Tiny garden

Call me, Call you.(2)

 小田急線は、今朝も酷く混み合っていた。

 ホームに人が溢れる時点で空いているはずがないと思っていたけど、車内はいつものようにぎゅうぎゅうだった。なのに私の後からもどんどん乗り込んでくるから、人と人の間を縫うようにして奥へ詰める。
「桜さん、おいで」
 伏見さんが私を呼んで、そっと肘を引いてくれた。
 既に潰されそうになっていた私は、彼によってどうにか救い出された。伏見さんはドアの脇にいて、いつも私の為に小さな隙間を作ってくれる。私がそこへ逃げ込むと、庇うように私の前に立って、押し合いへし合いする人混みから守ってくれる。
「ありがとうございます」
 私がお礼を言うと、伏見さんは静かに微笑む。
「どういたしまして」
 一緒の朝は、いつもこうして伏見さんに守ってもらっている。
 すごく嬉しいことなんだけど、同時に申し訳なさもあって、もちろん伏見さんが数センチの至近距離にいることへの緊張もあって、電車の中ではいつも落ち着かない気分だった。
 視線を上げれば、伏見さんの中性的な顔がすぐそこにある。
 ネクタイばかり見ていた頃とは違って、今はその顔を見ていられるようになった。

 新宿までの乗車時間に、話をするようにもなった。
 と言っても満員電車の中でゆっくりお話なんてできないけど、以前よりは言葉を交わすようになっていた。
「伏見さん、大丈夫ですか?」
 私を庇ってて辛くないんだろうか。そう思って尋ねたら、彼は怪訝そうに目を瞠る。
「大丈夫って、何が?」
「混んでるのに、盾になってもらって悪いなって……」
「それなら平気だよ。心配してくれてありがとう」
 伏見さんは柔らかい声でそう言った。
 彼の声は人混みの中で聞いてもほっとできるような、不思議な優しさに満ちている。それで私の気分も少しだけ楽になり、もうちょっと話してみたくなる。
「前に、生徒さんとホームでお話ししてましたよね」
 あの子達、朝練だって言ってたな。
 朝練、懐かしい響きだった。
「一緒の電車に乗り合わせたりすること、よくあるんですか?」
 私の問いに、伏見さんは少し思案してから、
「たまにあるよ」
 何でもない口調で答えた。
「生徒達の登校より早くに出勤しているから、そう頻繁ではないけどな」
 ということは、なくはないってことだ。
 伏見さんは何も気にしていないようだけど、私は正直、気になる。
 だって生徒さんから見たら、学校の先生――それもとても格好よくて優しくて素敵な先生が、見知らぬ女の子と話をしてたら、もう気になってしょうがなくなると思う。ましてやその子を電車の中で庇っている姿なんて見たら、どういう相手なんだって騒然とするだろう。
「こういうとこ見られたら、からかわれたりしませんか?」
「かもしれない」
 伏見さんがおかしそうに笑う。電車の揺れに合わせて、彼の癖のない髪がさらさらと揺れ、その笑顔を一層引き立てていた。
 思わず見とれる私の前で、彼は穏やかに続けた。
「でも生徒達は、俺が何をしようとからかってくるからな」
「からかわれたこと、あるんですか?」
「いつもだよ。この間なんて、俺が通勤中に本を読んでいただけで大騒ぎだ」
 彼はそこで不服そうに首を捻る。
「何を読んでいるのか聞きに来てくれる子はまだいい。本の内容を勝手に推測して、噂を立てたりする子もいる。やけにくすくす笑われていると思ったら、俺が子供向けの本に夢中にだって噂が流れていた」
 伏見さんは釈然としていないようだけど、私にはそんな生徒さん達の気持ちがわかってしまう。
 きっと『伏見先生』が気になって仕方がないんだろうな。
「それだけ皆、先生に興味があるんですよ」
「そうなのかな。この分だと、俺が天ぷら蕎麦を食べただけでからかわれそうだ」
 彼が続けた話を、どこかで聞いたことがあると思う――確か、坊っちゃんだ。夏目漱石。
「お団子もですね」
 私の言葉に、彼は笑って顎を引いた。
「だから校外では、あえて生徒の目を気にしないようにしている」
 そういうもの、なんだ。
 学生時代に先生のプライベートを想像したことがなかった私には、伏見さんの話がとても新鮮に聞こえた。
 涼葉ちゃんならどうかな。好きだった先生が普段はどう過ごしているか、知っていただろうか。

 それにしても、聞けば聞くほど伏見先生は人気者のようだ。
 私も彼がどんな先生なのか、見てみたくてたまらなくなる。もちろん、高校生ではない今はそんなこと無理だけど。
 あと、伏見先生の担当教科も気になる。やっぱり国語の先生かな。こんな先生から古典を習いたい。現国でもいい。
 だけどこう見えて理科の先生、というギャップもちょっといいかも。伏見さんは細身でスタイルがいいから、白衣を着ても似合うと思うし。
 あるいは、意外なところで英語の先生、とか。
 彼の瞳の色を見上げてみる。鳶色よりも更に色素の薄い虹彩がきれいだと思う。こんな瞳に見つめられて英文を述べられたら、何にも頭に入ってこない自信がある。

