Tiny garden

空の片隅(1)

 郊外に広がる住宅街を抜けた辺りで、早良はタクシーから降りた。
 走り去る車のライトを見送らず、ゆっくりと周囲を見渡す。宵空の広がる街並みは静かで、通り掛かる人もほとんどいない。
 眼前に建つ背の低い雑居ビルも、まるで廃墟のようにひっそりとしていた。汚れた看板、ひび割れたコンクリの壁。入り口に照明が灯っていなければ足を踏み入れることさえ躊躇われる佇まいだった。しかしこの中にあるバーで、志筑史子が早良を待っている。彼女のように育ちのいい娘がこんなところに出入りしているなど、早良にはいささか予想外だった。
 もしかすると彼女は、警戒しているのかもしれない。父親のことを、彼女の父親の目に、今日の約束が触れることを。だからあえて郊外の、寂れた一角にある店を指定してきたのだろう。早良もそこまでは察していたから、送ると言った秘書のにやにや笑いを撥ね付け、タクシーでここまでやって来た。

 この数日、早良の胸裏はすっきりとしなかった。史子のしたがっている『話』がどんなものか、読めていることが一つ。ただでさえ会うことに気の乗らない相手である史子と、更に憂鬱な話をしなくてはならない事実が重く圧し掛かっている。どうせ逃れられない運命なのだろうとわかっていても、いざその事実を眼前にすると息苦しい思いがした。自分も、史子も、それぞれの親の言うことには逆らえない。だから抗うことなど出来やしないのだ。
 きっと、史子は言うだろう。――自分は親の言うことには逆らわない、と。その上で早良の意思も尋ねてくるつもりかもしれない。恋愛感情も持たない同士が、周囲の意向を汲んで自ら一緒になろうとする様子は、歪で不自然なものにしか映らないだろう。それでも彼女は、自分は、運命に従うことを選ぶだろう。
 歪さなら、早良自身にも同じことが言える。自身の不健全さはとうにわかっていた。冷たく冴え冴えとした心がぽつんとあり、そこに誰も寄せ付けまいとする早良は、完璧に見えてその実、酷く不完全な人間だった。才能には恵まれていたから、何でも思うとおりにすることが出来た。周囲の評価も、仕事も、本音を押し隠すことも、そうして装う日々に慣れてしまうことも。だから、もし史子と結婚することになっても、慣れてしまえるような気がしていた。繰り返し装い続けていれば、感覚は摩滅し、やがて何も感じなくなるほどに麻痺してしまえるような気がした。

 春風はほんの僅か、新月の頃よりも温んでいた。ぽつぽつと水銀灯の光が連なる街並みを眺めやり、早良はふと眉を顰める。
 ここは、以前通った道だ。あかりを彼女の部屋へ送り届ける途中で――もう少し先へ行けば、彼女のアパートも見えてくる。車で行くよりもずっと、徒歩ならば時間も掛かるだろうが、彼女の住まいはそこにある。
 彼女はどうしているだろう。
 考えかけて、しかしすぐに止めた。あれきり一度としてあかりから連絡はなかった。手紙の返事もなく、街中で偶然出会うということもなかった。彼女がどうしているのかは窺い知れない。住まいは知っているが、尋ねて行く訳にもいかない。そもそも早良にそこまでの思いはなかったが。
 慣れない親切などするものではなかった。早良は、そんなことを思い始めていた。連絡が欲しい訳ではなかったが、こうして彼女の様子が気になるのも、手紙に添えた慈善事業のような一文のせいだった。いつ来るか、来るのかどうかももわからないような連絡を何気なく待っているのは苦痛だった。名刺を同封しなければ、僅かにも待つ気など起こらなかったのに。あかりの性格なら、不用意に連絡も寄越さないだろうし、手紙も一往復で止めてしまうだろうとわかっていたのに。
 すっきりとしない気分の要因はそのことにもあった。こちらはあまり認めたくもなかったし、直に忘れてしまうようなものでもあるものの。所詮薄っぺらな厚意でしかないのに、それをやんわり退けられたくらいで鬱屈とするのも自分らしくない。
 溜息を一つつき、早良は通りから視線を外した。再度、目の前のビルに向き合う。無造作に髪をかき上げてから、ようやく中へと立ち入った。

