Tiny garden

Call me, Call you.(3)

 その日、私は午後九時過ぎに帰宅した。
 すっかり住み慣れたアパートの部屋に辿り着き、まずはシャワーを浴びて着替えを済ませる。髪を乾かし、お化粧を落とした顔にお手入れをする。それからお夕飯代わりにカップスープを食べつつ、電話が鳴るのを待つ。
 時刻は午後九時四十五分。
 いつもならまだ着替えもせずにごろごろしている頃だ。
 東京に出てきて、生まれて初めての一人暮らしだった。最近は仕事が忙しくなってきたのもあり、ほんのちょっとだけど生活が疎かになりつつあった。朝ご飯が菓子パン一つだったり、帰ってきたら着替えもしないでテレビかネットをするのが癖になってたり、それで結局お化粧を落とさないで寝落ちちゃったり――実家にいた頃には考えられないだらしなさだ。
 だけど今日は久々に、何もかもちゃんとやった。身ぎれいにして、お腹も軽く満たして、いつ電話がかかってきてもいいようにしてある。
 わかりやすいな私。自分でも思う。
 午後十時が近づいてくると、自然とどきどきしてきた。思わずクッションを抱き締めたら、今朝の出来事を思い出して一層どきどきした。

 伏見さんに、抱きついちゃった。
 事故とは言えかなりしっかりしがみついちゃって、あの時は恥ずかしさで気絶するかと思った。
 なのに伏見さんは優しくて、掴まってていいと言ってくれて、しかも細いのに私のことを難なく受け止めてくれて――感触ごと蘇ってくる記憶に、私は腕の中のクッションに顔を埋めた。
「格好よかったなあ……」
 独り言だって呟いてしまう。
 本当にわかりやすい。伏見さんのこと、どんどん好きになってる。

 伏見さんからの電話は、十時ちょうどにかかってきた。
 ジャストのタイミングでなりだした電話に、彼らしいなとまず思う。
「……も、もしもし」
 緊張のあまり、第一声でちょっとどもってしまった。
『もしもし、桜さん?』
 電話越しに聞く伏見さんの声。
 普段とあまり変わらない、柔らかい声をしていた。
「はい、あの、私です」
 とっさに返事をしてから、もっと他に言い方があったんじゃないかって思う。
 まずい。ものすごく緊張してる。電話を握る手まで震えてる。
『よかった。誰か違う人が出たらどうしようかと思っていた』
 伏見さんが冗談みたいに言ってくれたから、ほんのちょっと笑うことができたけど。
「それはないです。私、一人暮らしですから」
 代わりに電話に出る人がいたらそれはホラーだ。
 そういえば、伏見さんはどうなんだろう。ずっとこの町で暮らしていると聞いたけど、ご実家住まいなのかな。
「伏見さんはお一人なんですか?」
 気になって尋ねてみた。
『俺も一人暮らしだよ。実家も市内にあるけど、通勤に不便なところだから』
 そう答えてから、伏見さんも少し笑った。
『それでも、都心に住むって選択肢はなかったな』
「家賃、高いですもんね」
 こっちと都心とでは、同じ家賃でも部屋の数が一つ違うくらいの差がある。もちろん通勤に便利なのは都心なんだろうけど、私はこの町を選んだ。ここから新宿までの通勤は大変だけど、今のところ後悔はしてない。
 小田急線のお蔭で、伏見さんと知り合う機会もあったわけだし。

 そこで私は、またしても今朝の記憶を蘇らせ、クッションを膝に抱え込みながら告げる。
「あ、あの、今朝はすみませんでした」
 伏見さんはどう思ったんだろうか。短い間があった。
『……ああ。謝らなくてもいいって、今朝も言ったよ』
 おかしそうに言われて、私はますます恥ずかしくなる。
「そうなんですけど、やっぱりその、失礼だったかなって……」
『むしろ、こっちに倒れてきてくれてよかった。後ろ向きに転んだら、頭をぶつけていただろうから』
 それは確かに事実だろうけど、そんなふうにフォローしてくれる伏見さんは、とても優しい。
 私はますますどきどきして、何にも言えなくなってしまう。
 すると、彼もためらいがちに、
『俺もあの時は緊張してたから、あまり言葉かけられなかったけどな』
 と続けた。
 いつもはっきりと物を言う伏見さんが、この時だけは少しだけ、もごもごと濁すようだった。
 あの時は私もすっかり動転していて、おまけに恥ずかしさもあって、伏見さんの様子を窺うことはできなかった。緊張していたって本当だろうか。
『今朝、君に聞かれて、生徒の目は気にしないって言ったけど――』
 伏見さんが続ける。
 柔らかい声が、心なしか照れたように聞こえた。
『君に抱きつかれたところを見られたら、そうもいかなかっただろうな』
「そ、そうですよね。見られてないといいんですけど……」
『本当だよ。俺がどんな顔をしていたか、見られていたら大変だった』
 どんな顔を、していたんだろう。
 私はあの時、伏見さんの顔を見られなかった。私にしがみつかれて、身動きの取れない彼は、一体どんな顔でいたんだろう。
 今だって伏見さんの表情はわからない。電話越しに聞く声だけでは、どんな顔をして、どんな服装で、どんな姿勢で私と話しているのか想像すらつかない。
 唯一の手がかりとなるその声は、やっぱり、照れているようだった。
『だから、と言うと口実にしてるみたいだけど、――桜さん』
 唐突に名前を呼ばれて、私はとっさに背筋を伸ばす。
「はい」
『今度、二人でどこかに行かないか』
「……えっ? あの」
 続けて告げられた内容には、頭の方がついていかなかった。
 どこかって――えっと、今、どういう話してたんだっけ。
『俺自身が気にしないつもりでいたって、通勤中はどうしても仕事からは離れられない。本を読んでいたくらいで騒ぐ生徒がいるほどだ。桜さんと話しているところを見られたら、やっぱり騒がれると思うし、桜さんにも迷惑がかかる』
「そんな、迷惑なんてことは!」
 私は慌てた。
 でも伏見さんは至って真面目に続ける。
『だから、仕事から離れたところで君に会いたい』
「え、えっと……」
 戸惑う私に対して、
『桜さん。俺と、デートして欲しい』
 電話の向こうの伏見さんは、どこまでも真剣に、彼らしい物言いで告げてきた。

