ずるいひと(2)
家の近くのバス停で、バスを待つ。朝早い通りは人影も、車の姿もほとんどない。静かなものだった。
春も終わりの時期、朝方でも既にぽかぽかと暖かい。すっきりと晴れた空が心地良く、深く息を吸い込む。気持ちのいい朝だった。
――背後に気配を感じた、その瞬間までは。
「久我原」
すぐ傍で、私を呼ぶ声がした。当然、聞き覚えのある声だった。
反射的に私は飛び退き、それから振り返った。誰なのかは顔を見なくてもわかる。でも、確かめずにはいられなかった。
佐山がいた。
以前と同じように鋭い目つきで、じっとこちらを見据えていた。
高校時代よりも痩せた顔、神経質そうな面持ち。社交的で愛想のよかった彼が、今は不気味な存在にしか見えない。どうしてここにいるのか。よりによって、どうして今日、私の前に現れたのか。いい気分はあっという間に潰れて、ひしゃげてしまった。
「佐山……」
私が声を発すると、彼はぎこちなく、苦しげに笑んだ。
「ごめん」
以前と同じように、詫びる言葉から始めた。
「今日、デートなんだろ?」
そのくせずけずけと踏み込んできた。重ねて尋ねてくる。
「そんなにめかし込んでるってことは、例の、好きな奴に会いに行くんだろ?」
質問に、私は答えたくなかった。逆に聞いた。
「どうしてここにいるの? 尾行でもしてたの?」
「……ああ。ごめん」
否定せずに佐山が答える。何気ない調子に、かえって背筋がぞくりとした。
「家の前にいた。今日は、会えるかと思って、朝から」
「今日は、って」
「昨日も行ったんだ。昨日は、ずっと待ってたけど、会えなかった。だから今日は朝から……」
確かに、昨日は一歩も外へ出なかった。今日に備えてお肌の手入れに終始していたからだ。だけど、だからって、よりによって。
「やっぱり、ストーカーだったんだ」
意識しないうちから、私の声は糾弾めいたトーンに変わる。それで佐山は一層苦しそうにしてみせた。
「久我原の言う通り、だと思う」
「わかってるなら止めて。こんなの気持ち悪いだけだから」
「でも、会いたかった」
佐山の言葉に嘘は感じられなかった。気持ち悪い、変態じみたふるまいだとしても、私のことを好きだと言ったその想いは、嘘ではないらしい。
わかってしまう。私も、同じように鷲津が好きだから。
もしも鷲津が私と会うことさえ拒んでいたなら、私は佐山と同じように、家まで足を運んだり、後をつけたりしていたかもしれない。箍を外すのは容易い。踏み外すのだって容易い。私がストーカーにならなかったのは、単に鷲津が、私を必要としてくれたから。たったそれだけの理由だった。
私と佐山は似ている。
違うのは私が、佐山からの好意を必要としていないことくらいだ。今はその違いこそが決定的だった。
「私は佐山のこと、好きにはなれない」
告げた本心は、二人きりの通りにしんと響いた。
「天地が引っ繰り返ったってあり得ないから」
告げながら慎重に身構える。いざとなれば、いつでもここから逃げ出せるように。
目の前の佐山は表情を変えない。ただ苦しそうに私を見ている。
「好きな人がいるから。他の人なんて絶対考えられないの。彼じゃないと駄目」
きっぱり言い切ると、すかさず佐山が反論してきた。
「でも、『好きな人』なだけなんだろ」
前にもそういう物言いをされていた。
「まだ『彼氏』じゃないんだろ。久我原、相手にされてないんじゃないのか」
「……別に、それでもいいって思ってるから」
痛いところを突かれて、私の声が低く沈んだ。相手にされてないのは本当。それでもいいって思ってるのも、本当――。
「久我原」
佐山が手を伸ばしてきた。腕を掴まれそうになり、とっさに撥ねつけた。足が勝手に後ずさりする。それで佐山が表情を強張らせたけど、知ったことじゃなかった。何を言われたって私の心が動くはずない。
「止めて。触らないで」
「なら、せめて聞いてくれ。俺は今でも、久我原が好きだ」
きっと眉を吊り上げ、険しい口調で彼が続ける。
「だから俺は、久我原が好きだって言う、その相手に会いたい」
「――や、だ」
心臓が止まるかと思った。
まさか知ってるの? 佐山は、鷲津のことを。
「会わせてくれ。会って、一言文句をつけてやりたい」
こちらの気も知らずに踏み込んで、踏み荒らしていく佐山は好きになれない。図々しい。
図々しさ以上に嫌な予感もしていた。まさか、気付かれてる? ううん、気付かれたんじゃないとしても、佐山と鷲津を会わせるのはまずい。きっとまずい。
「関係ないでしょう。余計なこと、しないで」
私は思わず目を逸らし、早口気味にそう言った。だけど彼の言葉はどこまでも追い駆けてくる。
「一度でいい、会わせてくれ」
「嫌。お願いだから帰って」
「会わせてくれたらもうつきまとわない。約束する」
