Tiny garden

なだらかな道(4)

 商店街から俺の家まではすぐ近くだ。
 着いてすぐに物置へと向かい、しまってあった愛車を取り出す。剥げかけた黒い塗料さえ、今は味のある、渋い輝きに見えてくるから不思議だ。スタンドを外して跨る。そして急いで漕ぎ始める。
 家を出た直後、見覚えのある女の子――桜子ちゃんが、一人で帰ってくるのが見えた。わたあめの袋を握っていて、浴衣じゃなくて普段着だった。向こうもすぐにこっちに気付き、すれ違いざまに声を掛けてくる。
「あれ、颯太くん。お兄ちゃんはもう帰ってる?」
 友達と夏祭りへ行くようになっても、兄貴べったりなのは相変わらずらしい。
「一緒じゃないから知らねー!」
 すかさず俺は笑いながら、だけど振り返らずに答えてやった。
 まさかと思うけど大和の奴、俺と一緒だなんて嘘をついたのか。それとも出かけると言い残しただけで、俺と一緒だって思われるようになっているのか。どっちにしたって間違いだ。
 俺も大和も、今日は女の子とデートなんだから。
 彼女の話なんて妹にはしづらいだろうけど、言っておけばいいのに。こっちだってとっさに取り繕えないっての。
 桜子ちゃんは俺の答えを怪訝に思ったようだ。何事か更に尋ねてきたけど、既に走り出してる耳には聞こえなかった。こっちはこっちで急いでいたから、手だけ振っておいとました。
 後はペダルを全力で漕ぎつつ、再び商店街を目指す。

 牧井はさっきのところで待っていてくれた。夏祭りの熱気からも切り離された、アーケードの切れ目の辺り。支柱に手を突き、真っ直ぐに立って待っていてくれた。
「お待たせ!」
 ブレーキを掛けて叫ぶ。
 途端、彼女の顔にはほっとしたような微笑が浮かんだ。
「進藤くん、ありがとう」
「どういたしまして。さ、乗った乗った」
 車体を少し傾けてから促す。
 女の子を荷台に乗せるのは初めてで、実はむちゃくちゃ緊張していた。でもこういう時にどーんと構えていなくちゃいけないのがヒーロー。だからいかにも平気そうなそぶりでいた。
 牧井も、もしかしたら初めてだったのかもしれない。靴擦れの足を庇いつつ、おっかなびっくり荷台に横座りした。それから俺の肩に手を置く。しがみついてもいいよと言おうとして、汗を掻いていることに気付いたから、結局言わなかった。
 代わりに別のことを言った。
「じゃあ、ドライブに出発」
「うん」
 彼女の返事を汗だくの背中で聞く。
 ハーレーが動き出す。荷台に可愛いヒロインを乗せて。映画のように重厚なエンジン音も、力強い走りもしない。最初はちょっとふらつきつつ、だけど根性で持ち直して真っ直ぐ走る。
 初めて乗せた女の子は、思っていた以上に重かった。
 でも、だからこそ強く実感した。
 今の俺はヒーローだ。牧井はちびの俺でもいいって思ってくれてる。ちょうど同じ背の高さで、靴底の厚さ次第では追い越されてしまうかもしれない俺でも。身長のことでは嫌な思いしかしたことなかったけど、たとえ百五十五センチだろうと女の子とデートだって出来るし二人乗りだって出来る。そういうことに付き合ってくれる子もちゃんといるんだ――そう思うと何だかすごく、うれしかった。
 どこまでも漕いでってやる、と思った。
 七月の夜も暑い。牧井を乗せる前から既に汗が噴き出していたし、息は上がり始めてるし、初めての二人乗りにめちゃくちゃ緊張もしていた。だけどずっと漕いでいたいと思った。ずっと彼女を乗せたまま、いつまでもどこまでも走っていきたかった。