 私は抱えていたクッションにぎゅうっと縋りついた。
 そうしていないと倒れそうだった。
 ものすごくストレートなお誘いだ。こんなふうに誘ってくれる男の人は初めてだった。デートって、はっきり言うんだ。伏見さん。

 込み上げてくる嬉しさと、苦しいくらいの胸のどきどきに、なかなか声が出なかった。
 だけど返事をしないとこのチャンスが逃げていってしまいそうで、私は勇気を奮い立たせて答える。
「はい! 私も会いたいです!」
 ずっと息を詰めていたせいか、随分大きな声の返事になった。
 そのせいか、伏見さんが電話の向こうで少し笑った。
『……ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しいよ』
「あっ、こ、こちらこそです」
 嬉しいのは私の方だ。
 伏見さんとデート。いつかはそんなこともできたらいいなと思っていたけど、彼の方から誘ってくれるなんて。
『それで、どこへ行こうか』
 真面目な話をする時の伏見さんは、心なしか先生らしい口調になる。
『君に行きたいところがあるならそこでもいいし、東京に来て日が浅いからわからないと言うなら、俺が案内しよう。どうかな』
 優しく畳みかけられて、私は考えてから、
「行きたいところと言うか……一度行ってみたいところならあります」
 と答えた。
「ベタなんですけど、東京タワーとスカイツリーは登っておきたいかなって」
 東京の観光名所はたくさんあるけど、とりあえずこの二つは押さえておきたかった。今日まで私は住んでいるところ周辺の開拓に必死で、都心の方はほとんど歩いていなかったからだ。中でもその二ヶ所は、東京と言えば真っ先に出てくる名所でもある。
 ただ、私と違って伏見さんは生まれながらに都民な人だ。何度も通って飽きてしまっているかもしれない。
「伏見さんは、どっちも行ったことありますよね?」
 私が尋ねると、彼は、
『実はないんだ』
 意外にも、そう言った。
「えっ、そうなんですか? 東京の人なのに」
『地元だからかな。いつでも行けると思うと、案外行く機会がない』
 そういうものなんだ。
 確かに私も、地元の観光スポットを網羅しているわけじゃない。有名だけど行ったことはないって場所もたくさんあった。東京の人にとっては、東京タワーやスカイツリーがそういう場所だったりするんだろうか。
『スカイツリーは前を通りかかって、下から見上げたことならある。でも登ったことはないな』
 伏見さんが、今度は楽しげに声を弾ませた。
『じゃあ、いい機会だ。一緒に登ってみようか』
「はい!」
 私も大喜びで返事をしながら、クッションを強く抱き締める。
 どうしよう。楽しみだけど緊張するな。何を着ていこう。新しく、可愛い服でも買っておこうかな。せっかくだしコスメもちょっと仕入れときたいかも。髪も切っておこうかな――事前にやっておきたいことは、挙げればきりがないほどあった。
 だって、好きな人とのデートだから。

 その後、私と伏見さんは、デートの約束についていくつか話をした。
 伏見さんの勤める学校では、五月の末に中間試験、七月の初めに期末試験があるのだそうだ。だからその合間の休日に、と言われた。ちょうど梅雨入りの時期だからお天気の不安はあるけど、ツリーから見る雨降りの東京も面白いかもしれない。それにツリーなら確実に屋内だから、お外デートよりは天候に左右されないはずだ。
『もし天気が悪くても、あの辺りはお店もたくさんあるから』
 彼もそう言ってくれたので、私達の初デートは六月に決まった。
「すごく楽しみです」
 私の言葉に、伏見さんは照れたような笑い声を立てる。
『そう言ってもらえてよかった。実は俺も、楽しみで仕方ないんだ』
 一つだけ惜しいと思うことがあるとすれば、今の伏見さんの顔が見られないということだ。
 どんな顔をしているんだろう。知りたくて、見てみたくてたまらなかった。実際に目の当たりにしたら、私まで照れてしまったかもしれないけど。
「今日はお電話、ありがとうございました」
 一通りの約束が済んだところで、私は改めてお礼を述べた。
『こちらこそ。また電話してもいいかな』
「はい。私も伏見さんと、もっとお話がしたいです」
『嬉しいよ、近いうちに必ずかける。じゃあ――』
 そこで伏見さんは一呼吸置き、
『おやすみ、桜さん』
 いつものように柔らかく、それでいてとても優しい声で、私の名前を呼んでくれた。
 電話越しだとその声は耳元のすぐ近くで聞こえる。どきどきした。
「お、おやすみなさい、伏見さん」
 私は返事をして、それから電話を切る。

 そして妙に静かになった一人きりの部屋で、さっきのやり取りを何となく思い出す。
 伏見さんは私の名前を、とても優しく呼んでくれる。
 私が伏見さんの名前を呼ぶようになる日も、いつかやってくるだろうか。
 なんて、さすがに気が早いか。駄目だ私、浮かれすぎておかしくなってる。まだデートもしてないっていうのに!

 私は抱き締めすぎてふにゃふにゃになったクッションに、火照った顔を埋めて呻いた。
「デートの約束、しちゃった……」
 六月が来るのが、今から待ち遠しくて仕方がなかった。
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