佐山の言葉は、真剣に聞こえた。悪意のないようにも聞こえた。だからこそ性質が悪いんだってこともわかっている。だって、私がそうだったから。
「帰って」
私はひたすらに拒んだ。佐山が不気味で、恐ろしくて仕方がなかった。鷲津のところに彼を連れて行くのは嫌だった。彼の目的が彼の言う通りでも、そうじゃないとしても、鷲津には会わせたくない。鷲津も会いたくはないはずだ、一度は復讐さえ考えた相手には。
「早く帰って」
それでも佐山は動かない。彼の影はぴくりともせず、私の足元まで伸びている。
代わりにバスが来た。こんなめちゃくちゃなタイミングで、エンジン音を立てながらやってきた。俯く私の傍で止まり、ドアが開く。機械的なアナウンスが流れ出す。
乗らない訳にはいかなかった。鷲津との約束に遅れたくない。私が少しでも遅れたら、鷲津は怒るだろう。愛想を尽かしてしまうかもしれない。すっぽかすような真似をしたら、最後の最後で私に裏切られたと思うかもしれない。彼は携帯電話を持っていない。連絡をする手段はない。
だけど、佐山を連れて行く訳にもいかない。それだけは嫌だった。絶対に嫌だった。じゃあどうしたらいいのかわからなくて、私は。
ひとまず、バスに乗った。
当たり前のように佐山もついて来た。バスに乗り込み、私の横で吊り革を握る。日曜日とあってか、朝方の便はがらがら。なのに私も佐山も席に座らず、並んで、立ったままでいる。座ったら逃げられなくなるような予感がしていた。
「ついて来ないで」
言っても無駄だということもわかっていたけど、言わずにはいられなかった。
実際、無駄だった。佐山はちらとだけ私を見て、それから小声で言った。
「ごめん」
何を謝りたいのかまるでわからない。おかしい人だと思った。私も、彼も。
バスは走り出す。待ち合わせをしている高校前までは、ものの十分で着いてしまう。その間に何とかして佐山を追い払わないと。――どうやって?
鷲津と約束をしたバス停よりも、前の停留所で降りるのはどうだろう。その直後に高校まで走り出し、佐山を撒いてしまうのは。だけど佐山は元サッカー部だ。帰宅部の私じゃ足の速さでは敵わない。
じゃあ、どうしたらいいんだろう。早くしないと着いてしまう。早く、早く何か考えなくては。
「久我原の好きだっていう奴に会いたい」
こんな状況下でも佐山は真剣な口調だった。空恐ろしいくらいに。
「止めて。会わせたくない」
「会いたいんだ」
私のことを好きだと言ったくせに、私の言葉には耳を貸さない。頑として言い募る。
「あのクラスの中の誰かなんだろ」
確信的な言い方をするから、余計に怖くなる。
「……佐山、どうして」
「卒業式の日に、久我原と同じようにパーティに来なかった奴。そうなんだろ?」
やっぱり、既に知ってるのかもしれない。
あの日、何人がクラスのパーティに出席しなかったのかは知らない。でも私の断り方はまずかった。今更みたいに思う。佐山に対して、もう少し上手く断れていたらよかった。あれで気付かせてしまったんだろう。私の好きな人が、あのクラスの中にいたことを。
「ずっと見てたんだ、久我原のこと」
佐山は続けた。
「好きな奴なんていないと思ってた。それどころか、誰にも関心がないようにさえ見えてた。そのくせ人付き合いが悪い訳でもなくて、俺にだって愛想よく接してくれた」
前に、鷲津にも言われた。他人に対して、無関心そうに見えていたって。私は――そういう人間だったんだろうか。
「大人なんだと思ってた。久我原は、大人の付き合い方をするタイプなんだろうって。だから……」
吊り革を握る手が、ぐっと固められる。
「卒業式の日から久我原の態度が変わったことには驚いた。ああいう切り捨て方をするのかって。俺が、切り捨てられる側だったこともショックだった。久我原が元からそういう子だったとはどうしても思えなかった。誰かが久我原を変えたんだとしたら、俺は、そいつが憎たらしくてしょうがない」
私は、どういう人間なんだろう。
鷲津や佐山の言ったように、他人に対して無関心そうに見える、そんな人間だったんだろうか。鷲津を好きになってから、鷲津以外の人がどうでもよくなっていたのも事実だ。けど、それ以前は普通にしてたつもりでいた。クラスで浮かない程度の、高校生活がそこそこ楽しめる程度の人当たりのよさを心がけてきたはずだった。
私は、変わった? 鷲津のことを好きになってから。
それとも鷲津を好きになって、そのせいで隠してきた内面が露わになったということ、なんだろうか。私の本当の心は、鷲津がいなければ引き出せないほどにしまい込まれていたんだろうか。じゃあそれまでの私は、一体何だったの?
佐山が黙り込むと、バスの車内はエンジン音だけになる。獣の唸り声みたいに聞こえた。ぞっとした。