Tiny garden

上出来な身支度の話

 その朝、久成が目を覚ました時、隣にはまだ布団があった。
 それ自体はさして驚くことでもない。夫婦として一月以上も暮らしていれば、一度はこんなこともあるだろうと踏んでいた。そもそも初音が毎朝のように早起きをするのも、本人の意思とは言え難儀ではないかと思っていたのだ。ただでさえ、夜は久成が寝入ってからもなかなか寝付けぬのだと聞いている。そして昨日は小豆飯の為に普段以上の早起きをしたらしい。そのうちに寝坊でもするのではないかと思っていた。
 だが、隣に敷かれたままの布団に、当の初音の姿がなかった。
 代わりに、久成の布団の中にいた。ぎゅうとしがみつく格好でいた。そのまますやすや寝息を立てていた。
 久成が色を失くしたのも詮無いことだろう。

「初音、起きろ」
 取るものもとりあえず布団の中の妻を揺り起こす。初音はううんと唸って鼻をひくつかせた。雨戸からの隙間明かりでそれが人間の鼻であることに気づき、一層決まりの悪い思いがした。
 ここにいるのは化けている初音だった。昨日と同じ顔をしているようだった。目は閉じているので細いのかどうかわからないものの、薄い唇と言いふっくらした頬と言い、あどけなさの際立つ寝顔と言い、昨日の初音と同じ姿をしていた。昨日の妻の顔を覚えていたことに、久成は存外に驚いていた。見慣れぬ顔だと毎日のように思っていても、なかなかどうしてよく見ているものらしい。
 初音と一月も暮らしているせいか、多少の奇妙さなど慣れてしまった。むしろ記憶の中の顔と、こうして見下ろす寝顔が同じことに、かえって奇妙な心持ちでいた。
 布団の中は早朝でも暖かく、初音は実に気持ち良さそうに寝入っている。起こすのは忍びない気もしたが、心を鬼にするより他ない。
「おい、初音」
 先程よりも力を込めて揺すると、閉じた瞼が震えるように動いた。それからゆっくりと開いてゆく。焦点の合わぬ眼が二度、三度と瞬きをし、最後には大きく瞠られた。がばと初音が跳ね起きる。
「ひ、久成様、これはどうしたことでしょう」
 寝起きのかすれた声で初音は言い、その後すぐに自分の顔へ両手を当てる。撫でるように頬と、崩れた髪と、それから顔の横にある耳を確かめて、吐息と共に呟く。
「私……ちゃんと化けたままで……」
「それは大丈夫だ」
 久成が頷くと、初音は表情を和らげた。胸を撫で下ろしている。
「よかったです。みっともないところをお見せせずに済んで」
 残念ながらそうとも言い切れぬようだった。日本髪は崩れてあちらこちらが解れていたし、頬にも数本張り付いている。着物も前がはだけていたので、久成は目を逸らしながらかいまきを押し付けた。初音がかいまきを羽織ったのを横目でうかがい、ようやっと視線を戻す。初音は気まずげに小首を傾げる。
 新米夫婦の閨に、一時の沈黙が落ちる。
「全く、どうしたことかと尋ねたいのは俺の方だ」
 久成は布団の上に胡坐を掻き、腕組みをして妻を見据えた。
「なぜお前は俺の布団の中にいた。お前のはそこにあるのに」
 隣にある、空っぽの布団を顎でしゃくる。向かい合わせに座った初音は、言い訳をする子どもの口調で答えた。
「昨晩はことさらに冷えましたから、つい」
「それで俺の布団へ入ってきたと言うことか」
「はい……。申し訳ございません、久成様」
 初音が項垂れる。
 素直に詫びられると、それはそれで居心地悪いものだった。大体、久成も初音を女房と呼ぶくらいなら、一つの布団で寝るくらいどうということもないはずだ。しかし共に暮らし始めてから一月以上、久成は初音と衾を同じくしたことがなく、それゆえに今朝の出来事には何とも言えぬ戸惑いを覚えた。
 初音のことを妻だと認めているし、あどけないふるまいにも健気さにも愛着を持っている。だが初音は毎日顔の変わる女。普通の女と同じ扱いをしてよいのかもわからぬまま、今日まで同衾する気はつゆとも起こらなかった。初音の方もこの家での暮らしにすら慣れていない風で、特に何も言っては来なかった為、これ幸いと放ったらかしにしておいたのだ。
 どう言って聞かせるべきか、そもそも言い聞かせておく必要などあるのか。久成は密かに煩悶した。初音が俯き加減でいるので、早急に口を開く必要があった。
「お前にはまだ教えていなかったが、夫婦は同じ布団で寝ることもある。お前のしたことはそう間違っている訳ではない」
 久成が切り出した言葉に、初音は目を瞬かせた。物問いたげなそぶりにも見え、話の腰を折られる前にと語を継いだ。
「しかしお前は、まずこちらの暮らし方に慣れるべきだ。夫婦らしくするのはそれからでいい。さしあたっては、毎日同じ顔に化けられるようになってもらわねばならぬ」
「……はい、久成様」
 もっともらしく初音が頷く。思い出したことがあったようで、崩れた髪に手を当てている。久成はぎこちなく手を伸ばし、眼前にいる妻の頬を撫でた。言葉も掛けた。
「今朝は、化けたままでいられたな。それはよい兆しだ」
「はい」
 うれしげに笑む初音。
「私、初めてでございます。こうして朝まで、化けたままでいられたのは」
 大分慣れてきたのだろう、そう思い、久成も口元を緩めた。今までは一度寝付くともう化けたままではいられず、それゆえに初音は久成よりも早く起き、身支度に手間を掛けていたのだから。
「では、身支度を整えてくるといい」
 久成は妻を促した。かいまきを羽織ったままで立ち上がった妻へ、もう一言添えておく。
「だが顔は、出来ることならそのままでいるようにな。俺もそろそろ、お前の顔を覚えておきたい」
「この、顔でございますか」
 怪訝そうにした初音が、自らのふっくらした頬に触れる。細い目は昨日、小豆飯を前に輝いていたものと同じ。薄い唇も殊勝なことを口にしていたものと同じだ。
「久成様は、この顔がお好きなのですか」
 尋ねられ、久成は正直に答える。
「前にも言った通りだ。俺はどういう顔の女房でも頓着しない。ただ毎日同じ顔でいてくれたら、それでよい」
「承知いたしました。精進いたします」
 ぴんと姿勢を正して答えた初音は、かいまきを羽織ったままで部屋を飛び出していった。
 布団を上げるのを忘れていったので、久成は苦笑しながら二人分の夜具を片付ける。片方にだけ温もりが残っているのを、やはり決まりの悪い思いでしまい込む。

