Tiny garden

新月の頃(2)

『この間話した、同窓会のことなんだけど……』
 電話の向こうで史子は、おずおずと切り出してきた。
 携帯電話を持つ手が重い。早良は停めた車の窓ガラスに肘を当て、忌々しさに眉を顰めた。しかし声は穏やかに応じる。
「ああ、覚えてる」
『皆に、早良くんが欠席するってことを言ったの。そうしたら、皆は本当にがっかりしてて……それで、時期をずらして、もう少し早めに開こうかって話になったの』
「そんなことはしなくていい。どちらにせよ、今は忙しいんだ」
 急いで早良は答えたが、史子は電話越しにもそれとわかる、困惑の口調で続ける。
『でももう、ほとんど話はまとまっているの。日時もそうなんだけど、会場の予約も済ませたし、主立ったメンバーは皆出席が決まっているらしいし、後は早良くんの出欠だけで』
「そこまで決まっているのか。何もかも急だ」
『ええ。早良くんが来ないとわかって、そういう話にまとまったのよ。皆、早良くんに会いたがっているんだから』
「同窓会じゃないのか? 俺が主役の会合でもないのに、随分と気を遣ってくれるんだな」
 早良は表向きは平静を装ったが、内心では舌打ちをした。勝手に話を進められていたことへの苛立ちが募る。どうしても自分を引き摺り出したがっている連中がいるらしい。そういう連中が人の好い史子を焚き付け、利用するのもいつものことだ。
『ね、お願い。都合が付くなら顔だけでも出してくれない?』
 そして史子も、どうにかして早良を出席させようと懸命になっている。もちろん彼女自身の為ではなく、彼女を利用する誰かの為だろう。そこまでしたがる史子の心情は、早良には到底理解出来るものではない。
『もし忙しいようなら、挨拶だけしてすぐに退席しても構わないから。時間作って貰えると皆も喜ぶんだけど……駄目?』
 史子の言葉に、早良は嘆息する。
 しつこい女だと思う。相手が史子でなければすぐにでも電話を切ってやるところだが、そうもいかなかった。事を荒立てれば帰結として早良の仕事にも響く、厄介な相手だ。
「本当にそれでもいいのか?」
『ええ。皆もそう言ってるわ。顔だけでもいいから出して欲しいって。どうにかして早良くんに、一度会いたいんだって。だって卒業してからずっと会ってない子ばかりでしょう? そう思うのも仕方のないことじゃない?』
 確かめた早良に対し、史子が返してきたのは取り繕うような台詞だった。
 そもそも皆の言うことを、いくらお人好しの史子と言えど鵜呑みにしているとは思えない。それだけで済むはずもないことは十分予想出来る。早良に取り入ろうとする人間は、必ず接点を持とうと頻りに近付いてくるだろう。余程上手く立ち回らなければ、場を退出するのに手間取りそうだと思えた。
「引き留められても長居は出来ない。多分、仕事が入っているからな。それでもよければ、顔くらいは出すようにする」
 諦め半分で答えた早良は、助手席に置いた鞄から手帳を取り出した。
『本当? 考えてくれるの? よかった……』
 安堵の声が聞こえてきて、またしても顔を顰めたくなる。それでも手帳を開いて、今月の予定を調べ出す。
「それで、同窓会の日時はいつなんだ」
『再来週の土曜日よ。夜の八時に集合なんだけど、予定があるようなら遅れても構わないから。私から、皆には伝えておくようにするわ』
「再来週か」
 手帳の、該当ページに行き着く。その日の予定は通常業務のみで、特に遅れる理由はなし。残業でもない限りは定時に上がれそうだった。そのまま伝えようとして、早良はふと口を噤む。
 電話の向こうでは、史子がうきうきとした声を上げていた。
『早良くんが来てくれるなら、皆もすごく喜ぶわ。ほら、水野さんと川上さん。この間話したけど、本当に早良くんに会いたがっていたの。それに他の子もね、集まると早良くんの名前ばかり出して、どうしてるかなって話をしてて――』
 その言葉だけで、再来週の土曜日に起こり得そうな事態が容易く想像出来た。
 見世物になるのだろう。大勢の人間に囲まれ、擦り寄られ、心にもない台詞を向けられて。そういう連中を相手取り、ひたすら当たり障りのない態度を取り続けることは苦痛以外の何物でもない。きつく撥ね付けることが出来ればいいが、大人になってしまった今はそれすら困難なことだった。仕事の為に、外聞の為に、穏便に接しながら遠ざける以外の術はないのだ。

