Tiny garden

Call me, Call you.(4)

 眠れぬ夜が明けた次の朝は、大抵の場合、寝坊する。
 眠れないならいっそずっと起きていればいいのに、明け方にうとうとしてしまって、気づけば目覚まし止まってて――結果、大慌てで部屋を飛び出す羽目になった。
 アパートからバス停まで、バスターミナルから駅のホームまで、とにかく急いだ。
 別に遅刻するような時間じゃない。出勤時刻には十分間に合うくらいだったけど、この時間じゃないと伏見さんに会えないから。

 東京では五月も半ばを過ぎると、朝からぽかぽかと暖かい。
 駅のホームへ出る頃にはすっかり汗をかいていて、私はぜいぜいと息をしながらようやく立ち止まる。
 ハンカチで汗を拭きながら、伏見さんを探すと――いた。
 彼はいつものように、階段を上ってすぐのところにいた。今朝は何か本を読んでいるようで、通勤客で溢れたホームの中、いつものように皺一つないスーツ姿で立っている。読書に夢中なのか、私がホームにやってきたことには気づいていないようだった。
 それをいいことに、私もすぐには駆け寄らなかった。
 まず汗が引いてからじゃないと、恥ずかしくて近づけない。

 それにしても、本を読む伏見さんも素敵だ。
 細身のスーツを着こなしたすらりとスタイルのいい彼は、読書中の姿勢も実に決まっていた。背筋が真っ直ぐで、首だけを下へ向けていて、じっと本に見入っている。目を伏せた顔はいつもよりも陰影がはっきりしていて、下瞼や唇の下にできた影に妙にどきっとする。中性的な顔立ちの彼が、その影のせいで男の人らしく見えた。
 関節の目立つ大きな手は、左手で本の背表紙を持ち、右手の指先で丁寧にページをめくっている。本には使い込んでいると思しき風合いの、革のブックカバーをかけている。だから彼が何を読んでいるのかはわからない。
 ただ、とても素敵だと思った。
 生徒さん達が騒ぐわけだ。いつも格好いい先生が、いつも以上に素敵な姿で本を読んでいたら、何を読んでいるのか憶測を呼ぶのも致し方ない。
 私だって汗を拭きながら、思わずその姿に見とれてしまった。

 どうにか汗が引いて落ち着いたところで、私は彼に声をかけた。
「伏見さん、おはようございます」
 彼が素早く面を上げる。冷静なその瞳はたやすく私を見つけ出し、無表情そうに見える面持ちに明かりが点ったような微笑が浮かぶ。
「おはよう、桜さん」
 昨夜は電話越しに聞いた、柔らかな声がそう言った。
 それから彼は本を閉じ、駆け寄る私を温かく見つめてくれる。
「今朝、寝坊しちゃって。遅れるかと思いました」
 私は彼にそう語る。
 別にここまで急がなくても、会社には遅刻しなかったんだけど――という点は、秘密にしておいた。
「間に合ってよかったな」
 伏見さんが、心なしかほっとしたように言った。
 私が間に合ったことを、彼も嬉しく感じていてくれたらいいな、なんて思う。ちょっと夢見すぎかな。
 でもデートの申し込みまでされたんだから、もうちょっと、今まで以上に自惚れたっていいはずだ。
「はい、よかったです」
 私は実感を込めて頷くと、
「ところで、伏見さんは何を読んでいたんですか?」
 彼が手にしている、革のブックカバーをかけた本について尋ねてみた。
 すると、伏見さんはあまり感情を見せないその顔にわずかな動揺を走らせた。
「この本は……」
 もしかすると、私に知られたくない本なんだろうか。
「あ、噂通りの子供向けの本、ですか?」
 私は昨日聞いた話を思い出し、更に質問を重ねてみる。
 実は生徒さん達の推測が当たっていて、可愛い児童文学なんかを読んでいたんじゃないだろうか。
 だけど伏見さんはかぶりを振って、
「ちょっと、恥ずかしいんだけど」
 そう前置きしてから、革のブックカバーを外してみせた。
 カラフルな表紙には、白いスカイツリーの写真が載っている。
 どうやら観光ガイドブックのようだ。スカイツリーと、その周辺の。
 私はその表紙をじっくり眺めた後、改めて伏見さんを見上げた。彼は照れた様子ではにかんでいる。
「今朝、コンビニに立ち寄ったら売っていたから、つい」
 もしかすると。
 彼も、六月のデートの約束を、楽しみにしてくれているんだろうか。
「調べてくださってありがとうございます」
 私は嬉しくなって、彼にお礼を言った。
 もちろん私だってとても楽しみにしている。何せ、約束をした昨夜はなかなか寝つけなかったほどだ。本当に楽しみで、待ち切れないくらいだった。
「案内するって言った以上は、詳しくなっておきたかったんだ」
 伏見さんはそう言いながら、ガイドブックに丁寧にカバーをかけ直す。
 そしてその本を鞄にしまい、
「それに、楽しいデートにしたいからな」
 彼が小さく呟いた。
 ちょうどその時、大きな音を立てながらホームに電車が滑り込んできた。だけど私の耳は彼の言葉をちゃんと拾って、思わず見上げたその先で、彼は嬉しそうに目を細めていた。