 お祭りで混んでいる辺りは避けて、なるべく人のいない通りをぶらぶら流した。
 商店街の裏路地へ入れば、たちまち静かな、古い住宅街へと出てしまう。あの児童公園がある入り組んだ区域をのんびり走り抜けた。ぽつぽつと照明の点る家々と、白っぽく光る目映い街灯。目を逸らそうと夜空を見上げれば、街灯よりも明るい大きな月が出ている。通り掛かった公園の木々は月の影みたいに真っ黒で、生温い風にざわざわ、不気味に揺れる。虫の声もちりちり聞こえた。
「あ、公園!」
 牧井も気付いて声を上げる。
「そう。あの公園」
 荒い呼吸で応じる。ぶっちゃけあまり余裕はなかった。それが伝わってしまったか、背中は気遣わしげな声を拾う。
「ねえ進藤くん、辛くない? 大丈夫?」
 辛くないと言えば嘘になる。でもそれ以上にいい気分だった。
「平気。この辺、道が平坦だから」
 学校前の急勾配の坂道と違って、ここいらには上り坂も下り坂もなかった。ただただなだらかな道が続いている。イーブンペースで漕いでいられた。
「それにこの自転車さ――」
 呼吸を整えながら俺は言葉を継ぐ。
「並の自転車とは、一味違うからな」
「どういうこと?」
 彼女が上手い具合に聞き返してくれるから、嬉々として答えも言える。
「ハーレーなんだ、この自転車」
「ハーレー? って、ハーレーダビッドソン?」
「それそれ。そう思って、いつも漕ぐことにしてる」
 実際はただのママチャリだ。塗料は剥げかけてるし見た目も不格好。大和なんかは遠慮会釈もなしに俺の夢を壊すようなことを言う。でも、そう思ってるくらいは自由のはずだ。
「そしたらものすごい馬力も出そうだろ?」
 息切れ気味の言葉じゃ説得力もないかもしれない。だけど牧井は、俺の背中で少し笑った。
「本当だね」
 いつだって、彼女に笑われるのはちっとも嫌じゃなかった。馬鹿にされたような気がまるでしない。むしろ俺の気持ちがわかるって、言外に伝わってくるようにさえ感じる。気のせいかもしれないけど。
 そう思ってるくらいは自由のはずだ。
「今の俺ってさあ」
 調子に乗って、ふうふう言いつつ続けてみた。
「何かすっごく、ターミネーターって感じしない?」
 俺にとってのヒーロー。ハーレーの似合う男。本物のターミネーターならこんなに汗だくになってないだろうし、女の子を後ろに乗せたくらいでくたびれたりも、緊張したりもしないだろうけど、そう思い込めたらいくらでも漕いでいけそうな気が。
「ううん、しない」
 牧井はそこで、妙にきっぱり否定した。
 しないのか。しかも笑ってさえくれなかった。俺がちょっと落胆しかけた時、肩に置かれた手に僅かな力が込められた。
 そして、
「進藤くんは、白馬の王子様だよ」
 と言われたから、うっかりペダルを踏み外すところだった。
 王子様って。
 むしろ、白馬って。
「ええ!?」
 息が上がってるくせにこんな時だけはちゃんと叫べる俺。
 振り返れば、視界の端ぎりぎりに牧井の、ちょっとだけ澄ました顔が見えた。
「だって、何回も私のことを救ってくれたよ。そうじゃない?」
 そうだったかなあ。
 俺には牧井を救った記憶なんてなかった。あるのはただ、事あるごとに彼女を気にするようになって、毎日が彼女のことばかりになってしまった、夏休み前の日々の記憶だけだ。そういうことを次から次へと思い出しては、今のこの時間にうれしさを噛み締めたくなる。
 王子様だって。
 しかも、白馬だって。
 ハーレーじゃなくて馬ってのも悪くないな、とこっそり思ってから、一つだけ訂正しておいた。
「けど、白くはないんだよな」
 一応は黒だ。剥げかけてるけど。
 すると牧井はふふっと笑い声を立てる。
「じゃあ黒馬の王子様だね」
 可愛いお姫様を乗せた黒馬は、古い住宅街を静かに駆け抜けていく。
 馬にしちゃスピードは遅い。おまけに王子様は息が上がっている。はっきり言ってあんまり格好ついてないけど、幸せなんだからよしとする。この先に待っているのはお伽話ばりの『めでたしめでたし』だけだ。きっとそう。
 遠くにお祭りの喧騒が聞こえる。祭囃子も離れていく。
 代わりに駅前の明かりが見えてくる。街灯よりも眩しくて、もう一度空を見上げた。
 月の光は冷たくて、熱い吐息が溶けていく。気分もすっとした。

 デートらしいドライブを三十分ほど楽しんだ。
 その後で俺は、バスターミナルまで牧井を送った。まだお祭りの途中とあってか、それほど人気はなかった。
 荷台を降りた彼女は何度も何度もお礼を言ってくる。
「ありがとう。今日はすごく楽しかった」
「こちらこそ」
 Tシャツが身体に張り付くくらい汗を掻いていた。喉なんてもうがらがらだ。だけど疲れた顔も見せたくなかったので、とにかく背を伸ばしておく。
「次は浴衣で来てなんてわがまま言わないからな。歩きやすい格好でいられるとこに行こう」
 でもってさりげなく、次の約束も口にしてみる。
 彼女は少し済まなそうに笑んだ。
「うん。靴擦れなんてしちゃってごめんね」
「牧井のせいじゃないよ。それと、次で挽回するからいい」
「そっか。うん、そう思う方がいいよね」
 もう一度、彼女がしっかり笑んだ時、エンジン音を轟かせるバスが来た。ヘッドライトが辺りを凪ぐようにして通り過ぎ、目の前で停まる。牧井が小さく手を振る。
「じゃあまたね、進藤くん」
 また、と言うのは次のデートでってことだよな。きっと。

 牧井は乗り込んだバスの窓からも手を振ってくれた。
 俺もぶんぶん振り返し、走り去っていくバスのテールライトもしばらく、見えなくなるまで見送った。エンジン音が遠ざかり、ターミナルは急に静かになる。駅前の喧騒も嘘みたいに遠い。
 そして、今更のように寂しくなった。
 彼女がいないと俺は寂しい。大和がいなくても別にどうってことなかったけど、彼女がいなくなるのは辛かった。一緒にいて欲しかった。
 ハーレーもしくは黒馬を、一人で漕いで家まで帰る。喉が渇いていたし腹も減っていたけど、寄り道するつもりはなかった。
 だってほら、牧井が一緒じゃないと楽しくないから。
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