 いつしかきつく、唇を噛み締めていた。
 やがて早良は携帯電話を持ち替えて、一つ息をついてから史子に告げた。
「志筑さん、済まない」
『え? なあに?』
「今、手帳を見ていたら、その日は予定が入っていたんだ。どうも顔を出す時間もないらしい」
 平然と、早良は嘘をついた。慣れたものだった。
『そうなの? どうしても、無理?』
 途端に史子の声のトーンが落ちた。落胆しているのがありありとわかる。だが同情心すら起こさずに、早良は続けた。
「無理なようだ。とにかくこの時期は仕事が忙しいんだ。申し訳ないが――」
 と言い掛けたところで、不意に早良の手元から手帳が消えた。
 後部座席から伸びてきた手が、虚を突いて攫っていったのだ。
 ぎょっとした早良が声を上げる間もなく、手の主は早良の手帳を検める。そして目的のページまで辿り着くと、口元に笑みすら浮かべてこう言った。
「ああ、ご心配は要りませんよ。その日は通常業務で、今のところ仕事も入っておりません。違うページをご覧になっていたのではありませんか?」
 早良は後部座席を振り返り、彼を睨み付けた。しかし彼は気にしたそぶりもなく、電話の向こうにさえ届きそうな声を張り上げた。
「再来週の同窓会には問題なくご出席出来るでしょう。よかったですね、早良さん」
「内田さん……」
 込み上げてくる怒りを抑え込みながら、早良は秘書の名前を呼ぶ。不遜な態度のその男は、にやにや笑いを浮かべながら、掌をこちらへ向けてきた。どうぞお気遣いなく、そのまま通話を続けてください、とでも言いたげに。
 そして史子の声が、追って早良の耳に届いた。
『本当? 内田さんのおっしゃったこと、本当なの、早良くん!』
 車内の空気が澱んできた。窓を開けたい衝動に駆られたが、往来の激しい通りの路肩では、濁った空気しか吹き込まないだろう。様々な衝動を押し殺し、早良は返答する。
「……ああ、勘違いしていたみたいだ。その日は確かに空いている」
『そう、でもよかった。お蔭で早良くんを、久しぶりに皆と会わせられるんだもの』
 史子ははしゃぐ口調で言って、すぐに続けた。
『じゃあ、再来週の土曜日、八時に集合ね。お店の場所はわかる? 大学時代に皆でよく行った、あのイタリアンのお店よ。覚えてる?』
「いや……俺はあまり行かなかったからな」
『それなら私が案内するから。少し早めに待ち合わせて、一緒に皆のところへ行きましょうか?』
 電話越しには、早良の表情も心中も伝わらないのだろう。史子の声はひたすらに明るく、鼓膜の中で響き続けた。


 通話が終わると、早良はゆっくり携帯電話を折り畳んだ。
 それからおもむろに後部座席を振り返る。
 早良の手帳を手にした内田は、ふてぶてしいまでの笑みを浮かべて、運転席の早良を見つめていた。上司である早良に対しても品性に欠ける笑い方をするような男だった。そして彼は、早良よりも早良の父親に忠実なのだ。
「どうして、あんなことをしたのです」
 咎める口調も淡々と、早良は尋ねた。
 内田は首を竦めて応じる。
「あなたがもしかすると、スケジュールを取り違えて志筑嬢に伝えてしまうのではと思ったからですよ。まるで何もかも完璧なあなたがね」
 言葉の端々から皮肉が滲み出ている。返す視線も鋭いままで、内田は続けた。
「そうなっては志筑嬢に申し訳ありませんし、おかわいそうですから。私はスケジュール管理という、秘書としての職務を果たしたまでですとも」
 仕事の方はさほど出来る訳でもなく、有能とは言い切れないこの男。早良よりも年長の割に、口ばかりが達者で、処世術には長けていた。自己嫌悪にも似た情を、早良は内田に対し抱いていた。
 今も、叱り飛ばす気にもなれない。この男をくびにする権利は、早良には与えられていないのだ。
 早良は結局黙り込み、内田は品のない笑みでこう告げてきた。
「志筑嬢の好意を無にしちゃいけませんよ。あんなきれいなお嬢さん、逃すのはもったいない」
 史子が美人であったかどうか、早良はさほど関心がなかった。大学時代を一緒に過ごしておきながら、彼女の顔をしげしげと見る機会はなかった。むしろ意図的に視線を外していたのかもしれない。遠ざけられない相手と初めからわかっていたから、忌避する思いが先立って、史子のことをまともに考えた例がなかった。今も、同じく。
「手帳を返していただけますか」
 議員令嬢の件には触れず、早良は内田に手を差し出した。
 内田はひょいと眉を持ち上げてから、手帳を早良の手に乗せた。そして早良がそれを鞄にしまい込むのを見て、何気ないそぶりで尋ねる。
「ところで、中に手紙が入ってましたね」
 瞬間、早良は弾かれたように顔を上げた。すぐさま後部座席を睨み付け、ぴしゃりと言った。
「あなたには関わりのないことです」
 らしくもなく厳しい物言いだったが、触れて欲しくなかった。内田のような人間に、あの手紙のことは。上郷で出会った、まだ汚れても、摩滅してもいない純粋な存在には。上郷での出会いとあの一夜の出来事は、誰にも触れられたくない、掘り起こされたくもない記憶だった。そっと心の奥底にしまい込んで、自分自身ですらも取り出せないようにしてしまいたかった。
 衝動的に勢いづいた早良の声に、さすがに内田も気圧されたようで、
「そうですか。失礼」
 わざとらしく座席に座り直した後は、手紙については触れてこなかった。普段口数の多い秘書が、珍しくおとなしげに黙り込んだ。
 早良はまた唇を噛み締めて、通話の為だけに停めていた、車のエンジンを掛けた。
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