Tiny garden

軌道(7)

 三月の夜はまだ肌寒い。
 雄輝とあかりの姉弟が、それぞれ手にした懐中電灯で田舎道を照らしている。田畑の中を縫うように、慣れた足取りで進んでいく。二人を追う早良は、整備されていない道に手間取りながらも、どうにかぴたりと着けている。
 ぽつぽつと街灯が立つだけでは、闇を払うことは出来ない。家の明かりがごく少ない、上郷の夜は薄暗く、どこもかしこもひっそりとしていた。
 道の向こうに小高い山が見える。こちらへ向けた側面が、すっぽり陰になっている。日中、工事現場のある丘の上から見たものとは違う、暗い色をした山の木々。時折冷たい夜風が吹き抜け、葉擦れの音がざわざわと聞こえてくる。
「山に登るなんて、危ないでしょ」
 あかりは一度、弟に向かってそう声を掛けた。
 だが雄輝は聞く耳も持たずに、
「大丈夫だってば。そんな深いところまで入らないし」
 と言ってから、首を竦めてみせる。
「姉ちゃんだって昔は、夜遅くに山に入ったりしてただろ。それで父ちゃんたちにこっ酷く叱られてさあ」
「昔の話じゃない。今は、お客さんもいるんだから」
 ちらとあかりが早良に視線を向ける。
 早良は黙っていた。姉弟の会話に割り込む気にはなれない。
 黙って、二人が山へと向かっていく後ろ姿と、懐中電灯の小さな光を追っていた。

 山はざわめき立てながら三人を迎え入れた。
 姉弟に導かれるまま、早良は山に立ち入る。薄暗い木々の影を潜り、背の高い草むらをすり抜ける。慣れない道を慎重に登っていくと、やがて開けた一帯に出た。
 背の高い木が一本、空に向かって伸びている。その周囲を早良の膝の高さまで草が生い茂り、囲んでいた。他に空を遮るものはなく、見上げれば、深い色の空と瞬く星がよく見える。
 月明かりさえも控えめな星空が広がっている。
「ほら、いい場所だろ?」
 雄輝は呼吸も乱さずに、どこか誇らしげにそう言った。
 そして傍にある背高の木に、懐中電灯を銜えながらしがみ付く。
「夜に木登りなんて、危ないったら」
 すかさずあかりは制止したが、やはり聞き入れる様子もない。
 堅い幹に手足を掛け、しっかりとした枝を掴み、雄輝は難なく木を登っていく。懐中電灯を銜えたままで、器用なものだった。夜風の強さも、木の軋む音も物ともせず、慣れた様子でするすると登る。
 そして辺りが見渡せるほどの高さに辿り着くと、枝の付け根に腰を据え、懐中電灯を手に取った。地上にいる早良たちを見下ろし、声を掛けてくる。
「いい眺めだよ。登ってくればいいのに」
「無茶言わないの!」
 あかりは呆れた様子で一喝し、その後で、早良に向かって頭を下げてきた。
「すみません、本当にやんちゃ坊主で、無茶ばかり言いますでしょう?」
「いえ、元気のあるのはいいことです」
 早良は心にもないことを口にした。
 それから会話を打ち切る為に、空を見上げる。

 風と木々のざわめきだけが響く、静かな夜だった。
 澄んだ空に散らばる星の光が、一つ一つ異なる色をして、ここまで届いてくる。強い光を放つものも、そっとひそやかに瞬くものも、様々だ。満天の星の輝きを、三人はそれぞれ、しばらく黙って眺めている。
 上郷の星空は、確かに美しかった。
 ここは冴え冴えとした冷たい光に満ちていた。息をするのも躊躇われるような静けさの中、早良はじっと空を見上げる。触れられないほど遠くにある星の光を見つめている。
 望遠鏡越しに見たなら、もっとはっきりと見えるだろう。星の色合いも大きさも、微かに光る七等星も確かに見えたことだろう。天文台が出来れば、この星空は更に多くの人々に愛されるものとなる。多くの人々に愛され、好まれるだけの価値が、上郷の星空にはあると早良は思う。
 今もこれだけ美しいのだ。富安の言った、ペルセウス座流星群ならば、どれほどに素晴らしいものなのだろう。早良の興味はかき立てられ、まだ遠い夏に思いを馳せたくなる。

「――信じられない思いです」
 不意に、あかりの声がした。
 はっとして早良は、いつの間にか隣に立っていた彼女に視線を移す。
 近くで見るとまだ幼い顔立ちをしている。弟に接する時とは違う、少女の面差し。そうして、星空をいとおしむように見上げていた。
「早良さんがおっしゃっていたこと、私はまだ知らないんです。上郷以外の星空を、あまりじっくり見たことがなくて」
 あかりが抑えた声で語るのを、早良は黙って聞いている。
 どこかで相槌を打つべきかと思ったが、どこで口を開けばいいのか、戸惑う。まだ話の中身が見えない。
「大きな町に出たら、星空はあまりきれいに見えないって、本当なんでしょうか」
 溜息混じりの言葉だった。
「こんな星空が、どこでも見られる訳じゃないなんて、少し寂しいです」
 風が吹くと、山中の木々がさざなみ立つように音を鳴らす。夜空の星は黙っている。数え切れないほどの小さな光がひっそり冷たく光り続ける。
 それを見上げるあかりは、やがて柔らかく笑み、続けた。
「実は私、四月から大学生になるんです」
「そうでしたか」
 早良は訝しがりながら応じて、すぐに言い添えた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。……上郷を出て、もっと大きな街で暮らすんです。楽しみなこともたくさんありますけど、ここと同じ星空が見られなくなるのは、少し寂しい、です」

