Tiny garden

新月の頃(1)

 四月に入ってすぐ、早良の元には二通の手紙が届いた。
 どちらも自宅ではなく、勤務先に名指しで送られてきた。
 送り主は上郷で出会ったあの姉弟だ。あかりと雄輝。中身は、筆致と文体こそ違えど同じで、上郷の古い公民館の件について、早良が村人たちへ働きかけてくれたことへの礼状だった。

 早良が上郷の公民館の件で、企画書をまとめて提出してすぐ、村では話が動き始めた。元々あった公民館に深い愛着を持つ村人も少なくはなく、やはり雄輝たちと同じように壊すのは忍びないという考えも根深かったようだ。早良の試算でも、維持に掛かる経費は予算のぎりぎりといったところだったが、何とか折り合いを付ける方向で話が進んでいる。もっとも、新公民館が落成し、旧公民館修繕費用の目途が立つまでは一時閉鎖する形になりそうで、その点だけは力になれないことが申し訳なくもあった。あの古い佇まいを、親しまれてきた公民館を守る術は、今や村人たちに委ねられたのだ。
 だから、礼を言われるようなことではない、と早良は思っていた。送られてきた礼状には目を通したものの、面映さを隠し切れずにいた。そのせいで返事を書くのも躊躇われた。
 雄輝の、かなくぎ文字が並ぶ手紙は小学生らしい文面だった。最初だけしかつめらしく用いられていた敬語は結びの方になると影を潜め、最後には、
『またいつでも遊びに来いよ! 今度はもっと面白いところに案内してやる』
 と添えられていた。次は仕事で行くことになるだろうから、そんな暇もないだろうと、早良は僅かに眉根を寄せた。
 あかりからの手紙は、丁寧だった。高校生らしからぬ折り目正しい敬語を用いて、隙のない感謝を述べていた。しかしそれとは対照的に、小さく丸みを帯びた少女らしい文字を並べているのを眺め、早良は更に眉を顰める。あかりの手紙の印象は、初めて会った時とものとまるで同じだった。大人の女とも、少女ともつかぬ人物――彼女からの手紙を読み返す度、上郷で交わした短いやり取りと、その時に抱いた奇妙な動揺を思い出し、落ち着かない心持になる。
 振り返るとあの一夜の出来事は奇妙だった。どうしてここまであの娘の印象が、深く心に刻み込まれているのか。冷静になって考えてみても、早良には皆目見当も付かない。ただ無意識のうちに思い出す度に、彼女と話した時の動揺をも思い起こして、何とも心地が悪くなった。
 更に早良を戸惑わせたのが、あかりの手紙に記された、彼女の現住所だった。春から大学生になるのだと言っていた彼女は、手紙を現在の居住地から送ってきた。上郷ではなく、早良の住んでいるこの街から。
 この街に来ているのか、彼女が。
 ――そう思うと早良の心はざわめいた。上郷で話した時、彼女は何も語らなかった。この街へやってくるのだということも、どこの大学へ通うのかということも。だから早良は何も知らずにいたし、同じ街に住むことになるなどとは考えもしなかった。
 あかりからの手紙にも、それ以上のことは触れられていなかった。あくまでも公民館の件に対する感謝と、また是非上郷にお越しください、とありきたりの挨拶が添えられていただけだった。送り先を記す時、早良の勤務先の住所にも当然気付いただろうに、そのことについては何も書かれていない。上郷で過ごしたあの一夜、彼女は『またお会い出来たら』と早良に言ってきたのに、この街でも会えたら、という言葉は全く見当たらなかった。やはりあれは、社交辞令だったのだろう。
 早良は僅かに落胆していた。しかし多少なりとも落胆している自分自身に気付いた時、動揺し、すぐに馬鹿げていると思い直した。あんな小娘の言動に一喜一憂させられているのは滑稽だった。別に、あの娘にどう思われていようが、社交辞令を使われていようが、何があるという訳でもないのに。大体、普段から社交辞令を使いこなし、心にもない言葉を並べては内心で冷めた眼差しを送っているのは早良の方だ。他人に対する不信の思いに囚われ、うわべばかり作りたてた言葉を口にし続けているのは、早良自身だ。それが、他人に社交辞令を用いられたくらいで動じてしまうのでは全くおかしな話である。
 きっと、雄輝のことがあるからだろう。彼からの手紙は衒いのない真っ直ぐな言葉で書かれていて、早良ともまた会いたがってくれている様子だったから、ついそれと比較してしまったのだろう。あかりは子どものようだが、その実ただの子どもではない。雄輝と同じように幼い感情をそのまま手紙にしたためてくることなど、するはずもない。
 受け取った二通の手紙を、早良は手帳に挟み込んだ。そして一週間もそのままにしている。返事を書くことを忘れないようにとそうしていたのだが、実際二人に返事を書くことはなかなか出来ずにいた。面映さに、何と答えていいのかわからなかった。雄輝はともかく、あかりが返事を望むように思えなかったのも、その一因だった。

