Tiny garden

鉄砲玉の代わりにくれてやるものの話

 何事も一朝一夕とはゆかぬもの。
 初音が同じ顔でいるのもたった二日間のことで、その翌日にはまた別の、久成にとって見慣れぬ顔へと戻っていた。やはり自然とつり目がちになってしまうらしく、この朝の初音はややきつめの眼差しをしていた。そのせいか大人びては見えたものの、中身の方は変わるはずもなく、何やら気落ちしたそぶりでいた。
 朝餉の席で、久成はそんな初音を励ました。何事もそう容易く成就出来るものではなく、時にはじっと耐え忍ぶことも必要なのだと。焦らずじっくりと励むようにと――久成の言葉を聞いた初音はつり上がった目を輝かせ、どうやら立ち直った様子だった。
 佐和子は二人の会話を穏やかに、しかしどこか楽しげに聞いていた。妹の視線を感じる時、久成は何とも言えず面映い気分になるのだが、同時に満ち足りた心境にもなった。妹と新妻と、三人での暮らしはここまで順調なようだった。
 この日は小学校も休み。久成はもちろん、初音も佐和子ものんびりと朝餉の一時を過ごした。

 食事が済むと、久成は奥座敷へと篭った。
 念の為、佐和子には『奥にいる、用があったら呼べ』と声を掛けた。佐和子は洗濯をしている最中で、兄の行動には特別不審も抱かなかったようだ。
 一方の初音は久成が貸し与えた国語読本を読み耽っており、久成は思案の末、妻には声を掛けなかった。奥で何をするのかと問われたら答えづらい。妹にも妻にも言いにくい話だが、妻の方は言葉を濁しても察するということがないから余分に厄介だった。

 奥に篭った久成は、火縄銃を取り出す。
 安政生まれの父親が遺していった、最も形見らしい形見がこの銃だった。火縄銃が時代遅れの遺物となりつつある今日、唐変木と呼ばれる久成がこの銃にこだわるのもらしいと言えば実に、らしいのだろう。
 初音もそうだが、佐和子も、久成が銃を持ち出すことにあまりいい顔をしない。面と向かって咎めることこそないものの、あからさまに表情を曇らせるので、銃の手入れは二人の目につかぬところでと決めていた。久成自身はこの火縄銃を好んでいたし、いざと言う時の頼りでもあると考えている。廃刀令が発布されたのは久成が生まれるよりも前の話で、久成にとっては刀よりもこの火縄銃の方が身近な護身具だった。
 だから手入れは怠らぬようにしている。いつ何時でも取り出して、必要とあらば守るべき者を守れるように――。
 不意に、足音が近づいてくる。
 久成が気づいて手を止めた時には既に。正面の障子に影が映っていた。影は障子の前に座って、静かに声を掛けてくる。
「久成様、こちらでしたか」
「――どうした、初音」
 慎重に、息を吐くように尋ねる。こちらの表情が見えぬせいだろう、初音が柔らかく笑うのが聞こえた。
「はい。せっかくのお休みですから、少しお話がしたいと存じまして」
 よりによってなぜ今、それを言うのか。身勝手な思いと自覚しつつも、久成は眉を顰める。
「久成様のお傍にいさせていただけたらと……こうして参りました」
 人の気も知らず、初音ははにかむ口調で続けた。
「入っても、よろしいでしょうか」
「駄目だ」
 障子越しの確認を、久成は厳しく拒絶した。妻がはっと息を呑むのもわかったが、拒まなければならなかった。今、ここに初音を招き入れてはならない。
「久成様……」
 呆然とした声に次いで、
「も、申し訳ございません。ご迷惑でしたか」
 取り成すように初音が詫びてきた。こちらが気分を害したと踏んだのだろうか。久成は手元の銃に目をやり、銃身に溜まる光を睨んで応じた。
「迷惑ではない。ただ、今は困る」
 初音が無言でいるので、更にもう一言添えなければならなかった。
「お前の最も嫌いなものを扱っている。そう言えば、わかるな」
 僅かな間、そして返答。
「……はい」
 その答えの後、障子越しの空気はかえって張り詰めたようだった。初音は動かず、もしかしたら動けずに、障子の前でじっとしていた。久成も手入れを途中で止めてしまう訳にはいかなかった。初音を放り出したまま、ひたすら手元の作業に没頭した。
 