 あかりが言うように、上郷にも、この辺り一帯の町村にも大学はない。一番近いところでも、早良の暮らす街まで出て行かなければ見つからないのだ。当然、上郷に住んだままでは到底通えない距離になる。そして彼女の家はこの村でただ一軒の旅館だ。彼女は、一人で上郷を出て行くのだろう。
 そんな風にこの村を出て行く者も多いようだと推測出来た。この村の過疎の理由は、一つには施設の乏しさがある。こればかりはいかんともし難く、いつしか村は住まう生活の為の場所から、観光地として訪れる場所への方向転換を迫られた。
 早良は複雑な思いであかりの表情を見遣った。翳りのある顔はまだ幼く、これからの未来に不安と希望の両方を過ぎらせているようでもある。心もとない様子に、言葉を掛けるのも躊躇われる。
 木の上で雄輝が、枝葉をがさがさと揺らした。彼もまた、何も言わない。恐らく早良よりもずっと複雑に思っているに違いないのに、この場では何も語ろうとしない。

「私、この村の為になりたいんです」
 二人が黙っているのをどう思ったのか、あかりは静かに語り出した。
「この村がだんだんと寂れていくのは、やっぱりちょっと悲しいから。大学へ行ってたくさん勉強して、この村を元気付ける為に出来ることを学んできたいんです」
 そう言って、彼女はゆっくりと早良の方を向き、視線がぶつかる。
 逸らすタイミングを失い、早良は表情の選択に迷う。
「早良さんのなさっているようなお仕事をしたいと思うんです」
「……そうですか」
 困りながら答えると、彼女は大きく頷いた。
「村の皆が言ってるんです。早良さんは、ここに春を連れてきた人だって」
「春、ですか」
「はい。この村に明るさと元気を連れてきてくださった、早良さんのようなお仕事をしたいんです」
 恥ずかしげもなく言い切ったあかりに、早良は面食らった。
 子どもじみたことを言う娘だ、と思う。それを真摯で、純粋な眼差しでぶつけてくるものだから、反応にも困るのだ。
 よくある大人たちの言葉のように、少しでも他の思惑が窺えたなら撥ね付けるのも容易い。或いは雄輝のような子どもの紡ぐ台詞なら、どうせいつかは霞んでしまうものだと聞き流せばいい。
 だが子どもでも大人でもなく、しかし大人になりかけているあかりに、ひたすら真っ直ぐな思いをぶつけられた。他の思惑も窺えず、世辞であるようにも見えない熱っぽい言葉。彼女の純粋さはこの年になっても尚、霞んでいない。それは貴いことのように思えた。そしてこの先何年経っても、そう易々とは失われないのかもしれない――そんなことが、しかし、あり得るのだろうか。若くして様々なものを、世界の幾つもの側面を目にしてきた早良に、あかりの存在はまるで物珍しく、貴く、奇妙なものに映った。
 場違いに、途方に暮れる思いがした。
 今は、彼女の純粋さには、果たしてどう答えるのがいいのだろう。

 早良は気まずい思いで視線を落とした。
 寒さのせいではないが、上手く言葉が出せない。何を言うべきか、よくわからない。
 やがてようやく、小声で言った。
「頑張ってください」
「はい、頑張ります」
 はきはきと答えたあかりの顔は見なかった。
 見れば、余計にわからなくなるような気がしていた。彼女の面差しが大人のものでも、子どものものでも、きっとまた接し方に戸惑わされる。こんなにも扱いにくい相手は初めてだった。これまで信じてきた常識や見解をあっさりと覆すような、風変わりな存在に思えた。
 しかし一方では安堵もしていた。彼女はもうじきこの村からいなくなる。そうすれば会うこともないだろう。自分のペースを乱す相手とは不用意に近付きたくなかった。必要もないはずだった。
 早良がじっと思案していれば、あかりはまた口を開いた。
「夏には帰ってこようと思っているんです。ペルセウス座の、流星群の季節には」
 弾かれたように早良は顔を上げ、再び視線がぶつかった。
 こちらを見ている彼女の柔らかな笑顔。もう翳りは消えていて、明るさだけが残っていた。そして早良を、真っ直ぐに見つめていた。
 早良は思わず、息を呑む。
「その時はまた、お会い出来たらいいですね、早良さん」
 よくある、挨拶の言葉だった。社交辞令でも言葉通りの意味でも、よく耳にするようなフレーズだ。それが瞬間的に早良を動揺させたのは、直前まで全く正反対のことを考えていたせいかもしれない。
 そして彼女の口振りに、嘘も違う思惑も、見当たらなかったからかもしれない。
 動揺を必死に抑え込みながら、やっとの思いで早良は言った。
「ええ、そうですね」
 心にもないことを言うのは慣れている、はずだった。しかしこの時は、たったそれだけを口にするのさえ、大変な労力を必要とした。動悸が激しくなったのも、声がかすれてしまったのも、全ては苦手な彼女のせいだった。
 あかりがまた笑いかけてくる。その純粋さが印象に残らないよう、早良はそっと目を伏せた。
 その時、頭上で雄輝の声がした。
「別に夏じゃなくたって、いつでも帰ってきたらいいのに」
「そんな訳にもいかないの。すぐ近いって訳じゃないんだから」
 窘めるようなあかりの口調は、先程よりも大人びていた。
 それで早良もようやく息をつき、いつも通りの笑みを作ることが出来た。

 澄んだ夜空を、星たちはゆっくりと移動していく。
 見上げてみたところでわからないほどの速さで、だが確実に動き出していた。
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