Tiny garden

空の片隅(2)

 意外だった。史子の方からそう言い出すとは思いもしなかった。
 彼女が、早良との結婚を望んでいるだろうと思ったこともない。付き合いこそ長いものの、彼女が自分に恋愛感情を抱いているようには見えなかった。
 ただ、彼女は誰より父親に従順だった。その意向に逆らうことがあるとは想像もつかなかった。彼女なら、間違いなく父親の言いつけどおり、黙って早良との結婚を選ぶだろうと思っていた。現に拒絶の言葉を口にされた直後では、耳を疑う暇もないのだが。
 史子はエスカレーター式に高校まで進学しておきながら、大学だけは系列の違うところへ入学した。会社を継ぐ為、より最適な大学を選んだ早良と、全く同じ進路だった。それも全て彼女の父親の意向なのだろうと窺えた。早良と同じ学部、同じ学科で同じゼミを専攻し、サークルまでもが同じものに揃えられていた。恋敵と悪い虫を同時に排除しておきたいという志筑議員の狙いがあったのだろうが、そこまでされておきながら、史子自身は他の女性と早良との仲を取り持とうとしていたのが皮肉だ。そして早良が志筑家の父と娘、両方に好感を持てなかったことも、或る意味近過ぎた距離のせいと言えた。これまではどんな計らいも、史子と早良の心を動かすことはなかったのだ。
 そして今、史子は運命を拒絶しようとしている。