 手入れを終え、火縄銃を初音の目につかぬところへ片付けてしまってから、久成はようやく障子を開けた。
 果たして初音はそこにいた。ぺたんとへたり込むようにして、障子が開くとぎくしゃく面を上げてくる。縋る眼差しを向けられ、久成は期せずして弱った声を立てた。
「そんな目をするな。俺は、あれが必要だから手入れをしているまでだ」
 初音は真っ直ぐ見つめてくる。言葉は、それでも震えていた。
「存じております」
「なら、わかってくれ」
 言いながら、久成は妻の傍らに膝をつく。妻は逃げない。ただ座り込んだままでいる。その細い肩を、宥めるように手を伸ばしたが、指先に油の汚れが残っていたことに気づくと、すぐさま引っ込めなければならなくなった。
 夫の挙動を見ても初音の表情は変わらない。張り詰めた面持ち。久成はその顔に告げる。
「あれは、お前と佐和子を守る為のものだ」
「存じております」
 初音が先程と同じように答える。しかし直に目を伏せて、こう続けた。
「それでも……私は、怖いのです」
 久成は心中で嘆息する。だから初音には、銃を扱っているところを見つかりたくなかったのだ。しかし顧みるなら、先に申し渡しておかなかった自分にこそ非があるのだろう。あるいは時代遅れの火縄銃に縋って、後生大事にしている自分にか――。
「お前を撃ちはしない、決して」
 重ねて語りかけると、またしても初音は同じように答えた。
「存じております」
「では、何を怯えることがある」
 たしなめるように久成は言った。妻が火縄銃に怯えているのだと、この時は信じて疑わなかった。しかし。
 妻は直後、苛烈な眼差しを向けてきた。
「久成様と佐和子さんは、私が必ず守って差し上げます」
 抑えた低い声で、淡々と後を継いでゆく。
「ご存知の通り私は、ただの女ではございません。いざとなればお二人の為、戦う覚悟は出来ております」
 久成は言葉に詰まる。ぐっと、呻き声すら出なくなる。
 いつもよりも大人びた顔に化けているからか、今の初音からは頑ななまでの意志が覗いていた。夫ですらも打ち崩せぬ鋼の意志。それは鉄砲玉の威力で久成を射抜く。
「ですからどうか、久成様は……もしもの時にも決して、戦おうとなさらないでください。佐和子さんの為にも、逃げてくださいませ」
 凛として、初音は覚悟を述べた。立派なものだった。時代が時代なら、まさに女房の鑑だと称えられていたことだろう。
 しかしあいにくとこの世では、初音の覚悟も、久成の覚悟もまた、時代遅れの遺物でしかない。
「お前らを守るのは俺の務めだ」
 弱りながらも久成が言い張れば、初音もまたかぶりを振って言い募る。
「いいえ。その役目は、どうぞ私に」
「お前にもしものことがあれば、佐和子が悲しむ」
「それは久成様の時も同じでございましょう。それに私だって」
 初音のつり目がちな双眸が、その時潤んだように見えた。
「久成様の身に何かあれば……私は悲しくて、きっと堪りません」
 妻に頑なになられるよりも、そうして辛そうにされる方が余程、久成には堪えた。そもそも休日の朝から交わすべき会話でもない。時代遅れの覚悟を語り合うのも、来るかもわからぬ『もしもの時』を案じ合っているのも、新米夫婦にはいささか荷が重く、面映く、甚だしく不似合いだろう。
 そのことに気づいた久成は、やや仏頂面になって告げた。
「それを言うなら、お前がいなくなる方が困る」
「困りましょうか」
 初音はまだ真顔で問い返してくる。何を言わせるのかと内心で焦れつつ、更に告げた。
「困る、だろうな。お前のような嫁は、どこを探しても他には見つかるまい」
 それで初音は、なぜか考え込むようなそぶりを見せた。久成の言葉が事実かどうかを考えようとしたのだろう。しかし否定されても、やはり困る。
 だから、久成は指先が触れぬよう細心の注意を払い、二の腕を使って妻を抱きすくめた。
「きゃっ」
 妻が声を上げたが、そ知らぬふりで捕らえておく。自らの顎を使ってやや乱暴に相手の柔らかな頬を突き、細い顎を掬い、無理矢理に上を向かせる。目が合い、ようやく初音が頬を染める。
「もしもの時は、来ないのが一番よい」
 久成は腕の中の妻に説く。
「その時が来ても――まずは、三人で逃げることとしよう。誰を失くしても、俺たちは最早立ち行かぬ」
「でも」
 頬を染めつつも、初音はまだ反論しようとしていた。頑なで強情な女だった。
 黙らせるには唇を塞いでやる必要があり、久成はそうした。

 初音は黙っていた。
 唇が離れても、腕を解いてやっても、ややしばらく黙ったままでいた。上気した頬と惚けた表情で、久成の眼前に座っていた。鉄砲玉など比べ物にもならぬ威力で初音の強情さを打ち崩し、反論を封じてしまったようだ。
 久成は久成で、唐変木らしくもない大それたふるまいをしたかと、内心悶々としていた。接吻で女の言葉を遮るなど、佐和子が聞けばどこの伊達男ですかと眉を顰めるに違いない。しかし後悔ばかりが残っている訳でもなく、ぼんやりと寝惚けたような妻を眺めているのもなかなか、悪くないものだった。
 やがて、初音はぽつりと尋ねてきた。
「久成様、今のは……一体何事でございましょう」
 何事かと問われても困る。久成は目を逸らした。
「私、なぜだか奇妙な心持ちです。まるでふわふわと、溶けてゆくような」
 新妻が熱に浮かされた口調で続ける。
「でも、幸せな気分です……とても」
 もしもの時以上に今、強い覚悟が求められている。鉄砲玉を放つ意志よりも身近で、しかしなかなか乗り越えがたい覚悟が。そう思っていられるのは幸いなのだろう。戦に赴く時に相応する覚悟を、近しい者の為だけに浪費出来る今日は、幸いに違いないのだろう。
 久成は改めて、妻の肩に腕を回した。溶けてしまわぬようにと抱き留めた。その行動に移るまでいかほどの覚悟を戦わせたか、それは久成自身しか知らぬことだ。
 何も知らぬはずの初音は、それでもくたりと、身体を預けてきた。
 時代遅れの新米夫婦には、覚悟の使い道がいくらでもある。日々が精一杯で、他へ向ける余力も残らない。障子の前で抱き合いながら、今、もしもの時が来たとして、このありさまではどうしようもないなと、溶け出しそうな心持ちで久成は思う。
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