 混雑する電車に乗り込むと、伏見さんはいつものように私を庇って立ってくれた。
「昨日みたいに揺れるといけないから」
 そう言って、私を座席の脇に寄りかからせてもくれた。
 もちろんその気配りはとても嬉しかったけど、同時に彼をすぐ目の前にして電車に揺られていると、昨日の出来事まで思い出してしまいそうで困った。
 次に電車が揺れた時には、抱き着かなくても済むようにしよう。そう思いつつも、考えるだけで頬が火照ってきて大変だった。
 赤くなるのを誤魔化す為に、私は伏見さんに喋りかけた。
「伏見さんは、よく読書をするんですか?」
 以前も生徒さんに目撃されたというし、それに、あのブックカバー。いかにも使い込んでいるような、飴色をした革だった。
 それでなくても、立ち寄ったコンビニでふと目に留まった本に、すぐにカバーをかけているということは――常にブックカバーを持ち歩いているほど、本が好きだってことじゃないだろうか。
「たまに読むよ」
 案の定、伏見さんは頷いた。
「時間が空いた時にいつでも読めるよう、文庫本を一冊は鞄に入れてある」
「やっぱり、そうなんですね」
 私が納得すると、彼は不思議そうに目を瞬かせる。
 それで私はブックカバーへの推論を、揺れる電車の中で彼に語り、
「よく見てるんだな、桜さん」
 一通りを聞いた伏見さんからは、いたく感心されてしまった。
 それはもう、好きな人のことですから見ちゃいます。
 ――などど正直に言えるはずもない私は、またしても赤面を誤魔化す為に話を続ける。
「通勤中には読まないんですか?」
「以前はよく読んでいた」
 伏見さんはもう一度頷き、少し笑んで言い添えた。
「最近は……お喋りに忙しくてサボりがちだけど」
 それはもしかしなくても、私がいるから、だろうか。
 思えば読書が好きな伏見さんが、本を読んでいるところを目撃したのは今日が初めてだった。私があれこれ喋りかけるから、伏見さんは趣味の読書に集中できなくなっているんじゃないだろうか。
「私、伏見さんの読書の邪魔してませんか?」
 恐る恐る、尋ねてみる。
「もしよければ、本、読んでくれても構わないですよ」
 それなら私は読書に耽る伏見さんを眺めているから。そう思って告げたけど、伏見さんはあっさり首を横に振る。
「君と話している方が楽しいから、いい」
「そ……そうですか? そう言ってもらえると嬉しいです」
 今度は私が照れたけど、彼はそんな私を真剣な目で見下ろしている。
「通勤中の読書をやめたのは、本に集中していたら、君を見つけられなくなると思ったからだ」
 色素の薄い虹彩は、電車の車窓から差し込む朝日により明るく光って見えた。
 私はその美しい色合いに見入りつつ、じゃあどうして今日の伏見さんは、ホームで読書をしていたんだろうと思う。
「でも今日は、駅で本を読んだ」
 その疑問に答えるように、彼は続ける。
「今日は君が俺を見つけて、呼びかけてくれるのを期待していた」
 やっぱり照れたようにはにかむ、優しい表情で。
「今なら、そうしてくれるんじゃないかって思った。ありがとう、見つけてくれて」

 私は伏見さんのその表情を見上げたまま、しばらく言葉も出せずにいた。
 何かが変わったのがわかった。私達の関係が、以前とは確実に違っていることに気づいた。
 私が自惚れてもいいはずだと思っているのと同じように、伏見さんも私に期待を抱いているんだってことが、わかった。

 もちろんそれは嬉しいことで、不確かだった自惚れが確かなものになりつつあることを喜んでもいいはずなんだけど、とっさには反応できないものだ。
「あ……えっと、こちらこそです……」
 それだけ言うのが精一杯で、あとはもう、黙って彼を見つめていることしかできなかった。
 伏見さんもしばらくの間、私をじっと見下ろしていた。だけどやがて、ふっと目を伏せて呟いた。
「早く、六月にならないかな……」
 その言葉も、生徒さんに聞かれてしまったら、きっと大騒ぎだろう。

 だけどこれでわかった通り、私といる時の伏見さんは『先生』じゃない。
 伏見桐梧さん。私の、今とても大好きな人だ。
PREV← →NEXT 目次
▲top