「随分、驚いた顔をするのね」
 早良を見て史子は笑ったが、その声は震えていた。早良ははっと表情を戻し、溜息混じりに応じる。
「いや、君でもお父さんの言いつけに逆らいたくなることがあるのか、と思ったんだ」
「ええ……確かに、滅多にないことでしょうね。もしかすると、初めてかもしれない」
 不安の色濃い表情で、史子は続けた。
「でもね、最近、考えてしまうの。私、このままでいいんだろうかって。このまま父の言いなりになって、結婚まで決めて貰ってもいいんだろうかって、不安になるの」
 狂いなく敷かれたレールの上は安全だ。脱線さえしなければどこまでもどこまでも平穏な暮らしが出来るだろう。平穏で平坦過ぎるあまり、持て余した心が歪になってしまうだろうが、それでも。
 早良が反応に迷っていると、史子が慌てたように言い足した。
「あ、でも、勘違いしないでね。早良くんのこと、嫌いだって言ってる訳じゃないの」
「わかってる」
 頷く。今までは別に嫌われていても構わなかったが、これからはそうもいくまい。
「嫌いじゃ、ないから。いいお友達だって思ってるの」
 史子は重ねて言い、その後でかぶりを振る。
「でも……やっぱり恋愛感情じゃないもの。早良くんと結婚して、家庭を築いて、なんてちっとも想像出来ない」
「俺もだよ」
 これだけは本音を、正直に告げた。史子が笑う。
「そうでしょう。今までずっと、仲のいいお友達で来たものね。それに私、早良くんのことを好きな子がいるの、知ってるから。たくさんいるのをわかっているから……そういう子たちのことを考えたら、私が結婚なんて出来るはずないじゃない?」
 史子らしい言い分だ、と早良は思った。仲立ちが好きな彼女らしい。学生時代から、彼女が『紹介』しようとしてきた女の数は夥しい。頼まれると断れない性格を利用され、早良の気を引かせようとする彼女を、滑稽だという思いで見てきた。そんなことをされても、どんな相手を連れてこられても、早良の心が動くはずはないのに。
 だが、どうやら史子の心は動いたらしい。早良にとっては予想外の形で。
「だから私、どうしていいのかわからなくて……父の気持ちもわかるけど、結婚なんてとてもじゃないけど……」
 目を伏せる史子は、こうして見ると美人だと言えた。人形のように整った、上品な顔立ちをしていた。だとしても、早良の心は動かない。彼女を妻にしたいと思うことはない。
 では、妻にしたい女とはどういうものか――ふとそんな疑問が浮かんだ。酔いも回らぬうちから考えを巡らせてみたが、頭が上手く働かなかった。そんなものはない。妻にしたくなるような女など、どこにもいるものか。どんなによい条件を突きつけられても、他人と人生を共にしたいなど、思えそうになかった。一人の方がよほどいい。気を遣わずに済むし、相手の反応に苛立つことも、気を揉むこともなくなる。一人でも困ることはない、と早良は思っていた。そんな自分に、人生の伴侶が必要になる時は来るだろうか、と。
 折りしも、史子が尋ねてきた。
「早良くんは、好きな人っていないの?」
 問いの気安さに、早良は思わず苦笑した。
「……いや。仕事が忙しくて、そんな暇もないんだ」
 嘘ではない。仕事以上に心を傾けられる存在は、早良にはなかった。ましてや他人に執着することが起こり得るとは思えなかった。
 唯一、――心を傾けた訳でも、執着した訳でもないが、親切心を働かせたくなった相手はいた。あまりにも哀れで、心許なく見えて、一度きり気まぐれに心遣いを向けてみた。それに対する反応はなかったので、恐らくごく些細な、取るに足らない親切だったのだろうが、例外と言えば例外だった。どうせすぐに忘れ去るような唯一の事例は、つい最近のことだ。
「そう。早良くんのことを好きな人は本当にたくさん、いるんだけどね。早良くんの奥さんになりたがっている子も、たくさんいるのに」
 史子はやや残念そうに言ってみせた。
 しかし彼女の知る『たくさんの』女の中に、早良に対して純粋な好意だけを向けている相手がどれほどいるのだろう。羨望も嫉妬も剥き出しの欲望も、隠され切れない打算も、全てを目の当たりにしてきた早良にとって史子の言葉は到底信じられるものではない。
「あいにく、縁がないみたいだ」
 早良は言い、不快な自身の話題を打ち切るべく、軌道を修正した。
「だが、君の意思は尊重するよ、志筑さん」
「え?」
「君が望まない結婚をするのは申し訳ないからな。俺も少し、真剣に考えなくちゃならないだろう」
 少量のアルコールは頭を冴えさせるようだ。早良もようやく、この状況と向き合う気になれた。これまでは誰かの意向も史子の存在も、運命だから仕方がないのだと目を背け続けてきたが、史子が本心を明かした以上、早良も黙っていては損だろう。運命から抗い、お互いに望まない結婚をせずに済む方法を考えるのが建設的だ。叶うのならば、の話だが。
 まだ、自分の気持ちを従わせる方が容易い。そうも思っている。
「望まない、というか……」
 史子にもまだ躊躇があった。
「まだ、はっきりは言えそうにないの。私の気持ち、父には言えない。でも漠然と思うの、このまま父が導いてくれる通りに生きていくだけでいいのかなって。結婚なんていう大切なことまで、人に決めて貰う人生でいいのかなって」
 それが人生だと、早良は思っていた。早良も、史子も同じように思っていた。親の敷いたレールの上を外れることは許されない生き方。しかし平穏で、平坦で、波風の立たない幸せな人生。
 だが結果として、延々と続くレールの上で早良の心は歪になり、史子もまた父親への疑念を抱き始めている。では、正しい生き方とはどんなものだろう。幸せな人生とはどんなものだろう。レールの上を外れる時、それは容易く手に入るのだろうか。どこへ行くのかも決められないうちから、手に入れられるのだろうか?
 どこへ行きたいのか。早良にはそれがわからない。どこへ行き、どのようになり、何が欲しいのか。それらがちっともわからない。ただ焦燥と苛立ちだけを覚えている。自分ではないもの、自分にはないものが欲しい。レールの上を走るだけでは手に入らないだろう、何かが。
「だから、早良くんの気持ちを聞いてみたかったの」
 史子は不安をあらわにした微笑で、言った。
「もしこの先、父が強引に話しを推し進めたら――お互いに後悔することにもなるんじゃないかって思ったから。そうじゃない? 今はお互いに結婚なんて考えられないんだものね」
「そうだな」
 曖昧に早良は応じる。
 考えられない、それは確かだ。だがその為にはどうするべきなのか、良案は浮かばない。
「私ももう少し、考えてみる。早良くんの気持ちもわかったし、きっと、何となく放ったらかしにしておいたことと、向き合わなきゃいけない時期が来たのね。だから」
 酔いのせいか、史子は普段よりも饒舌になっていた。
「何かあったら、また連絡するわ。父とも、折を見て話をしてみる。聞いて貰えるかどうかもわからないけど……何もしないよりましよね。私たちには結婚は早過ぎるって、わかって貰いましょうよ」
 どこか楽観的な響きがある彼女の言葉を、早良は複雑な思いで聞いていた。史子のことで、自分の父親と話すことに抵抗があった。早良と史子との結婚を望んでいるのは、早良の父親とて同じ。やはり聞く耳があるとも思えなかったが――。
「わかった。俺も、機会があれば話してみることにするよ。何かあれば連絡する」
 いい意味での連絡が出来るようには思えなかったが、ともあれ早良は言った。
 それで史子も息をつき、
「ありがとう、早良くん。私の話、わかってくれて」
 装う必要のない安堵の表情を見せた。それは、これまでに見せられた表情に比べると、存外不快ではないなと早良に思わせた。自分に良く似た史子という存在を、今は複雑な心理で見つめていた。
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