 実のところ、久成は初音の『みっともない』姿を知っている。
 初音が嫁に来てすぐの頃、明け方にふと目が覚めて、何気なく隣の布団を覗き込んだ。そこにいたのは化ける前の初音だった。女ではなかった。人でも、なかった。
 雨戸からの隙間明かりに見た姿を、久成は厭うことも恐れることもしなかった。どんな顔をしていても、どんな姿をしていても、初音は初音だと思っていた。もっとも、当の初音が頑として見せたがらないのだからと、その思いも黙して語らずにいる。
 それに、嫁入りの前にも一度、確かに目にしたことがある。

 いち早く身支度を済ませた久成は、囲炉裏端へと足を向ける。
 そこでは佐和子が朝餉の用意をしていて、兄に気づくと心なしか安堵した様子を見せた。
「おはようございます、兄上。今朝はのんびりしていらしたのですね」
「ああ。初音が寝坊をしていたからな」
 相手が妹と言えどありのままを打ち明ける気はしない。簡潔に答えると、佐和子も腑に落ちた様子で微苦笑する。
「やはりそうでしたか。昨日は日が昇る前から起きていらしたようですもの、今朝は大丈夫かと私も案じておりました」
「先程起きた。今は身支度の真っ最中だろう」
 久成は言い、何気ないそぶりで付け足した。
「昨晩は珍しく、化けたままで寝入っていたようだったからな」
 飯杓子を持つ佐和子の手が止まる。はっとしたようにこちらを向く。久成が顎を引くと、佐和子は顔をほころばせた。
「初音さんも、だんだんとここの暮らしに慣れてきたのでございましょう」
「そのようだな。大分と真っ当になったものだ」

 仕事のある久成が、時間を気にして食事を始めた頃、ちょうど初音は囲炉裏端へと現れた。言いつけ通り、顔は変えぬまま化粧を施してきた。髪を結い直し、着物もきちんと身に着けた姿は、昨日とまるで同じように見える。たったそれだけのことが、久成には無性にうれしく思えた。
 佐和子も同じなのだろう。挨拶をした初音に、明るく声を掛ける。
「初音さん。兄上に白湯を差し上げてください」
「かしこまりました」
 初音はいくらかは慣れた手つきで、土瓶から湯飲みへと白湯を注ぐ。そしておずおずと湯飲みを差し出してくる。
「久成様、どうぞ」
 それを受け取った久成は、昨日とまるで同じ顔に対し、照れながら告げた。
「今日の身支度は上出来だ」
 好みの顔であろうとなかろうと、色気があろうとなかろうと。ただ、初音が昨日と同じ顔でいる。記憶と同じ顔でいる。そのことが何よりも幸いだった。
 夫の思いを、新妻はどこまで汲めたのだろう。しかしその時、確かに笑んだ。
「ありがとうございます、久成様」
 それから佐和子と顔を見合わせて、もう一度笑い、二人の様子を眺める久成も、つられるように照れ笑いを浮かべた。

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