 軋むドアを開けると、薄暗い店内が視界に入る。さほど広くない。剥き出しのコンクリの壁は、照明の色味のせいか落ち着いた雰囲気に見え、外観から想像させるよりも居心地は良さそうだった。
 店内に客は史子一人だ。カウンター席の端に座っていた彼女は、現れた早良を見るなり、ほっとしたような微笑を浮かべた。早良も笑みを返し、隣のスツールに腰を下ろす。低い声で挨拶をしたバーテンダーは面差しの若い男だった。
 早良が注文を終えると、すぐに史子が口を開いた。
「来てくれて、ありがとう。お仕事忙しかったんでしょう?」
「まあな。でも何とか都合がついた。有能な秘書がいるから」
 最後の言葉には、心中で密かに嫌味を付け加える。あの男は本当に有能だ。今夜の予定についても勤務時間外のことだというのに、お節介じみた言葉を掛けてきた。曰く、待ち合わせをしているなら急いだ方がいいですよ、だの、自分がお送りした方が早く着くでしょう、だのと――内田は気付いていたのかもしれない。今夜会う相手が史子だということを。
「内田さんはよく働いてくださる方だものね」
 何度か顔を合わせたこともあるが、史子の方は内田に悪感情もないらしい。穏やかな声音でそう言って、語を継いだ。
「急に予定を入れさせてしまったから、申し訳ないなって思ってたの。ごめんなさい、本当に」
 その言葉の後、ふと彼女の表情が陰る。手元のグラスに視線を落とし、躊躇うような間を作った。
 控えめな音を立て、早良の前にもグラスが置かれる。しかし乾杯をする空気ではなく、早良はグラスを手に取るとまだ口は付けずに、慎重に切り出した。
「話があるって言ってたな」
「……ええ」
 史子が頷く。
 ちらと早良の方を向き、表情だけは和やかに言った。
「あ、ええとね。こちらのお店の方、大学のサークルの後輩なのよ。だから話をしても心配、要らないから」
 バーテンダーが小さく会釈をした。早良はその顔に覚えがなかった。すかさず史子が言い添えてくる。
「二年後輩だった狩野くん。今はここに、一人でお店を構えてるんですって」
 狩野と呼ばれた男は、史子の言葉にはにかむような笑顔を見せる。早良はやはり彼のことを思い出せなかったが、当たり障りなく答えた。
「人数の多いサークルだったからな。覚えておくようにする」
「よかったら早良くんも、贔屓にしてあげて」
 愛想よく言った後、史子は急に声のトーンを落とした。
「それでね、……電話で言った話だけど」
 途端に、二人の間の空気が張り詰める。カウンターに並んで座る距離は近く、肩が触れそうなほどだったが、その僅かな隙間にさえ明らかな緊張があった。史子は何度か息を呑み、繰り返し躊躇うそぶりを見せながらも、遂に自ら言葉を継いだ。
「うちの父が、どうやら勝手に……話を進めようとしているらしいの」
「君の、お父さんが」
 早良はそう言葉にする時、嫌悪の情を表さないようにする為、いささか苦心した。努力は効を奏したか、表向きは淡々とした声に聞こえただろう。史子も苦笑いで続ける。
「ええ。知ってるでしょうけど、うちの父は――私を、あなたと結婚させたがっているから」
 やはりか、と胸裏で呟く。いよいよその時が来たのだろう。早良は重苦しい圧迫感に思わず呻きかけたが、すんでのところで堪える。
「近々ご挨拶をしなくては、って言ってるわ。私を遊ばせておくのもそろそろ限界だと思っているみたい。確かに、年齢的には考えなくちゃいけない頃って言われているものね」
 史子が首を竦める。その拍子にネックレスが音を立てて揺れ、早良の視界の隅で瞬いた。
「あなたは何も言われてない?」
 問われて、早良は無難な答え方をする。
「多少は言われることもある。周囲がどれだけ期待を掛けているのかもわかるからな」
「そうね」
「やむを得ないのかと思う、幾らかはな」
 諦念が声を陰らせる。早良はグラスの酒を味わいながら、場の気まずさをやり過ごしていた。史子が度々言葉を躊躇うので、どう受け答えしていいものか、いささか戸惑っていた。
 史子はグラスに手を添えたまま、じっと早良を見つめた。物問いたげな表情の裏に、どことはなしの不安が見え隠れしている。
 育ちのいい彼女は装うことが下手で、そのくせ他人を気遣いたがる。自分のことを二の次にする態度は、早良にとって好ましいものではなかった。逆に押し付けがましい、逃れられない厚意のようにも思えた。早良を待ち受ける、表向きは絵に書いたように美しい運命そのものにも。
「ねえ」
 嘆息しながら、史子は言った。
「早良くんは、いいと思ってるの? 私たちが結婚させられてしまうこと……」
 視線がぶつかる。早良は眉一つ動かさずに答えた。
「お互いの親の為には、いいことだと思ってる」
 すると史子はふと眉尻を下げて、
「そうじゃなくて……早良くんの気持ちを聞いてるの。結婚だなんて、考えたことあった?」
 それならば答えは出ている。考えることはある。だが、望んだことは一度としてない。史子だけではなく、他の誰とも結婚など望まない。
「いや、明確にはないな。まだ早いような気もするし」
 無難な答えだけを選び、早良がかぶりを振る。
「そうよね……」
 史子は微かに笑んだ。それからまた、手元のグラスへ目を向ける。小さな水面の揺れるグラスを持ち上げると、史子はそっと口を付けた。
 アルコールの力を借りようとしているのだろうか。一口、二口と飲んでから、やがて彼女はグラスを置いて、もう一度早良の方を向く。おもむろに言った。
「私ね。正直なところ、父の言うとおりにはしたくないの」
 史子の言葉に、早良は瞠目した。
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