 そうこうしているうちに職場では、新年度らしい多忙の波が押し寄せてきて、早良はしばらくの間、仕事に追われる日々が続いた。
 早良は仕事に打ち込むのが好きだった。他の何よりも好ましく思えていた。ひたすらに熱中し、そのことだけに心を傾けていられるのが唯一の幸いだと思っていた。仕事中毒気味の早良は、そうして職務をこなすことでのみ、心底にある澱んだ思いを忘れていられるのだった。父親から与えられた仕事、そのものに対する疑問も、擦り寄ってくる人々が自分の肩越しに父親を見ているという事実にも、自分自身のこれから先に待つ未来についても、全て深く考えずに没頭することが出来た。それが一番自分らしいあり方だと、自身で信じて疑わずにいた。
 そして今、くすぶり続けている違う思いについても、多忙さの中で忘れてしまえることを期待している。あかりのことを考えずにいられるように。上郷でたった一度出会っただけの、大人の女とも少女ともつかぬあの奇妙な存在に、心惑わされることのないように。彼女のことを考え始めると、とりとめもなく思いは膨らんだ。何か実のある考え事ではなく、ただ漠然と、奇妙な娘だと思い続けていた。短い言葉のやり取りの間に、あんなにも戸惑わされ、ペースを乱されたのは初めてだった。初対面の相手にこうまで関心を持ち、別れた後もしばらく考え続けていることも初めてだった。要因が何であるかはいまだにわからない。ただ、もう二度と顔を合わせたくない相手であるのは確かだった。再び会えば、きっとまた同じ思いをする。彼女の二面性に、捉えどころなく変化する表情についていけなくなる。ごくさりげない気配りや礼儀正しい言葉に動じ、ふとした瞬間向けられた無邪気な笑顔が、記憶からこびりついたように離れなくなる。あの晩ぶつけられた真っ直ぐで、熱っぽい言葉の数々が心を捉えて、今度こそ完全に忘れられなくなる。長い髪が揺れるさまも、敏捷そうな身のこなしも、彼女の純粋無垢な眼差しも、今以上に早良の心のうちから消えず、残り続けるに違いない。だから二度と会いたくはなかった。
 彼女とて、いつまでも純粋なままでいられる訳ではないのだ。この街にいれば必ず、心は摩滅し、無邪気さは鳴りを潜め、抱いた熱はいつしか引いていく。次に会う時はもうあの頃の彼女ではなくなっているだろう。早良の厭う、大人の女になっていることだろう。
 だが現に、あかりはこの街にいる。上郷とは比べ物にならないほど人口の多い地方都市で、偶然出くわす可能性は低いと思われたが、それでも早良は落ち着かなかった。もしもう一度出会ってしまったら、上郷での時と、まるで変わらない彼女を見つけてしまったら――早良はその不安を掻き消す為だけに、ひたすら仕事に打ち込んだ。

 幸いにも、早良が抱えているのは上郷での仕事ばかりではない。むしろ上郷の新公民館建設は何のトラブルもなく進められていて、早良が足を運ぶ回数も減ってきていた。上郷へ足を運ぶ度にあかりのことを思い出してしまうから、訪れる機会が減ったのはありがたいことでもあった。
 仕事で方々を回り、様々な人間と接するうちに、忘れてしまえるだろうと思った。早良の中に、あれだけ鮮烈な印象を残した彼女のことを、直に思い出さなくなるだろうと考えていた。今までだってそうだった。好悪どちらの面でも、強く印象に残る相手はいても、時間の経つうちに記憶から薄れ、いつしか消えてしまっていた。誰かに執着することはなかったし、したいとも思わなかった。残っているのは忌々しくも突き放せない相手と、どうでもいい存在の希薄な相手ばかりだ。それでいいのだと、早良は思っていた。

 そして、そんな日々を送る合間のこと。
 早良にとって突き放せない相手の一人である、志筑史子から電話が掛かってきた。
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