 私が好き勝手に想像を巡らせていると、伏見さんがその目を瞬かせた。
「桜さん?」
「あっ……ええと」
 つい、じっと見つめてしまった。失礼だったかな。
 私は慌てて俯いた。恥ずかしさに顔から火が出そうだったけど、伏見さんだってぎょっとしたに違いない。何か言わないと。
「すみません、変な意味で見てたんじゃないんです」
「別に構わないよ」
 あっさりと、伏見さんはそう言ってくれた。
 それで私は恐る恐る顔を上げ、もう一言詫びようとする。
「あの、――」
 だけどその時、電車が揺れた。
 大した揺れじゃない。毎朝よくある程度の揺れは、吊革に掴まっていたらちょっとよろける程度で済む。
 ただ私は、何にも掴まっていなかった。
「わあっ」
 思いっきりバランスを崩して前向きによろけ、何かにどすんとぶつかった。
 いや、『何か』なんて言うのはおかしい。私の目の前にいたのは、私を庇ってくれていた伏見さんだ。
 つまり私が今、思いっきりぶつかってしまったのは。
 そしてぶつかった拍子に思いっきりしがみついてしまったのは――。
「桜さん、大丈夫?」
 伏見さんの声がすぐ真上から聞こえてくる。
 と同時に彼の身体がギターみたいに微かに震えたのがわかって、まずい、と思った。
 だって、私、伏見さんに抱きついちゃってる!
「ご、ごめんなさい!」
 私はとっさに謝ったけど、恥ずかしさのあまり顔が上げられなかった。
 なのに伏見さんから離れようにも、さっきの揺れで私がいた隙間には人が流れ込んできていて、もう一歩たりとも動けそうにない。こわごわ離した手を宙に浮かせた私は、不恰好な姿勢で伏見さんの胸に顔を押しつけている。どうしていいのかわからない。
「本当に、ごめんなさい……!」
 謝らなくちゃいけないのに、顔を見られない。
 離れなくちゃいけないのに、動けない。
 私はもう頭の中がぐちゃぐちゃで、恥ずかしさに息が詰まり、目まで回りそうだった。
 なのに、
「大丈夫」
 伏見さんはいつもの柔らかい声でそう言って。
 それから身動きの取れない私の背中に、そっと片手を添えてくれた。
「危ないから、掴まってて」
「え、で、でも」
「その方が俺も安心するから」
 そう言われて私は、ためらいながらも伏見さんにしがみつき直す。その途端、彼が笑ったような声が聞こえた気がした。

 触れられた背中が、スーツの上着越しでも温かい。
 そして私がしがみつく伏見さんの体温も、同じように温かく感じられた。
 男の人にしては細身だなと思っていたのに、伏見さんは電車が揺れてもほとんど微動だにしなかった。しがみつく私を簡単に受け止めてくれたことだってそうだ。その頼もしさに、私は別の意味で目が回りそうだった。
 その朝、新宿駅に到着するまでの時間が、やけに短く感じられた。

「さっきはすみませんでした!」
 人波に押し流されるように改札を抜けた後、私はやっとのことで伏見さんに謝ることができた。
 平身低頭、ぺこぺこ頭を下げる私に、伏見さんは笑ってかぶりを振る。
「そんなに謝らなくてもいいのに」
「でも思いっきり抱きついちゃいましたし……」
 思い出すと、また顔から火が出そうだ。私は自分の頬に手を当て、それからふと気づいて言い添えた。
「それに、お洋服大丈夫でした? ファンデついちゃってるかも……!」
 満員電車を通勤に使うようになってから、口紅は会社に着いた後で塗るようになっていた。
 だけどファンデーションは塗らないわけにはいかず、人にぶつかる度に申し訳なく思っていたところだ。
「ああ、大丈夫だよ」
 伏見さんはご自分のスーツの上着を確めた後、もう一度私に笑いかけてくれた。
「だから桜さんも、気にしないで」
「はい……」
 気にしないでと言われても、気にしないわけにはいかない。尚も謝りたいのをぐっと堪えて頷けば、彼は思い出したように口を開く。
「今日、電話をしたいんだけど、何時くらいなら帰ってる?」
 唐突に思える質問に、私はたどたどしく答えた。
「えっと、多分、十時には確実に帰ってると思います」
 最近、少しずつだけど残業が増えていた。
 さすがに終電を逃すほど遅くなったことはないけど、部屋に帰れば十時前、というのがここ最近のパターンになりつつあった。
「わかった。今夜、そのくらいに電話をかけるから」
 伏見さんはそう言うと、私に向かって軽く頭を下げてきた。
「それじゃ、俺はそろそろ行くよ。桜さんもお仕事頑張って」
「はい。伏見さんも、頑張ってください」
「ありがとう」
 私がお辞儀を返せば、伏見さんは目を細めてから、踵を返して歩き出す。
 構内を歩く人の流れに、彼の姿はあっという間に呑み込まれた。だけど私は、私だってそろそろ会社へ向かうべきなのにもかかわらず、なかなか歩き出せなかった。
「今日、仕事、手につくかな……」
 独り言を呟きたくもなる。顔にも、手のひらにも、感触というか体温というか、さっきの記憶がしっかり残っている。
 もちろん手につかなくちゃ困るから、深呼吸してから、私もまた歩き出す。
 そして新宿駅を出て、眩しい朝日を浴びた瞬間、我に返った。

 ――伏見さん、電話くれるって言ってたけど。
 彼と電話で話すの、そういえば、初めてだ。
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