなり、お互いに心を磨り減らしていくこととなるだろう。近くにいればいるほど疎ましく、よい感情は抱けそうになかった。史子を見ていると、まるで自分を見ているようで苛立たしい。共感は覚えても、相容れる存在ではないと思った。きっと、史子も同じように思っているだろう。彼女も早良には恋愛感情を持ち得ない。互いが似ていることに気付いているのかもしれない。
 早良は、一人でもいいと思っていた。一人きりでいる方がずっといい。煩わしさも苛立ちも疎ましさもない暮らしの方が、自分の性にあっているはずだった。誰も必要ではなかった。結婚をしなくても生きていけるだろうし、仕事の面でも支障はないだろう。口うるさく言われる機会だけは消えないが、そんなものはこれまで同様やり過ごせてしまえる。自分自身の気持ちを手懐け、従え、思うとおりにすることはとても容易い。一人きりでいれば装う為の鎧はより堅固なものとなり、歪な心は表に出さぬまま、しまい込んでおけるだろう。
 しかし現実にはどうなるか。叶うとも知れない願いではある。孤独でいることさえ許されない、それがレールの上にいるということだ。ならばどうするのか、早良にはまだ答えも見えていない――。

 とりとめなく考え、歩き続けて、どのくらい経った頃か。早良はふと足を止め、顔を上げる。途端にはっとした。
 気が付けば視界には見覚えのある景色が広がっていた。とっぷりと暮れた夜、郊外にある住宅街の一角。家々の窓明かりがぽつぽつと灯る中、目の前のアパートだけはどこにも照明が灯っていない。息を潜めたようにひっそり静まり返っている。星の見えない都会の空の下、人の気配のないアパートの前で、早良は思わず声を上げた。
「ここは……」
 ここは、あかりの住む部屋だ。彼女の部屋にも電気は点いていない。不在か、もう寝ているのだろう。
 しかしどうしてここへ辿り着いてしまったのか。望んで足を運んだ訳ではない、と思う。ただ土地勘のあまりない一帯で、見覚えのある景色を辿るうち、ここに行き着いてしまったのだろう。酔いのせいで判断力が低下していたのも事実だ。ここへの道は何となく覚えていた。あかりが教えてくれた道順を、あの夜の彼女の表情と共に忘れられずにいた。
 無意識のうちにあかりの暮らすアパートへ足を運んでいた。そのことに、早良は酷く動揺していた。一度きり、彼女を送り届けただけのこの場所へ、ふらりと辿り着いてしまったことに。
 会いたかった、訳でもない。会いたいと思うはずがない。いや、むしろ会ってはいけない。あの手紙が無事に届いていて、それでもあかりからの連絡がないのは、彼女が早良の助力を必要としていないという意味だからだ。ならば手を差し伸べる理由もない。彼女とて、気安く早良に縋ってくるような人間でもないだろう。
 気に懸かっているのは事実だ。彼女があれからどうしているか。大学には溶け込めたのか、友人は出来たのか、上郷にいた頃のような笑顔でいるのかどうか、確かに気懸かりではある。だがそれを確かめる必要はない。早良は部外者で、赤の他人だ。気まぐれに親切心を働かせることは許されても、積極的に関わろうとすることは許されない。たとえ彼女が気になっているとしても、部屋を訪ねていくことは出来ない。電話番号も知らない。あの手紙を受け取り、彼女の心に僅かでも余裕が生まれることがあったのか、知る由もない。
 どうして、あかりのことが気になるのか。暗いアパートの前で立ち尽くし、早良は自問する。自身の中の知らない感情を見せ付けられたようで愕然とする。ここへ来てしまったのも偶然だ、会いたい訳じゃない、そう言い聞かせてみても動揺は激しく、なかなか立ち去ることが出来ない。
 あかりに対して、史子に抱くような嫌悪を感じたことはない。他の女たちに対する蔑みを向けようとも思わない。同情めいた思いを持つことさえあった。それはなぜか。あかりが大人になりきらず、まだあどけない一面を残しているからなのか、それとも。

 早良は深く息をつき、動揺を押さえ込もうと努めた。それからひっそりしたアパートに背を向け、足早に立ち去ろうとした。彼女の部屋はすぐ眼前にあるが、尋ねて行く気にはなれなかった。視界から排除しようと路地を歩き出した。
 その時、路地の向こうからゆっくりとした足音が聞こえてきた。引き摺るような足取りだった。水銀灯の冷たい光の中、浮かび上がるように人影が見えた。ちょうど早良の向かう方から、手で顔を覆い、誰かがのろのろやってきた。見覚えのあるシルエットは、長い髪を下ろした少女。パーカーにジーンズの野暮ったい服装が遠目にも窺える。
 はたと気付き、早良は唇を引き結ぶ。顔を見なくとも現れたのが誰かわかった。しかしそのこと以上に、彼女の状態に衝撃を受けた。
 引き摺る足音に紛れて、啜り泣きが聞こえる。彼女は泣いていた。押し殺した声で泣きながら、こちらへと近づいてくる。
「あかり、さん……?」
 早良は、無意識のうちに彼女の名を呼んでいた。
 夜道の途中で人影が立ち止まる。手で覆っていた顔を上げる。表情が視認出来る距離にいた、恐らく彼女の方からも。
「え……さ、早良さん……」
 あかりがその身体をびくりと震わせた。水銀灯の下、涙でぐしゃぐしゃになった顔が見えた。
 静謐な夜の空気の中、二人は互いの顔が見える距離を置き、呆然と見つめ合った。

 人気のない路地、郊外にある住宅街の一角、ひっそり静かなアパートの前。そこは時が止まってしまったようにしばし、何も動かなかった。
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